圭介の葛藤3
マンションに着いてドアを開けるとリビングの灯りが点いていて、達也がいることに胸を撫で下ろす。うっかり杖をついていなかったので、慌てていつもの歩き方を装った。達也と諍いがあってから空気の悪い毎日を過ごしている。いつも仕事が終わったら直帰する達也も、残業するからと言って帰りが遅いことが多い。夕飯の支度は早朝に起きて済ませておき、洗濯は圭介が知らないあいだに終わっている。生活スタイルのあきらかな変化を見る限り達也も今の状況が息苦しいのだろう。今日もどこかに出掛けるのだと思っていたので、圭介の帰宅時間に家にいることは意外だった。
「たつ……」
リビングに入ると達也の姿はなかった。気配はあるのに姿が見えないことに不安を覚えた時、
「あ、おかえり……」
畳んだ洗濯物を持った達也が隣の部屋から出てきた。
「先に食べる? 今日は暑いし、汗かいてるだろうから先にお風呂入るならお湯入れてくるけど」
「……先に食う」
「じゃ、用意するから待ってて」
会話に変わりはないが、達也は目を合わせようとしないし、表情も硬い。いつまでこんなギスギスした空気が続くのかと考えるとさすがの圭介も憂鬱だ。ローテーブルに賃貸アパートのパンフレットがあった。
「……なにこれ」
達也はやや焦りの色を見せながらも、平静を努めて答えた。
「引っ越そうかと、思って。近くに」
「誰が」
「僕が。ほら、前も言ったでしょ。なるべく手を貸さないようにするって。僕のお節介のせいで圭介が自力で治す機会を奪ってるんじゃないかと思って。一緒にいるとどうしても口出しそうになるからさ。それに……ちょっと、距離を置いたほうがいいかなって」
「そうやって少しずつ俺から離れるんだな」
「違うよ! 僕は圭介の足が良くなって欲しいだけだ。それにちょくちょく様子は見に来るし、困ったことがあったらすぐに呼んでくれたら……」
今ここで達也が出て行ったら修復は不可能だろう。潮時だと覚悟して圭介はけしかけた。
「もういいよ。俺の世話なんかしたくないだろ。出て行くんなら荷物一気に持って行けよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何か勘違いしてない? 僕は別に圭介と別れるわけじゃ、」
「取り繕わなくていいから、はっきり言えよ。あいつのところに行くんだろ」
「あいつ?」
「堤」
達也は断固それはないと首を横に振っているが、耳まで真っ赤だ。雅久の名前を出しただけで動揺するのだから、達也も雅久に特別な感情を抱いているのはあきらかだ。胸が焼けそうなほどの苛々を感じながら圭介は持っていた杖をぞんざいに放り投げた。それを見た達也は唖然として固まった。圭介はしっかりした足で達也を寝室まで引っ張る。ベッドに突き飛ばされた達也は鬼気迫る圭介の表情よりも、杖なしで難なく歩く圭介の足に意識を取られていた。
「け、圭介、足」
「お前は本当に鈍感だな」
「ちゃんと歩けるの……?」
「まともに歩けないフリをするのはけっこう大変だったぜ」
「フリ……?」
達也は事故にあってからこれまでのことを走馬灯のように思い返した。
ギプスが取れて足に力が入らないと訴えた時の悔しそうな表情。サッカーを辞めると言い出した時の寂しそうな背中。リハビリは確かに消極的だった。達也が手を貸すといつも済まなそうに笑う。相談もなく辞めてしまったクラブ。いまだに理由を聞かされていない。
「……いつから……?」
「はっきりとは覚えていない。でもリハビリを始める頃にはだいぶ良かった」
とすれば、およそ四ヶ月は偽っていたことになる。達也はこの複雑な思いをどう伝えればいいのか分からなかった。足が治って良かったと喜んでやるべきところなのだろうが、真っ先に出てきたのは責める言葉だった。
「な、なんで……なんで黙ってたんだよ……。なんで何も言わなかったんだよ……ぼ、僕がどれだけ……。どうして……」
「お前がサッカーサッカーってうるさいからだよッ!!」
