一線1
右のこめかみを見られたくなくて前髪でなんとか誤魔化そうとしたが、すぐに上司に見破られた。
「小野寺、その痣どうしたの」
達也のこめかみには真っ青の斑点が目立っていた。咄嗟に手を当てて隠す。
「寝ぼけてたら階段から落ちて……」
「ははは! バッカだねぇ! 小野寺っておっちょこちょいなんだな。内勤で良かったな。営業だったらちょっと格好つかないもんな」
「ハイ……」
「あ、今日五時に常務が来るの。会議室取っといて」
五時から会議なら、今日は定時には帰れないだろう。達也は圭介に遅くなると連絡を入れようとして止めた。昨夜のことを思い出すと、とてもじゃないが普通に接する気にならない。いつもは残業を億劫に思う達也も今日だけは助かったと安堵した。
昨夜、雅久の家を飛び出したあと駅まで無我夢中で走った。治まらない興奮を走ることで紛らわそうとした。腰に回された腕の強さや、耳にかかる息遣いや、手つき。力強いのにどこか繊細で、初めて行為をした時のような高揚感だった。電車に乗っているあいだに気持ちは落ち着いたが、後始末をしないままの体と下着が臭わないかとそれだけが心配だった。家に着いたら深夜一時を過ぎていて、圭介がもう寝ていることを願ったが、叶わなかった。リビングのソファでテレビも点けずに、圭介は憤然とした面持ちで達也を待っていた。
「……遅くなって……」
「ごめん」という言葉は圭介の怒気の籠った言葉に被された。
「どこに行ってた」
「……街で、フラフラしてた」
「夕方の六時から七時間もひとりでウロウロしたのか? 遊び方も知らない奴が人ごみの中で何時間もいられると思えないけどな」
圭介が怒るのも無理はない。責められても受け入れるつもりだ。だが、それよりまず体を洗いたかった。匂いを気にするあまり圭介の言葉が頭に入らない。
「こんな時間まで何やってたんだよ。正直に言ってみろ」
「本当にごめん。でも、先にお風呂に入ってきてもいいかな……」
「そのあいだに言い訳でも考えるのか」
図星を突かれて目を逸らしてしまった。圭介が自分の隣を叩いて「来い」と命令するが、達也はためらった。いつもより短気らしい圭介は声を張る。
「来いっつってんだろ!」
おずおず近付いた達也は腰を下ろす前に強く手首を引かれてキスをされた。無理やり喉の奥まで舌を入れられて苦しさに呻る。口内で乱暴になっている圭介からは愛や欲など感じられない。あるのは疑いだけだった。床に倒されて圭介が達也の服を脱がそうとすると、達也は必死に抵抗した。
「今日は駄目!」
「うるせぇ! さっさと脱げ!」
「頼むよ、本当に勘弁して!」
「後ろめたいことがないなら、堂々としてればいいだろ! 俺に言えないことしてたんだろ!」
決め付けられて達也は悔しくなった。確かに想定外にやましい事態はあったけれど、ギリギリのところで貞節を守った。圭介に申し訳ない気持ちはある。でも、はなから疑われていることは哀しい。
「は、話を聞いてくれてもいいじゃないか……」
「聞いてやるよ、体にな」
ベルトに手を掛けられて達也は慌てて圭介の手を払いのけた。今まで圭介を拒んだことがなかったのに、抵抗されて圭介も苛立ちを隠せない。力任せにシャツを引っ張ったせいでボタンが床に散らばった。何がなんでも許すまいとして体を丸めている達也の髪を掴んで無理やり振り向かせる。
「なんだよ、その恨めしそうな眼は」
「……な、なんで僕ばっかり……け、圭介だって、何も話さないじゃないか……」
達也の言葉に、圭介は顔をしかめる。
「あ、足の具合も……なんでクラブを辞めたのかも……て、手紙だって……」
「……手紙はお前には関係ない」
「それなら、僕がどこで何をしたのかも、圭介には関係ない」
達也の髪を掴んでいる圭介の手に力が入る。突然に雅久の笑顔が達也の脳裏をよぎった。
「堤先生は、ちゃんと聞いてくれるのに……」
「……やっぱり、あいつかよ」
直後に強烈な平手が飛んで勢いで机の角でこめかみを打った。床に倒れ込んだ達也はあらゆる方向からの痛みに身動きができず、そのまま意識を失った。
目が覚めた時には朝になっていて、圭介の姿はどこにも見当たらなかった。話を聞いてくれない、話をしてくれない、暴力に愛があると思えない。達也は自分の存在価値を見出せず、シャワーを浴びながら雅久に無性に会いたくなった。
