空虚1
たまたま点いていた水泳競技大会の中継を観ていた。トップクラスの選手が泳いでいて、調子が悪いのか僅差で競技相手を抜けずにいる。結局挽回できずにレースを終えて、惜しくも二位という結果が出たところでテレビを消した。泥のようにソファに寝転んだまま、リモコンを放り投げる。もうひと眠りしようと目を瞑った時、翠の悲鳴が響いた。
「もーっ、痛いじゃないのよ。なんでビールの缶がこんなところに転がってるのよ」
「……なんだよ、朝から」
「なんだよ、じゃないわよ。空き缶くらいゴミ箱に捨てなさいよ。転がってるの踏んじゃったじゃない」
「燃えないゴミはいつもビニール袋に直接入れてる。ゴミ箱はないよ」
「ちょっとズボラすぎない? 前はもうちょっと片付いてたわよね。ゴミを捨てる暇もないくらい忙しいの?」
飽きもせず続く翠の小言に、雅久は溜息をついて寝返りを打った。別に忙しくて片付けができないのではない。片付けをする気力が起きないだけだ。
翠と復縁してから二週間になる。二週間前の夜、翠はそのまま雅久の部屋で泊まったが、何事もなく朝を迎えた。それから数日は仕事が溜まっているからと会うことも電話を寄越してくることもなかったし、雅久もまた連絡はしなかった。ボストンバッグを片手に翠が訪れたのは昨夜のことだ。一週間ほど有休を取ったから一緒に過ごしたいとのことだった。張り切って家事をしてくれているのは有り難いが、小言はやめて欲しい。
「お昼ご飯は何がいい? 簡単なものなら作ってもいいけど、部屋の片付けでだいぶ疲れちゃったから外で食べてもいいわね。あ、マロニエに行く? あそこのパンケーキが食べたくなっちゃったわ。その後、夕飯の食材買いましょ。夜はきちんと作るから安心して」
「作ってくれるのか? 料理は苦手だろ」
「わたしだって作る時は作るわよ。パスタだけど」
料理が苦手な翠だが、ホワイトソースのパスタだけは得意だった。学生時代から手料理と言えばパスタが定番で、何度も食べさせられたものだ。
――小野寺さんは、白石さんに何を作るんだろう。
得意料理は? 好きな食べ物は? よく聴く音楽は? 一ヵ月経てば忘れると言ったのに、半月経ってもまだ心の中から消えそうになかった。
―――
マロニエに移動して、翠は予告通りパンケーキを注文した。セットのドリンクはいつもストレートティーにするのに、今日に限ってアイスレモネードだ。
「このあいだ雅久が飲んでるのを見て、わたしも飲みたくなったの」
ちょっとしたワンシーンにもいちいち彼を思い出す。たった数ヵ月前に出会った男にこんなに囚われると思っていなかった。
「もう八月も後半なのに、まだ暑いわね。涼しくなったら旅行に出かけてもいいわね。京都なんてどう? 紅葉が綺麗なの」
「気が早くない?」
「毎日、仕事ばっかりだから楽しみがないとやっていけないのよ。相変わらず社長のお守りよ。いい加減秘書課から異動したいわ」
クリームがふんだんに載ったパンケーキが運ばれてきた。翠は「美味しそう」と眼を輝かせ、ナイフとフォークで手際よく切っていった。ひと口頬張ると目を瞑ってその味を堪能している。グルメリポーター並みのリアクションだなと雅久は思った。
「なんか機嫌がいいんだな」
「久しぶりの休みだもの。雅久は? 開業の準備してるの?」
「……いや」
「そうなの? てっきり着々と準備してるんだと思ったわ。手伝うことがあったら言って。わたしは何をしたらいい?」
「え?」
「わたしもあれから色々調べたのよ。行きつけの鍼灸院の先生がね、今度О脚を改善する道具をどっかの大学とコラボして作るんですって。モニターになってくれる芸能人とかいないかなぁなんて言ってたけど、芸能人にモニター頼むなんて無理よね。雅久はそういう道具作ったりできないの? もしできるならわたし宣伝頑張っちゃうし」
「……」
「あ、あと小規模共済って知ってる? 個人事業主のための退職金制度なんだけど……」
「もういいから、その話はやめてくれないか」
急に煩わしくなって語気を強めて言った。翠が積極的に協力しようとしてくれていることは有り難いが、誘導はされたくない。それに今は何も考えたくなかった。あれほど独立したいと思っていたのに、無理にしなくてもいいかと諦め始めている。不機嫌そうな雅久に戸惑った翠は、小さく「ごめんなさい」と謝り、それからぱったりと会話がなくなった。翠は悪くない。モチベーションが上がらないのを翠のせいにしている自分が間違っているのだ。それでも雅久は謝ることすら億劫だった。
マロニエを出てからスーパーへ向かう途中も、翠はひとりで先々歩いて行く。茶色の髪を靡かせて颯爽と歩く彼女の後姿は凛としながらも寂しそうだった。
「……翠」
呼び掛けると翠は振り向かずに立ち止まる。
「やっぱりわたしのこと、怒ってるわよね」
「え?」
「雅久を振ったくせにやり直したいだなんて勝手よね。雅久なら笑って許してくれるって甘えてたの」
「別に怒ってるわけじゃない……」
「今日はやっぱり帰るわね。また連絡する。来週いっぱいは空いてるから」
あれほど結婚したいとまで愛した女性なのに、なぜこんなに気分が沈んでいるのだろう。翠と上手くいけば周囲に喜ばれるだろうし、しっかり者の彼女なら開業してもサポートしてくれるはずだ。今すぐ追い掛けて「悪かった、一緒に帰ろう」と言えばいいことなのに、意志と行動は一致しない。ちょっと気を抜いたら考えるのはいつも別の人間のことだった
