間違い3【R】
***
完全に陽が沈む前の、少し涼しくなった頃に雅久は仕事を終えた。ビルの隙間に隠れようとしている西日が空を橙に染めながら、金の光線をまき散らしている。雅久はこの光景を見ると「明日も頑張ろう」と前向きな気持ちになれるのだ。腹は減っているが、生憎、家には食料がない。以前、達也にもらったサンドイッチが美味かったことを思い出して、駅に向かった。なんのサンドイッチにしよう、今度達也に会ったらすっかりリピーターになりましたと報告でもしようか、などと考えていた矢先、駅前のベンチに、雅久が今まさに考えていた人物が座っているのを見た。うつろな目付きでぼんやりしている横顔が寂しげで妙に色気がある。声を掛けるべきか、そっとしておくべきかと悩んでいるあいだに、若い二人組の男が達也に近寄った。会話は聞こえないが男たちの馴れ馴れしさと、達也が首を振っている様子からしてあまり穏やかでないように見えた。雅久は眉の端を吊り上がらせて、三人に近付いた。
「連れに何か」
挑発的に声を掛けると、男二人は不快感を漂わせながら雅久を見上げ、あっさり去った。
「大丈夫ですか?」
「え? はい。……道を聞かれてただけなんですけど」
「あっ、なんだ……。てっきりナンパかと」
達也は寂しげな表情から一転して楽しそうに笑う。
「小野寺さん、何してるんですか? 今日はお休みでしょ?」
「ちょっと、息抜きです」
「白石さんは?」
「家で寝てます。昨日、圭介の実家に行って、さっき帰って来たんです。疲れたみたいで」
「白石さんの実家に小野寺さんも行くんですか?」
「毎年恒例なんです」
まるで嫁だな、と思うと途端に面白くなくなる。微笑していた達也は表情を暗くした。
「……堤先生、僕、あれから我慢してます」
「え?」
「僕から行動するのをやめてみろって言われてから、僕もそうだなと思って、圭介から動くのを待つことにしたんです。色々気になることもあるけど、自分から無理に問いただすより、話してくれるのを待つことにしました」
「それで……」
「何も変わりません。むしろ、少し気まずくなってしまって。クラブを辞めた理由も結局話してくれませんでした。もともと口数は少ないけど、最近は本当にほとんど喋らなくて。……僕は、彼のなんなんでしょう」
「……」
「圭介のことが分からなくなって、……少しだけ、疲れました」
達也と圭介がすれ違っていると聞いて、それほど気の毒と思っていない自分はおそらく最低だ。けれども背中を丸めて小さくなっている達也の姿だけは痛々しくて、せめて自分といる時だけは笑わせてやりたいと考えた。
「小野寺さん、また背中が丸くなってます」
「あ、はい。すみません」
雅久は達也の手首を取って立ち上がらせた。
「遊びましょう!」
「え?」
「なんだか気分が乗らない時こそ、思いきり遊んでスッキリしましょう」
「で、でも、遊ぶって」
「大丈夫、俺もいるから」
まず雅久が最初に連れて行ったのはすぐ近くにある牛丼屋だった。安くて美味くて手っ取り早い店で、とにかく腹いっぱい食えと勧めた。達也はあまり食欲がないと訴えるが、それでもいいからと無理やりに大盛りの牛丼を食わせた。泣き言を言いながらもなんとか完食して、満腹で動けないと言うにも構わず、休む間もなく今度はゲームセンターに連れて行った。
「すぐ動いたら、お腹が痛くなっちゃいますよ」
「今の小野寺さんにはそのくらいがちょうどいいです」
声を張らないと会話ができないほどうるさいゲームセンター。客層は十代の若者が多いようで、こういった場所に足を踏み入れたことがない達也は尻込みした。空いているゲームを片っ端からやろうと、はじめにパンチングマシンの前まで手を引かれた。
「このグローブ手に入れて、サンドバッグを思いっきり殴るんです。すっごいスッキリしますからやってみて下さい」
戸惑いながらもやってみるが、すべてにおいて初心者なので体の使い方が分からない。案の定、画面に表示された「100」という数字に雅久が笑った。
「小野寺さん、絶対殴り合いの喧嘩したことないでしょう」
手本を見せます、と、今度は雅久がマシンの前に立ちはだかってサンドバッグを殴り付けた。達也の時とは比べ物にならないほどの振動と音に、達也は少しだけ肩が跳ねた。200近い数字を叩き出して、そのくせ「どうですか!?」と子どものような笑顔を向けてくる。つられて口元を綻ばせた。
「すごいですね、なんか殴る直前に腕の筋肉が膨らみましたけど」
「小野寺さんは全然膨らみませんね」
「悪かったですね」
「今度から筋トレ増やしましょう」
「お手柔らかにお願いします」
興味もあって達也は腕を触らせてくれないかと頼んだ。力こぶを作った雅久の腕を軽くつまむ。脂肪がほとんどない、堅くて岩のようなこぶだった。
時間を忘れるとはこのことだった。これまで大人しいだけで出歩くことすら得意でなかったのに、夜遅くまではしゃぐことが新鮮で、少し悪いことをしているような、そんな後ろめたさも楽しいと初めて感じた。ゲームはどれも雅久には敵わなかったけれど、唯一リズムゲームだけは負けなかった。自分の意外な得意面も発見できた貴重な経験でもあった。
本当に今までゲーセン行ったことないんですか?