***
達也に悪かったと言いながら、あっけなく欲望に負けてしまった自制心の弱さに、雅久はほとほと自分に呆れた。あの一件からまた悶々と後悔と自問自答を繰り返している。同性に興味を持ったことなどないのに、どうも達也を見ていると抑制がきかなくなる。付き合いの長かった翠と別れて、急に体を持て余したのが悪かったのだろうか。それにしても男相手に盛らなくてもいいだろう。このひどい欲求不満はもしかしたら他の男でも反応するのだろうか。そう思いながら隣の席で連絡カードを書いている宮崎の横顔をまじまじと見つめてみる。
「ちょっと何よ、堤先生~。俺の顔になんか付いてる?」
「宮崎先生、若い頃モテたでしょう」
「今だってそこそこモテるよ? 若い頃は、はべらせてたけどね」
宮崎は現在独身だが、二十代の頃に一度結婚して三年経たずに離婚したと聞いたことがある。それほど親しい間柄でもないのに、急に他人の過去を探りたくなるのは、かつてない自分の異変によほど戸惑っているからだろう。かと言って無遠慮に聞くこともできずに溜息をつくばかりだ。
「なによ、このあいだから溜息ばっかりで。悩み事?」
「悩み事というか、自分の性欲の強さに参ってます」
頬杖をついて投げやりに答えると、宮崎は声を上げて笑った。
「そういえば堤先生、彼女いるよね。そんなにおアツいの」
「いや、彼女とはとっくに別れました。そのせいかな、なんかムラムラするんですよね」
「しょうがないよね、堤先生若いし、溜まるのも無理ないね。若いおねーちゃんにしてもらったら?」
「誰でもいいわけじゃないというか……」
「あー既に決めてる人がいるのね。付き合えばいいじゃない」
「そんなカンタンな相手じゃないんですよね。恋人いるし」
男だし、とはさすがに言えなかった。
「堤先生も色々大変なんだね。でも、それって別に性欲が強いとかの話じゃないでしょ。ようは恋してるんでしょ」
「こ、恋」
「好きな人見てムラムラしちゃうのは当たり前でしょう」
「す、好きな人」
「違うの?」
こちらに向いた宮崎と間近で顔を見合わせる。小皺や白髪はあるが、雅久から見ても男前だと判断できる。……が、別に胸が高鳴るわけでもおかしな気分になることはない。チャイムが鳴ったので話はそこで終了した。宮崎が「俺も今日はソープ行こう」と大っぴらに言ったことは聞かなかったことにする。
昼食を摂りに行くためにクラブを出た時だった。雅久の車の前で人が立っているのを見た。真夏の太陽光が眩しすぎて遠目では分からなかったが、近付いてみて翠であると気付く。デニムパンツにロングシャツを合わせただけのシンプルな格好だが、翠はスタイルがいいので立っているだけで目立つ。翠はまるで付き合い始めの頃のような無邪気な笑顔で手を振った。
「どうかしたの」
「雅久に会いたくなって。昼休みでしょ? 一緒にランチに行かない?」
「……どうして?」
「また会いに来るって言ったでしょ」
「できれば仕事が終わってからのほうが助かるな」
「なんだか冷たいのね。別れる時はあんなにすがってくれたのに」
「もう終わったんだろう。それにきみにはもう付き合ってる人がいるじゃないか。彼に悪いと思わないのか。不誠実だろ」
少し険を込めて言った。それが彼女のためでもあると思ったのだ。やはり外に出るのは止めようと背を向けた時、翠が言った。
「やり直して欲しいの」
雅久は目を大きくして振り返る。
「わたし、やっぱり雅久じゃないと駄目なの。わたしのこと分かってくれるのは雅久しかいないのよ。だから」
「今、付き合っている彼とは別れたのか?」
「それは……」
翠は途端に口ごもった。やり直したいというのは本心なのかもしれないが、それが上手くいかなかった時のための逃げ道を用意している。すべて断ち切ってまで雅久を求めているわけではないのだ。
「……俺を振ったのはきみだ」
「分かってるわ」
「昔にもあったよな。すれ違いの生活が続いて翠が浮気した時、俺が離れようとしたら、謝ってきた」
「……あった……わね」
「翠は別に俺を好きなんじゃないと思う。一緒にいる時間が長かったから、寂しい気がしてるだけだよ」
「雅久は寂しくないの!?」
「寂しかったよ。でも俺は、俺だけを好きでいてくれる人がいい」
本当はこういう流れになるのではないかと頭のどこかで予想はしていた。彼女の性格はよく理解しているつもりだ。もしかしたら、もっと早く言われていれば寄りを戻したかもしれない。気まぐれで自分勝手な彼女を最後に受け入れてやれるのは自分だと思ったかもしれない。けれども、今の雅久には復縁という選択肢はもうなかった。雅久の中には理性やモラルを揺るがす大きな何かがある。翠がそれを打ち消す存在に再び戻るには遅すぎた。