思わぬ理由に思考が止まる。
「俺はそこまでサッカーをやりたいわけじゃないんだ。例え復帰できる力があっても、もう選手として戻りたくないんだ。俺の足が治ったら、お前、期待するだろ。もうそれを聞くのも嫌だし、応えたくもない。足が治らないままだったらお前も諦めるかと思ったけど、大概しつこいな。したくもないリハビリ勧めて、治ったらまたサッカーやれとか」
「何も話してくれなかったのは僕のせい……? クラブを辞めたのはリハビリをする必要がなかったから? それにしたって」
「我ながらひどいとは思うぜ。お前を試したんだ」
「試したって……?」
「どうする。お前はもう俺の世話をする必要はない。俺も頼まれてもサッカーをするつもりはない。愛想も尽きてきただろ。あいつのところに行くか?」
「なんでそんなこと言うんだよ」
「ちょうどいいからな。俺宛に届いた手紙、誰からだったと思う? 秋山だよ」
「秋山……って、もしかして」
「そう。俺が事故に遭う直前、俺の部屋でお前が鉢合わせした奴だよ。まだ俺のことが好きなんだってよ」
秋山という男の顔は達也もよく覚えている。まだ圭介と一緒に住んでいなかった頃で、当時週末ごとに達也が圭介の部屋を訪れて家事をするのが常だった。その日も昼食を済ませて午後から圭介の部屋に向かった。ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは下着一枚だけ身に着けた圭介と、浴室から出たばかりの見知らぬ男の姿だった。達也と同じくらいの背格好だが、引き締まった肉体を持った若い男。それが秋山だ。ベッドはことを終えたばかりのようで、シーツや枕、丸めたティッシュ、そしていつも達也とセックスをする時に使うローションのチューブが転がっていた。何をしたかは一目瞭然で、達也はショックと怒りを圭介に感情のままぶつけ、話を聞かずに家を飛び出した。圭介は達也を追い掛けて呼び止めようとしたが達也は聞く耳を持たず、頭に血が昇っていることもあって周りをよく見ていなかった。信号が点滅している横断歩道を進んでいる時、横からスピードを出した車が達也に向かってきた。庇おうと咄嗟に飛び出した圭介が代わりに接触したのだった。
――ごめん、圭介! 僕がちゃんと話を聞かなかったから、意地を張ったから! ――
――自業自得だよ。達也は悪くない。――
秋山は圭介の入院中に一度だけ見舞いに現れた。彼らが病室で何を話したのか達也は知らない。ただ、圭介が秋山に「もう来るな」と告げたというのは、あとから聞いた。それから秋山とは連絡を絶っていたはずだ。達也は圭介の言っていることがどこからどこまでが真実で本心なのか計りかねた。
「お前が憧れてる『サッカーをしている圭介』はもういないんだ。なんの取柄もない、思いやりもない、落ちぶれた男だ。お前が堤のところに行くんなら俺は秋山とよりを戻してもいいと思ってる。どうするよ、本当は行きたいんだろ?」
自分を蔑んで強がっているが、初めて見る圭介の悲しそうな眼が達也には「離れたくない」と言っているようにしか聞こえなかった。練習でも怪我をした時も、サッカーを辞めた時ですら泣かなかった圭介が泣いている。
「……圭介は……僕と離れたいの……?」
「……しょうがねぇだろ。俺だって自分がろくでもない奴だって自覚してるよ。サッカーしかできることがないのに才能はない。お前を傷付けたのに優しくしてやることもできないし、ずっと嘘をついてきた。愛想尽かされて当然だろ。……どうすんだよ。気持ち誤魔化して一緒にいるくらいなら、もういっそあいつのところに行け」
圭介はその場に膝をついて項垂れた。いつも気丈な彼が初めて弱みを見せた。同情かもしれない、懺悔かもしれない。それでも達也はやっぱり彼が恋しいと思った。ベッドから下りた達也は圭介を抱き締め、髪を撫でる。
「圭介の足が治って本当に良かった。ごめんね、僕がずっとプレッシャーかけてたから言い出せなかったんだよね。でも安心して。僕はどこにも行かない。圭介と一緒にいる」