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「もーっ、痛いじゃないのよ。なんでビールの缶がこんなところに転がってるのよ」
「……なんだよ、朝から」
「なんだよ、じゃないわよ。空き缶くらいゴミ箱に捨てなさいよ。転がってるの踏んじゃったじゃない」
「燃えないゴミはいつもビニール袋に直接入れてる。ゴミ箱はないよ」
「ちょっとズボラすぎない? 前はもうちょっと片付いてたわよね。ゴミを捨てる暇もないくらい忙しいの?」
飽きもせず続く翠の小言に、雅久は溜息をついて寝返りを打った。別に忙しくて片付けができないのではない。片付けをする気力が起きないだけだ。
翠と復縁してから二週間になる。二週間前の夜、翠はそのまま雅久の部屋で泊まったが、何事もなく朝を迎えた。それから数日は仕事が溜まっているからと会うことも電話を寄越してくることもなかったし、雅久もまた連絡はしなかった。ボストンバッグを片手に翠が訪れたのは昨夜のことだ。一週間ほど有休を取ったから一緒に過ごしたいとのことだった。張り切って家事をしてくれているのは有り難いが、小言はやめて欲しい。
「お昼ご飯は何がいい? 簡単なものなら作ってもいいけど、部屋の片付けでだいぶ疲れちゃったから外で食べてもいいわね。あ、マロニエに行く? あそこのパンケーキが食べたくなっちゃったわ。その後、夕飯の食材買いましょ。夜はきちんと作るから安心して」
「作ってくれるのか? 料理は苦手だろ」
「わたしだって作る時は作るわよ。パスタだけど」
料理が苦手な翠だが、ホワイトソースのパスタだけは得意だった。学生時代から手料理と言えばパスタが定番で、何度も食べさせられたものだ。
――小野寺さんは、白石さんに何を作るんだろう。
得意料理は? 好きな食べ物は? よく聴く音楽は? 一ヵ月経てば忘れると言ったのに、半月経ってもまだ心の中から消えそうになかった。
―――
マロニエに移動して、翠は予告通りパンケーキを注文した。セットのドリンクはいつもストレートティーにするのに、今日に限ってアイスレモネードだ。
「このあいだ雅久が飲んでるのを見て、わたしも飲みたくなったの」
ちょっとしたワンシーンにもいちいち彼を思い出す。たった数ヵ月前に出会った男にこんなに囚われると思っていなかった。
「もう八月も後半なのに、まだ暑いわね。涼しくなったら旅行に出かけてもいいわね。京都なんてどう? 紅葉が綺麗なの」
「気が早くない?」
「毎日、仕事ばっかりだから楽しみがないとやっていけないのよ。相変わらず社長のお守りよ。いい加減秘書課から異動したいわ」
クリームがふんだんに載ったパンケーキが運ばれてきた。翠は「美味しそう」と眼を輝かせ、ナイフとフォークで手際よく切っていった。ひと口頬張ると目を瞑ってその味を堪能している。グルメリポーター並みのリアクションだなと雅久は思った。
「なんか機嫌がいいんだな」
「久しぶりの休みだもの。雅久は? 開業の準備してるの?」
「……いや」
「そうなの? てっきり着々と準備してるんだと思ったわ。手伝うことがあったら言って。わたしは何をしたらいい?」
「え?」
「わたしもあれから色々調べたのよ。行きつけの鍼灸院の先生がね、今度О脚を改善する道具をどっかの大学とコラボして作るんですって。モニターになってくれる芸能人とかいないかなぁなんて言ってたけど、芸能人にモニター頼むなんて無理よね。雅久はそういう道具作ったりできないの? もしできるならわたし宣伝頑張っちゃうし」
「……」
「あ、あと小規模共済って知ってる? 個人事業主のための退職金制度なんだけど……」
「もういいから、その話はやめてくれないか」
急に煩わしくなって語気を強めて言った。翠が積極的に協力しようとしてくれていることは有り難いが、誘導はされたくない。それに今は何も考えたくなかった。あれほど独立したいと思っていたのに、無理にしなくてもいいかと諦め始めている。不機嫌そうな雅久に戸惑った翠は、小さく「ごめんなさい」と謝り、それからぱったりと会話がなくなった。翠は悪くない。モチベーションが上がらないのを翠のせいにしている自分が間違っているのだ。それでも雅久は謝ることすら億劫だった。
マロニエを出てからスーパーへ向かう途中も、翠はひとりで先々歩いて行く。茶色の髪を靡かせて颯爽と歩く彼女の後姿は凛としながらも寂しそうだった。
「……翠」
呼び掛けると翠は振り向かずに立ち止まる。
「やっぱりわたしのこと、怒ってるわよね」
「え?」
「雅久を振ったくせにやり直したいだなんて勝手よね。雅久なら笑って許してくれるって甘えてたの」
「別に怒ってるわけじゃない……」
「今日はやっぱり帰るわね。また連絡する。来週いっぱいは空いてるから」
あれほど結婚したいとまで愛した女性なのに、なぜこんなに気分が沈んでいるのだろう。翠と上手くいけば周囲に喜ばれるだろうし、しっかり者の彼女なら開業してもサポートしてくれるはずだ。今すぐ追い掛けて「悪かった、一緒に帰ろう」と言えばいいことなのに、意志と行動は一致しない。ちょっと気を抜いたら考えるのはいつも別の人間のことだった
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