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「小野寺、その痣どうしたの」
達也のこめかみには真っ青の斑点が目立っていた。咄嗟に手を当てて隠す。
「寝ぼけてたら階段から落ちて……」
「ははは! バッカだねぇ! 小野寺っておっちょこちょいなんだな。内勤で良かったな。営業だったらちょっと格好つかないもんな」
「ハイ……」
「あ、今日五時に常務が来るの。会議室取っといて」
五時から会議なら、今日は定時には帰れないだろう。達也は圭介に遅くなると連絡を入れようとして止めた。昨夜のことを思い出すと、とてもじゃないが普通に接する気にならない。いつもは残業を億劫に思う達也も今日だけは助かったと安堵した。
昨夜、雅久の家を飛び出したあと駅まで無我夢中で走った。治まらない興奮を走ることで紛らわそうとした。腰に回された腕の強さや、耳にかかる息遣いや、手つき。力強いのにどこか繊細で、初めて行為をした時のような高揚感だった。電車に乗っているあいだに気持ちは落ち着いたが、後始末をしないままの体と下着が臭わないかとそれだけが心配だった。家に着いたら深夜一時を過ぎていて、圭介がもう寝ていることを願ったが、叶わなかった。リビングのソファでテレビも点けずに、圭介は憤然とした面持ちで達也を待っていた。
「……遅くなって……」
「ごめん」という言葉は圭介の怒気の籠った言葉に被された。
「どこに行ってた」
「……街で、フラフラしてた」
「夕方の六時から七時間もひとりでウロウロしたのか? 遊び方も知らない奴が人ごみの中で何時間もいられると思えないけどな」
圭介が怒るのも無理はない。責められても受け入れるつもりだ。だが、それよりまず体を洗いたかった。匂いを気にするあまり圭介の言葉が頭に入らない。
「こんな時間まで何やってたんだよ。正直に言ってみろ」
「本当にごめん。でも、先にお風呂に入ってきてもいいかな……」
「そのあいだに言い訳でも考えるのか」
図星を突かれて目を逸らしてしまった。圭介が自分の隣を叩いて「来い」と命令するが、達也はためらった。いつもより短気らしい圭介は声を張る。
「来いっつってんだろ!」
おずおず近付いた達也は腰を下ろす前に強く手首を引かれてキスをされた。無理やり喉の奥まで舌を入れられて苦しさに呻る。口内で乱暴になっている圭介からは愛や欲など感じられない。あるのは疑いだけだった。床に倒されて圭介が達也の服を脱がそうとすると、達也は必死に抵抗した。
「今日は駄目!」
「うるせぇ! さっさと脱げ!」
「頼むよ、本当に勘弁して!」
「後ろめたいことがないなら、堂々としてればいいだろ! 俺に言えないことしてたんだろ!」
決め付けられて達也は悔しくなった。確かに想定外にやましい事態はあったけれど、ギリギリのところで貞節を守った。圭介に申し訳ない気持ちはある。でも、はなから疑われていることは哀しい。
「は、話を聞いてくれてもいいじゃないか……」
「聞いてやるよ、体にな」
ベルトに手を掛けられて達也は慌てて圭介の手を払いのけた。今まで圭介を拒んだことがなかったのに、抵抗されて圭介も苛立ちを隠せない。力任せにシャツを引っ張ったせいでボタンが床に散らばった。何がなんでも許すまいとして体を丸めている達也の髪を掴んで無理やり振り向かせる。
「なんだよ、その恨めしそうな眼は」
「……な、なんで僕ばっかり……け、圭介だって、何も話さないじゃないか……」
達也の言葉に、圭介は顔をしかめる。
「あ、足の具合も……なんでクラブを辞めたのかも……て、手紙だって……」
「……手紙はお前には関係ない」
「それなら、僕がどこで何をしたのかも、圭介には関係ない」
達也の髪を掴んでいる圭介の手に力が入る。突然に雅久の笑顔が達也の脳裏をよぎった。
「堤先生は、ちゃんと聞いてくれるのに……」
「……やっぱり、あいつかよ」
直後に強烈な平手が飛んで勢いで机の角でこめかみを打った。床に倒れ込んだ達也はあらゆる方向からの痛みに身動きができず、そのまま意識を失った。
目が覚めた時には朝になっていて、圭介の姿はどこにも見当たらなかった。話を聞いてくれない、話をしてくれない、暴力に愛があると思えない。達也は自分の存在価値を見出せず、シャワーを浴びながら雅久に無性に会いたくなった。