「……本当に」
「うん。好きだよ、圭介。だから僕と一緒にいてくれる?」
「……俺でいいのかよ」
「当たり前だろ。ずっと一緒だったんだ。……これからも」
「……うん」
「約束だよ」
⇒
「たつ……」
リビングに入ると達也の姿はなかった。気配はあるのに姿が見えないことに不安を覚えた時、
「あ、おかえり……」
畳んだ洗濯物を持った達也が隣の部屋から出てきた。
「先に食べる? 今日は暑いし、汗かいてるだろうから先にお風呂入るならお湯入れてくるけど」
「……先に食う」
「じゃ、用意するから待ってて」
会話に変わりはないが、達也は目を合わせようとしないし、表情も硬い。いつまでこんなギスギスした空気が続くのかと考えるとさすがの圭介も憂鬱だ。ローテーブルに賃貸アパートのパンフレットがあった。
「……なにこれ」
達也はやや焦りの色を見せながらも、平静を努めて答えた。
「引っ越そうかと、思って。近くに」
「誰が」
「僕が。ほら、前も言ったでしょ。なるべく手を貸さないようにするって。僕のお節介のせいで圭介が自力で治す機会を奪ってるんじゃないかと思って。一緒にいるとどうしても口出しそうになるからさ。それに……ちょっと、距離を置いたほうがいいかなって」
「そうやって少しずつ俺から離れるんだな」
「違うよ! 僕は圭介の足が良くなって欲しいだけだ。それにちょくちょく様子は見に来るし、困ったことがあったらすぐに呼んでくれたら……」
今ここで達也が出て行ったら修復は不可能だろう。潮時だと覚悟して圭介はけしかけた。
「もういいよ。俺の世話なんかしたくないだろ。出て行くんなら荷物一気に持って行けよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何か勘違いしてない? 僕は別に圭介と別れるわけじゃ、」
「取り繕わなくていいから、はっきり言えよ。あいつのところに行くんだろ」
「あいつ?」
「堤」
達也は断固それはないと首を横に振っているが、耳まで真っ赤だ。雅久の名前を出しただけで動揺するのだから、達也も雅久に特別な感情を抱いているのはあきらかだ。胸が焼けそうなほどの苛々を感じながら圭介は持っていた杖をぞんざいに放り投げた。それを見た達也は唖然として固まった。圭介はしっかりした足で達也を寝室まで引っ張る。ベッドに突き飛ばされた達也は鬼気迫る圭介の表情よりも、杖なしで難なく歩く圭介の足に意識を取られていた。
「け、圭介、足」
「お前は本当に鈍感だな」
「ちゃんと歩けるの……?」
「まともに歩けないフリをするのはけっこう大変だったぜ」
「フリ……?」
達也は事故にあってからこれまでのことを走馬灯のように思い返した。
ギプスが取れて足に力が入らないと訴えた時の悔しそうな表情。サッカーを辞めると言い出した時の寂しそうな背中。リハビリは確かに消極的だった。達也が手を貸すといつも済まなそうに笑う。相談もなく辞めてしまったクラブ。いまだに理由を聞かされていない。
「……いつから……?」
「はっきりとは覚えていない。でもリハビリを始める頃にはだいぶ良かった」
とすれば、およそ四ヶ月は偽っていたことになる。達也はこの複雑な思いをどう伝えればいいのか分からなかった。足が治って良かったと喜んでやるべきところなのだろうが、真っ先に出てきたのは責める言葉だった。
「な、なんで……なんで黙ってたんだよ……。なんで何も言わなかったんだよ……ぼ、僕がどれだけ……。どうして……」
「お前がサッカーサッカーってうるさいからだよッ!!」
思わぬ理由に思考が止まる。
「俺はそこまでサッカーをやりたいわけじゃないんだ。例え復帰できる力があっても、もう選手として戻りたくないんだ。俺の足が治ったら、お前、期待するだろ。もうそれを聞くのも嫌だし、応えたくもない。足が治らないままだったらお前も諦めるかと思ったけど、大概しつこいな。したくもないリハビリ勧めて、治ったらまたサッカーやれとか」