ないです。寄り道もしないでまっすぐ帰宅する生真面目学生でした。
コンパは? 学生の時行きませんでした?
ないです。興味もないし。
あー、でもコンパ行ってる小野寺さんは嫌だな。似合わない。
堤先生は好きそうですね。
失礼な。行ったことはあるけど、好きじゃない。
本当に? 女の子に囲まれてるイメージですよ。
こう見えて俺は一途なんです。
「一途?」
「はい、一途です」
雅久が初めて女の子と付き合ったのは、中学校のクラスメイトだった。付き合うと言っても、一緒に登下校をしたり、休日に街へ出掛けるくらいで、普通の友達より少し親しいだけの清い関係だ。ファーストキスは高校二年、ませた年頃だったが、体を触り合うだけで最後まで致したことはない。初めて『男』になったのも、結婚を意識するほど長く付き合ったのも、翠が初めてだった。他の女と火遊びしたいと思ったこともないし、相手にもそうであって欲しいと願った。
「でも、悪びれもなく浮気されました。その時は許したつもりではあったけど、やっぱりわだかまりはあったと思う」
「……」
「プロポーズを断られてから暫くは心にぽっかり穴が空きました。ひとりの時間をどう過ごしていいのか分からなくて、夜中に散歩したり。あ、小野寺さんにマロニエの前で会ったのも、そういう理由なんです。でも格好悪くて言えませんでした」
そういえば、「何故ここにいるのか」と聞いて答えは返ってこなかった。普通、自分が傷ついている時に他人に優しくする余裕は持てない。そんな時に親切にしてくれたのかと思うと、達也は何故か泣きたくなった。
「でも今はもう平気です。小野寺さんがクラブに通うようになってから楽しいんですよ」
「僕は別に面白い人間じゃないでしょう」
「でも一緒にいると落ち着くんです」
気付けば街は眠りかけていて、歩道はひと気がなく、車道を走る車もまばらだ。歩きながらスポーツドリンクを飲み干した雅久が思い出したように言った。
「俺の家、すぐそこなんです。寄っていきません? タンブラー返したい」
「だから、あれは差し上げたんです」
「そう思って使おうと思ったけど、よく見たらアレ高いやつじゃないですか。さすがに受け取れません」
半分は口実だ。本当はまだ別れるのが惜しかったからだ。いつも圭介のことを気にしている達也も、珍しくすんなり誘いに乗った。それほど家に帰るのが気が重いらしい。
大通りから路地に入り、五分ほど歩いたところに五階建ての賃貸アパートがある。雅久はその三階に住んでいる。家の中は今朝、慌ただしく出掛けた時のままだ。
「ちょっと軽く片付けていいですか」
「いいのに。僕もすぐ帰りますから」
玄関先で雅久が部屋を片し終えるのを待っていた達也は、奥のリビングにバランスボールが転がっているのを見た。やはり家でもトレーニングを欠かさないのだろうか。その姿を想像すると微笑ましい。リビングに促されて物珍しさのあまりキョロキョロしてしまう。全体的にすっきりとはしているが、部屋の隅に本や服が積み上げられているのを見ては、生活感のあるところに親近感を覚えた。雅久がキッチンからタンブラーを持ってきた。
「コーヒーとか飲みます?」
「いえ、もう帰ります。わざわざありがとうございました」
タンブラーを受け取ったものの、雅久の神妙な顔つきが気になった。
「このあいだ駅で会った時のこと、変なことしたなって後悔してました」
「……僕は気にしてませんよ」
「あれからクラブもお休みされたから、……怒ってるのかと思って」
「怒ってないです」
「留守電にメッセージ入れたけど反応なかったし、……ちょっと、へこみました」
達也は「あぁ」と、済まなそうに眉を下げる。