***
達也に悪かったと言いながら、あっけなく欲望に負けてしまった自制心の弱さに、雅久はほとほと自分に呆れた。あの一件からまた悶々と後悔と自問自答を繰り返している。同性に興味を持ったことなどないのに、どうも達也を見ていると抑制がきかなくなる。付き合いの長かった翠と別れて、急に体を持て余したのが悪かったのだろうか。それにしても男相手に盛らなくてもいいだろう。このひどい欲求不満はもしかしたら他の男でも反応するのだろうか。そう思いながら隣の席で連絡カードを書いている宮崎の横顔をまじまじと見つめてみる。
「ちょっと何よ、堤先生~。俺の顔になんか付いてる?」
「宮崎先生、若い頃モテたでしょう」
「今だってそこそこモテるよ? 若い頃は、はべらせてたけどね」
宮崎は現在独身だが、二十代の頃に一度結婚して三年経たずに離婚したと聞いたことがある。それほど親しい間柄でもないのに、急に他人の過去を探りたくなるのは、かつてない自分の異変によほど戸惑っているからだろう。かと言って無遠慮に聞くこともできずに溜息をつくばかりだ。
「なによ、このあいだから溜息ばっかりで。悩み事?」
「悩み事というか、自分の性欲の強さに参ってます」
頬杖をついて投げやりに答えると、宮崎は声を上げて笑った。
「そういえば堤先生、彼女いるよね。そんなにおアツいの」
「いや、彼女とはとっくに別れました。そのせいかな、なんかムラムラするんですよね」
「しょうがないよね、堤先生若いし、溜まるのも無理ないね。若いおねーちゃんにしてもらったら?」
「誰でもいいわけじゃないというか……」
「あー既に決めてる人がいるのね。付き合えばいいじゃない」
「そんなカンタンな相手じゃないんですよね。恋人いるし」
男だし、とはさすがに言えなかった。
「堤先生も色々大変なんだね。でも、それって別に性欲が強いとかの話じゃないでしょ。ようは恋してるんでしょ」
「こ、恋」
「好きな人見てムラムラしちゃうのは当たり前でしょう」
「す、好きな人」
「違うの?」
こちらに向いた宮崎と間近で顔を見合わせる。小皺や白髪はあるが、雅久から見ても男前だと判断できる。……が、別に胸が高鳴るわけでもおかしな気分になることはない。チャイムが鳴ったので話はそこで終了した。宮崎が「俺も今日はソープ行こう」と大っぴらに言ったことは聞かなかったことにする。
昼食を摂りに行くためにクラブを出た時だった。雅久の車の前で人が立っているのを見た。真夏の太陽光が眩しすぎて遠目では分からなかったが、近付いてみて翠であると気付く。デニムパンツにロングシャツを合わせただけのシンプルな格好だが、翠はスタイルがいいので立っているだけで目立つ。翠はまるで付き合い始めの頃のような無邪気な笑顔で手を振った。
「どうかしたの」
「雅久に会いたくなって。昼休みでしょ? 一緒にランチに行かない?」
「……どうして?」
「また会いに来るって言ったでしょ」
「できれば仕事が終わってからのほうが助かるな」
「なんだか冷たいのね。別れる時はあんなにすがってくれたのに」
「もう終わったんだろう。それにきみにはもう付き合ってる人がいるじゃないか。彼に悪いと思わないのか。不誠実だろ」
少し険を込めて言った。それが彼女のためでもあると思ったのだ。やはり外に出るのは止めようと背を向けた時、翠が言った。
「やり直して欲しいの」
雅久は目を大きくして振り返る。
「わたし、やっぱり雅久じゃないと駄目なの。わたしのこと分かってくれるのは雅久しかいないのよ。だから」
「今、付き合っている彼とは別れたのか?」
「それは……」
翠は途端に口ごもった。やり直したいというのは本心なのかもしれないが、それが上手くいかなかった時のための逃げ道を用意している。すべて断ち切ってまで雅久を求めているわけではないのだ。
「……俺を振ったのはきみだ」
「分かってるわ」
「昔にもあったよな。すれ違いの生活が続いて翠が浮気した時、俺が離れようとしたら、謝ってきた」
「……あった……わね」
「翠は別に俺を好きなんじゃないと思う。一緒にいる時間が長かったから、寂しい気がしてるだけだよ」
「雅久は寂しくないの!?」
「寂しかったよ。でも俺は、俺だけを好きでいてくれる人がいい」
本当はこういう流れになるのではないかと頭のどこかで予想はしていた。彼女の性格はよく理解しているつもりだ。もしかしたら、もっと早く言われていれば寄りを戻したかもしれない。気まぐれで自分勝手な彼女を最後に受け入れてやれるのは自分だと思ったかもしれない。けれども、今の雅久には復縁という選択肢はもうなかった。雅久の中には理性やモラルを揺るがす大きな何かがある。翠がそれを打ち消す存在に再び戻るには遅すぎた。
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