「何も話してくれなかったのは僕のせい……? クラブを辞めたのはリハビリをする必要がなかったから? それにしたって」
「我ながらひどいとは思うぜ。お前を試したんだ」
「試したって……?」
「どうする。お前はもう俺の世話をする必要はない。俺も頼まれてもサッカーをするつもりはない。愛想も尽きてきただろ。あいつのところに行くか?」
「なんでそんなこと言うんだよ」
「ちょうどいいからな。俺宛に届いた手紙、誰からだったと思う? 秋山だよ」
「秋山……って、もしかして」
「そう。俺が事故に遭う直前、俺の部屋でお前が鉢合わせした奴だよ。まだ俺のことが好きなんだってよ」
秋山という男の顔は達也もよく覚えている。まだ圭介と一緒に住んでいなかった頃で、当時週末ごとに達也が圭介の部屋を訪れて家事をするのが常だった。その日も昼食を済ませて午後から圭介の部屋に向かった。ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは下着一枚だけ身に着けた圭介と、浴室から出たばかりの見知らぬ男の姿だった。達也と同じくらいの背格好だが、引き締まった肉体を持った若い男。それが秋山だ。ベッドはことを終えたばかりのようで、シーツや枕、丸めたティッシュ、そしていつも達也とセックスをする時に使うローションのチューブが転がっていた。何をしたかは一目瞭然で、達也はショックと怒りを圭介に感情のままぶつけ、話を聞かずに家を飛び出した。圭介は達也を追い掛けて呼び止めようとしたが達也は聞く耳を持たず、頭に血が昇っていることもあって周りをよく見ていなかった。信号が点滅している横断歩道を進んでいる時、横からスピードを出した車が達也に向かってきた。庇おうと咄嗟に飛び出した圭介が代わりに接触したのだった。
――ごめん、圭介! 僕がちゃんと話を聞かなかったから、意地を張ったから! ――
――自業自得だよ。達也は悪くない。――
秋山は圭介の入院中に一度だけ見舞いに現れた。彼らが病室で何を話したのか達也は知らない。ただ、圭介が秋山に「もう来るな」と告げたというのは、あとから聞いた。それから秋山とは連絡を絶っていたはずだ。達也は圭介の言っていることがどこからどこまでが真実で本心なのか計りかねた。
「お前が憧れてる『サッカーをしている圭介』はもういないんだ。なんの取柄もない、思いやりもない、落ちぶれた男だ。お前が堤のところに行くんなら俺は秋山とよりを戻してもいいと思ってる。どうするよ、本当は行きたいんだろ?」
自分を蔑んで強がっているが、初めて見る圭介の悲しそうな眼が達也には「離れたくない」と言っているようにしか聞こえなかった。練習でも怪我をした時も、サッカーを辞めた時ですら泣かなかった圭介が泣いている。
「……圭介は……僕と離れたいの……?」
「……しょうがねぇだろ。俺だって自分がろくでもない奴だって自覚してるよ。サッカーしかできることがないのに才能はない。お前を傷付けたのに優しくしてやることもできないし、ずっと嘘をついてきた。愛想尽かされて当然だろ。……どうすんだよ。気持ち誤魔化して一緒にいるくらいなら、もういっそあいつのところに行け」
圭介はその場に膝をついて項垂れた。いつも気丈な彼が初めて弱みを見せた。同情かもしれない、懺悔かもしれない。それでも達也はやっぱり彼が恋しいと思った。ベッドから下りた達也は圭介を抱き締め、髪を撫でる。
「圭介の足が治って本当に良かった。ごめんね、僕がずっとプレッシャーかけてたから言い出せなかったんだよね。でも安心して。僕はどこにも行かない。圭介と一緒にいる」
「……本当に」
「うん。好きだよ、圭介。だから僕と一緒にいてくれる?」
「……俺でいいのかよ」
「当たり前だろ。ずっと一緒だったんだ。……これからも」
「……うん」
「約束だよ」
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