「何も言わなくてごめんなさい。なんて言ったらいいのか……」
「クラブに来て下さい」
「次はちゃんと行きます」
「なんていうか、その、小野寺さんが来ないと、……さ、……寂しいです」
「……」
雅久はそこまで言うと急に頭を掻いたり、人差し指で鼻を擦ったりとよそよそしくなった。雅久は達也と違って社交的で人付き合いも上手く、話を聞く限り恋愛経験も豊富だ。そんな彼がたかがひとりの陰気な男をそこまで気に掛けてくれるのかと、達也は申し訳ないくらいに有難かった。
「僕、本当に怒ってないです。びっくりはしましたけど、どっちかというと悪かったなと思ってました。先生も大変だろうに、僕なんかのために色々して下さってありがとうございます。その点、僕は気の利いたことを何も言えなくてごめんなさい」
「……」
達也はしどろもどろになりながら続ける言葉を探した。
「今日、すごく楽しかった。あんなに遊んだの初めてです。良かったら、また色々教えて下さ……」
いきなり力強く抱き締められた。先日の柔らかいものではなく、息が止まりそうなくらいの強さだ。体がぴったり合わさっていて、薄いTシャツ越しに雅久の鼓動を感じる。運動をしたあとのような速さと強さで波打っていた。
「あ、あの」
「すみません、後悔したとか言っときながら。……でも少しだけ」
背中に回されている逞しい腕に更に力が籠もる。達也は抵抗を忘れるくらい驚いていた。
「嫌ですか」
「い、嫌じゃないです」
「小野寺さんと一緒にいるとドキドキするんですけど、なんでですかね……」
「そ、それは僕に聞かれても」
達也は耳まで真っ赤にして雅久の胸に顔を埋めた。
「堤先生、疲れてるんでしょう。たぶんそのせいだと思います。……僕、もう失礼するので、その……」
首筋に鼻を当てられて身震いした。人一倍敏感な達也はそれだけで膝を崩してしまった。雅久が達也の体を支えながら傍にあるソファにいざない、ゆっくり倒れ込む。雅久は達也を抱き締めたまま覆い被さった。
「つ、堤先生、ちょっと」
「すみません、ごめんなさい」
達也が自分と同じ男であることは百も承知だ。体つきに違いはあっても持っているものは同じだ。腕の中の感触も女性らしい柔らかさはない。それなのに体は完全に欲情している。何故こんなに興奮しているのか不思議で仕方がない。微かなレモンと香りと汗の匂いがたまらなく嗅覚を刺激する。張り詰めている雅久のそれは達也の太腿に押し当てられていて、達也が身じろぎをする度に欲心がそそられた。息遣いが獣のように荒くなっているのが自分でも分かる。
「先生、離して下さい……、あの、僕もう帰りますから、どうぞゆっくり休んでください」
「じっとしてるだけでいいんで、もうちょっとこのままでお願い、します」
「……え……」
羞恥などそっちのけで、雅久は片腕を達也の腰に回したまま、自分のジッパーを下げた。反り返った屹立が飛び出す。既に充分潤っている自身を握った。
達也はどうして自分が抱かれたままなのかが理解できなかった。すぐ傍で苦しそうに興奮している雅久の表情が生々しくて見入ってしまう。圭介以外の男がこういう行為をしている姿を間近で見て、興味と珍しさに目が離せない。一緒になってバクバクと心臓が音を立てている。達也自身も下半身が疼きだしたが、気付かれたくない。逃れようと雅久の両肩を押し返すも、腰に回された腕にかえって強く力が込められて身動きできなくなった。
「……っは、はぁ、小野寺さ……」
目を閉じて夢中で自慰をしている目の前の男が呼んだ名前は自分の名前だろうか。達也は野性化した雄の姿はこんなに魅力的なのかと考えた。もはや達也の体も収拾つかなくなっている。やがて達したらしい雅久は体を痙攣させて達也を更にきつく抱き締めた。
