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圭介の葛藤4

 ***

 週明けの月曜日、達也は早めに仕事を終わらせてフィットネスクラブへ向かい、受付で退会手続きを済ませた。雅久はいるかと訊ねたら、まだコーチングルームだと言うので暫く中庭のベンチで待つことにする。そのあいだに圭介にメッセージを入れた。

『少し遅くなるけど、夕飯は帰ってから作る。』

 珍しく間を空けずに圭介から返信があった

『腹が減りすぎて待てないからチャーハン食っとく。』

 家に即席で食べられるチャーハンなどない。遠回しに圭介が作っておくと言うことだろう。不器用で彼らしい気遣いに、達也はいつぶりかに嬉しくなった。
 陽が落ちて辺りは暗くなってきたが、中庭の外灯はまだ点かない。どこからともなく聞こえてくる虫の音や、クラブ帰りの生徒たちの笑い声。ベンチで座っているだけの達也を不審そうに一瞥していく。諦めて立ち上がったところ、軽快に走る足音が近付いてきたと思ったら手首を取られた。そのまま引っ張られてすぐ傍の駐車場にあるインプレッサの助手席に押し込まれる。続いて運転席にその人物が乗り込んだ。

「堤先生」

「上から、ベンチで小野寺さんが座ってるのを見て急いで来ました」

「すみません、お忙しいのに」

「会えてよかった」

 運動もしていないのに脈が早くなる。夜でよかったと思った。おそらく真っ赤になっている顔を悟られずに済む。

「今日はどうかしましたか?」

「はい……。えっと、さっき、退会届けを出したんです」

 達也はずっと俯いていたので雅久がどんな表情をしているかは見えない。ただ視界の片隅で雅久から笑みが消えたことと、空気が変わるのだけは感じていた。

「やっぱり僕には圭介しかいないし……圭介も僕しかいない」

「白石さんからちゃんと聞きました?」

 少しの沈黙のあと、大きく頷く。

「今なら間に合うので、取り返しがきく前に先生にきちんとお別れを言おうと……」

「お、お別れって? 取り返しって? 本気なんですか」

「はい。今までご迷惑をおかけしてすみませんでした。それからありがとうございました」

「そんな事務的な答えはいらない。俺の気持ちは聞いてくれないんですか」

「……聞かないほうが……いい」

「俺は小野寺さんのことが、」

 達也はわざとそれに被せて言った。

「先生の場合は、勘違いです。恋人と別れて寂しいから、ちょっと風変わりな人間に興味を持っただけです。それ以外の感情はないはず。まともな男が同性を好きになるなんて有り得ない」

「俺の気持ちも知らないのに言い切るんですか」

「……堤先生の好奇心の相手には、僕は重過ぎると思います」

「好奇心で小野寺さんを抱いたりしない」

「……それに先生も言ったじゃないですか。恋人には一途でいて欲しいって。僕は圭介を裏切れないし、その傍らでやましい気持ちを持ったまま先生と会えない。そういうどっちつかずの人間は堤先生は嫌なんでしょう?」

「でも俺は……」

「ごめんなさい、本当に」

 いっこうにこちらを見ない達也から、意志の固さが窺える。確かに雅久は浮気や二股をするような人間は好きではないし、自分が割り込むことで達也にその嫌な役回りをさせていると分かっている。だが、達也が最終的に選ぶ相手は自分であって欲しかった。達也の健気な一途さに惹かれたのに、今ではそれが腹立たしい。雅久は別れの言葉を受け入れられずに渋っていた。

「一ヵ月も経てば僕のことなんか忘れますよ」

「小野寺さんは俺のことは忘れるんですか」

「おそらく。……でも最後にひとつだけ我儘が許されるなら、お願いがあります」

「なんですか?」

「……キスして、もらえませんか……」

 我慢していたものが零れたように、声が震えていた。雅久は躊躇わずに達也の肩を抱き寄せ、キスをした。達也とキスをするのはこれが最初で最後だろう。そう思うと唇を離すのが惜しくて、深くも浅くもない、押し付けるだけのキスを何度も繰り返した。達也がそれを最後まで拒まなかったことだけが救いだった。

 ―――

 重い足取りでアパートの階段を登る。キスをしたあと、すぐに車から降りて消えてしまった達也を、引き止めることができなかった自分がふがいない。雅久はいつもあと少しのところで手が届かない。今度こそはと思っても、目前で離れていってしまう。

 ――俺と一緒にいてくれる人はこの世にいないんじゃないだろうか。

「雅久」

 聞き慣れた声が彼を呼んだ。雅久の部屋の前で翠が待っていたのだ。

「……翠」

「何度もごめんなさい。だけどやっぱり、雅久とやり直したいの」

 前回は少しも響かなかったその言葉が、今は痛いほど沁みる。誰だって弱っている時に手を差し伸べられると握り返したくなる。翠の足元には空になったペットボトルがあった。雅久が帰ってくるまで、そのペットボトルのお茶を飲みながら過ごしたのだろうか。夜でも蒸し暑い季節だというのに。雅久は翠の前に立つと、彼女の細い体を抱き入れた。今の雅久には、翠にすがるしかなかった。


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