「堤、先生……もう、」
ようやく解放される、そう油断したのがいけなかった。雅久は自身の精でまみれた手で達也のチノパンの前を開けた。人差し指で下着の上からなぞる。
「えっ、ちょっと……! だめ、先生」
「でも小野寺さんも、きつそう……」
「うそ、だ、だめです、お願い」
涙目になって訴えるが、瞼が半分落ちてほとんど我を失った雅久の耳には届かないらしい。チノパンと下着を一緒に下ろされる。雅久ほどではないが、興起したものが現れた。今しがた自身を扱いた手で達也のそれを包む。ゆっくり下から引き上げると達也は小さく悲鳴を上げた。
「ぁあっ、いや、だ……せんせぇ、んん」
達也の目尻から涙が零れて、赤く染まった頬に流れた。初めての行為でもないはずなのに初心者のような恥じらい方がたまらず、達也を扱く雅久の手は止まらない。
「んっ、あっん……だめ……だめ、」
溢れる透明の蜜を全体に塗りたくり、亀頭を撫で回し、鈴口を引っ掻いた。「いやだ」と言いながらも雅久の胸にしがみついている。無意識に腰を浮かせているのに本人はおそらく気付いていない。
「はぁ、……あ、あ、イッ……」
喉を反らせて、達也は全身を紅潮させて雅久の手の中で果てた。痙攣は長く続き、小刻みに呼吸を乱している。汗ばんだ額に黒い前髪が張り付いていて、雅久は赤くなった達也の首や頬にも見惚れた。達也の頬を包んで顔を近付ける。血色の良い唇に重ねようとした時、達也がギリギリのところで雅久の口を両手で塞いで阻止した。拒否されてようやく雅久も我に返る。
「それだけは駄目です」
達也はそう言い残し、雅久の肩を押し返して逃れた。碌な後処理もせず慌てて衣服を整え、達也は逃げるようにして部屋を飛び出した。
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完全に陽が沈む前の、少し涼しくなった頃に雅久は仕事を終えた。ビルの隙間に隠れようとしている西日が空を橙に染めながら、金の光線をまき散らしている。雅久はこの光景を見ると「明日も頑張ろう」と前向きな気持ちになれるのだ。腹は減っているが、生憎、家には食料がない。以前、達也にもらったサンドイッチが美味かったことを思い出して、駅に向かった。なんのサンドイッチにしよう、今度達也に会ったらすっかりリピーターになりましたと報告でもしようか、などと考えていた矢先、駅前のベンチに、雅久が今まさに考えていた人物が座っているのを見た。うつろな目付きでぼんやりしている横顔が寂しげで妙に色気がある。声を掛けるべきか、そっとしておくべきかと悩んでいるあいだに、若い二人組の男が達也に近寄った。会話は聞こえないが男たちの馴れ馴れしさと、達也が首を振っている様子からしてあまり穏やかでないように見えた。雅久は眉の端を吊り上がらせて、三人に近付いた。
「連れに何か」
挑発的に声を掛けると、男二人は不快感を漂わせながら雅久を見上げ、あっさり去った。
「大丈夫ですか?」
「え? はい。……道を聞かれてただけなんですけど」
「あっ、なんだ……。てっきりナンパかと」
達也は寂しげな表情から一転して楽しそうに笑う。
「小野寺さん、何してるんですか? 今日はお休みでしょ?」
「ちょっと、息抜きです」
「白石さんは?」
「家で寝てます。昨日、圭介の実家に行って、さっき帰って来たんです。疲れたみたいで」
「白石さんの実家に小野寺さんも行くんですか?」
「毎年恒例なんです」
まるで嫁だな、と思うと途端に面白くなくなる。微笑していた達也は表情を暗くした。
「……堤先生、僕、あれから我慢してます」
「え?」
「僕から行動するのをやめてみろって言われてから、僕もそうだなと思って、圭介から動くのを待つことにしたんです。色々気になることもあるけど、自分から無理に問いただすより、話してくれるのを待つことにしました」
「それで……」
「何も変わりません。むしろ、少し気まずくなってしまって。クラブを辞めた理由も結局話してくれませんでした。もともと口数は少ないけど、最近は本当にほとんど喋らなくて。……僕は、彼のなんなんでしょう」
「……」
「圭介のことが分からなくなって、……少しだけ、疲れました」
達也と圭介がすれ違っていると聞いて、それほど気の毒と思っていない自分はおそらく最低だ。けれども背中を丸めて小さくなっている達也の姿だけは痛々しくて、せめて自分といる時だけは笑わせてやりたいと考えた。
「小野寺さん、また背中が丸くなってます」
「あ、はい。すみません」
雅久は達也の手首を取って立ち上がらせた。
「遊びましょう!」
「え?」
「なんだか気分が乗らない時こそ、思いきり遊んでスッキリしましょう」
「で、でも、遊ぶって」
「大丈夫、俺もいるから」
まず雅久が最初に連れて行ったのはすぐ近くにある牛丼屋だった。安くて美味くて手っ取り早い店で、とにかく腹いっぱい食えと勧めた。達也はあまり食欲がないと訴えるが、それでもいいからと無理やりに大盛りの牛丼を食わせた。泣き言を言いながらもなんとか完食して、満腹で動けないと言うにも構わず、休む間もなく今度はゲームセンターに連れて行った。
「すぐ動いたら、お腹が痛くなっちゃいますよ」
「今の小野寺さんにはそのくらいがちょうどいいです」
声を張らないと会話ができないほどうるさいゲームセンター。客層は十代の若者が多いようで、こういった場所に足を踏み入れたことがない達也は尻込みした。空いているゲームを片っ端からやろうと、はじめにパンチングマシンの前まで手を引かれた。
「このグローブ手に入れて、サンドバッグを思いっきり殴るんです。すっごいスッキリしますからやってみて下さい」
戸惑いながらもやってみるが、すべてにおいて初心者なので体の使い方が分からない。案の定、画面に表示された「100」という数字に雅久が笑った。
「小野寺さん、絶対殴り合いの喧嘩したことないでしょう」
手本を見せます、と、今度は雅久がマシンの前に立ちはだかってサンドバッグを殴り付けた。達也の時とは比べ物にならないほどの振動と音に、達也は少しだけ肩が跳ねた。200近い数字を叩き出して、そのくせ「どうですか!?」と子どものような笑顔を向けてくる。つられて口元を綻ばせた。
「すごいですね、なんか殴る直前に腕の筋肉が膨らみましたけど」
「小野寺さんは全然膨らみませんね」
「悪かったですね」
「今度から筋トレ増やしましょう」
「お手柔らかにお願いします」
興味もあって達也は腕を触らせてくれないかと頼んだ。力こぶを作った雅久の腕を軽くつまむ。脂肪がほとんどない、堅くて岩のようなこぶだった。
時間を忘れるとはこのことだった。これまで大人しいだけで出歩くことすら得意でなかったのに、夜遅くまではしゃぐことが新鮮で、少し悪いことをしているような、そんな後ろめたさも楽しいと初めて感じた。ゲームはどれも雅久には敵わなかったけれど、唯一リズムゲームだけは負けなかった。自分の意外な得意面も発見できた貴重な経験でもあった。
本当に今までゲーセン行ったことないんですか?
ないです。寄り道もしないでまっすぐ帰宅する生真面目学生でした。
コンパは? 学生の時行きませんでした?
ないです。興味もないし。
あー、でもコンパ行ってる小野寺さんは嫌だな。似合わない。
堤先生は好きそうですね。
失礼な。行ったことはあるけど、好きじゃない。
本当に? 女の子に囲まれてるイメージですよ。
こう見えて俺は一途なんです。
「一途?」
「はい、一途です」
雅久が初めて女の子と付き合ったのは、中学校のクラスメイトだった。付き合うと言っても、一緒に登下校をしたり、休日に街へ出掛けるくらいで、普通の友達より少し親しいだけの清い関係だ。ファーストキスは高校二年、ませた年頃だったが、体を触り合うだけで最後まで致したことはない。初めて『男』になったのも、結婚を意識するほど長く付き合ったのも、翠が初めてだった。他の女と火遊びしたいと思ったこともないし、相手にもそうであって欲しいと願った。
「でも、悪びれもなく浮気されました。その時は許したつもりではあったけど、やっぱりわだかまりはあったと思う」
「……」
「プロポーズを断られてから暫くは心にぽっかり穴が空きました。ひとりの時間をどう過ごしていいのか分からなくて、夜中に散歩したり。あ、小野寺さんにマロニエの前で会ったのも、そういう理由なんです。でも格好悪くて言えませんでした」
そういえば、「何故ここにいるのか」と聞いて答えは返ってこなかった。普通、自分が傷ついている時に他人に優しくする余裕は持てない。そんな時に親切にしてくれたのかと思うと、達也は何故か泣きたくなった。
「でも今はもう平気です。小野寺さんがクラブに通うようになってから楽しいんですよ」
「僕は別に面白い人間じゃないでしょう」
「でも一緒にいると落ち着くんです」
気付けば街は眠りかけていて、歩道はひと気がなく、車道を走る車もまばらだ。歩きながらスポーツドリンクを飲み干した雅久が思い出したように言った。
「俺の家、すぐそこなんです。寄っていきません? タンブラー返したい」
「だから、あれは差し上げたんです」
「そう思って使おうと思ったけど、よく見たらアレ高いやつじゃないですか。さすがに受け取れません」
半分は口実だ。本当はまだ別れるのが惜しかったからだ。いつも圭介のことを気にしている達也も、珍しくすんなり誘いに乗った。それほど家に帰るのが気が重いらしい。
大通りから路地に入り、五分ほど歩いたところに五階建ての賃貸アパートがある。雅久はその三階に住んでいる。家の中は今朝、慌ただしく出掛けた時のままだ。
「ちょっと軽く片付けていいですか」
「いいのに。僕もすぐ帰りますから」
玄関先で雅久が部屋を片し終えるのを待っていた達也は、奥のリビングにバランスボールが転がっているのを見た。やはり家でもトレーニングを欠かさないのだろうか。その姿を想像すると微笑ましい。リビングに促されて物珍しさのあまりキョロキョロしてしまう。全体的にすっきりとはしているが、部屋の隅に本や服が積み上げられているのを見ては、生活感のあるところに親近感を覚えた。雅久がキッチンからタンブラーを持ってきた。
「コーヒーとか飲みます?」
「いえ、もう帰ります。わざわざありがとうございました」
タンブラーを受け取ったものの、雅久の神妙な顔つきが気になった。
「このあいだ駅で会った時のこと、変なことしたなって後悔してました」
「……僕は気にしてませんよ」
「あれからクラブもお休みされたから、……怒ってるのかと思って」
「怒ってないです」
「留守電にメッセージ入れたけど反応なかったし、……ちょっと、へこみました」
達也は「あぁ」と、済まなそうに眉を下げる。
「何も言わなくてごめんなさい。なんて言ったらいいのか……」
「クラブに来て下さい」
「次はちゃんと行きます」
「なんていうか、その、小野寺さんが来ないと、……さ、……寂しいです」
「……」
雅久はそこまで言うと急に頭を掻いたり、人差し指で鼻を擦ったりとよそよそしくなった。雅久は達也と違って社交的で人付き合いも上手く、話を聞く限り恋愛経験も豊富だ。そんな彼がたかがひとりの陰気な男をそこまで気に掛けてくれるのかと、達也は申し訳ないくらいに有難かった。
「僕、本当に怒ってないです。びっくりはしましたけど、どっちかというと悪かったなと思ってました。先生も大変だろうに、僕なんかのために色々して下さってありがとうございます。その点、僕は気の利いたことを何も言えなくてごめんなさい」
「……」
達也はしどろもどろになりながら続ける言葉を探した。
「今日、すごく楽しかった。あんなに遊んだの初めてです。良かったら、また色々教えて下さ……」
いきなり力強く抱き締められた。先日の柔らかいものではなく、息が止まりそうなくらいの強さだ。体がぴったり合わさっていて、薄いTシャツ越しに雅久の鼓動を感じる。運動をしたあとのような速さと強さで波打っていた。
「あ、あの」
「すみません、後悔したとか言っときながら。……でも少しだけ」
背中に回されている逞しい腕に更に力が籠もる。達也は抵抗を忘れるくらい驚いていた。
「嫌ですか」
「い、嫌じゃないです」
「小野寺さんと一緒にいるとドキドキするんですけど、なんでですかね……」
「そ、それは僕に聞かれても」
達也は耳まで真っ赤にして雅久の胸に顔を埋めた。
「堤先生、疲れてるんでしょう。たぶんそのせいだと思います。……僕、もう失礼するので、その……」
首筋に鼻を当てられて身震いした。人一倍敏感な達也はそれだけで膝を崩してしまった。雅久が達也の体を支えながら傍にあるソファにいざない、ゆっくり倒れ込む。雅久は達也を抱き締めたまま覆い被さった。
「つ、堤先生、ちょっと」
「すみません、ごめんなさい」
達也が自分と同じ男であることは百も承知だ。体つきに違いはあっても持っているものは同じだ。腕の中の感触も女性らしい柔らかさはない。それなのに体は完全に欲情している。何故こんなに興奮しているのか不思議で仕方がない。微かなレモンと香りと汗の匂いがたまらなく嗅覚を刺激する。張り詰めている雅久のそれは達也の太腿に押し当てられていて、達也が身じろぎをする度に欲心がそそられた。息遣いが獣のように荒くなっているのが自分でも分かる。
「先生、離して下さい……、あの、僕もう帰りますから、どうぞゆっくり休んでください」
「じっとしてるだけでいいんで、もうちょっとこのままでお願い、します」
「……え……」
羞恥などそっちのけで、雅久は片腕を達也の腰に回したまま、自分のジッパーを下げた。反り返った屹立が飛び出す。既に充分潤っている自身を握った。
達也はどうして自分が抱かれたままなのかが理解できなかった。すぐ傍で苦しそうに興奮している雅久の表情が生々しくて見入ってしまう。圭介以外の男がこういう行為をしている姿を間近で見て、興味と珍しさに目が離せない。一緒になってバクバクと心臓が音を立てている。達也自身も下半身が疼きだしたが、気付かれたくない。逃れようと雅久の両肩を押し返すも、腰に回された腕にかえって強く力が込められて身動きできなくなった。
「……っは、はぁ、小野寺さ……」
目を閉じて夢中で自慰をしている目の前の男が呼んだ名前は自分の名前だろうか。達也は野性化した雄の姿はこんなに魅力的なのかと考えた。もはや達也の体も収拾つかなくなっている。やがて達したらしい雅久は体を痙攣させて達也を更にきつく抱き締めた。
「堤、先生……もう、」
ようやく解放される、そう油断したのがいけなかった。雅久は自身の精でまみれた手で達也のチノパンの前を開けた。人差し指で下着の上からなぞる。
「えっ、ちょっと……! だめ、先生」
「でも小野寺さんも、きつそう……」
「うそ、だ、だめです、お願い」
涙目になって訴えるが、瞼が半分落ちてほとんど我を失った雅久の耳には届かないらしい。チノパンと下着を一緒に下ろされる。雅久ほどではないが、興起したものが現れた。今しがた自身を扱いた手で達也のそれを包む。ゆっくり下から引き上げると達也は小さく悲鳴を上げた。
「ぁあっ、いや、だ……せんせぇ、んん」
達也の目尻から涙が零れて、赤く染まった頬に流れた。初めての行為でもないはずなのに初心者のような恥じらい方がたまらず、達也を扱く雅久の手は止まらない。
「んっ、あっん……だめ……だめ、」
溢れる透明の蜜を全体に塗りたくり、亀頭を撫で回し、鈴口を引っ掻いた。「いやだ」と言いながらも雅久の胸にしがみついている。無意識に腰を浮かせているのに本人はおそらく気付いていない。
「はぁ、……あ、あ、イッ……」
喉を反らせて、達也は全身を紅潮させて雅久の手の中で果てた。痙攣は長く続き、小刻みに呼吸を乱している。汗ばんだ額に黒い前髪が張り付いていて、雅久は赤くなった達也の首や頬にも見惚れた。達也の頬を包んで顔を近付ける。血色の良い唇に重ねようとした時、達也がギリギリのところで雅久の口を両手で塞いで阻止した。拒否されてようやく雅久も我に返る。
「それだけは駄目です」
達也はそう言い残し、雅久の肩を押し返して逃れた。碌な後処理もせず慌てて衣服を整え、達也は逃げるようにして部屋を飛び出した。
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