間違い2
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毎年夏になると、達也は圭介の実家を訪ねることになっている。圭介やその家族に強要されているわけではなく、毎年レモンをくれる圭介の祖母に挨拶したいからと、達也が言い出したことだった。圭介は帰省を嫌がるので、それも達也が率先して日にちを決め、無理やり引っ張っている。今年も七月下旬に顔を見せると事前に連絡してあるので、達也は例年通り、無難な菓子折りを用意して圭介と連れ立って新幹線に乗った。澄み渡る快晴の空に蝉時雨が響く猛暑日だった。
「圭介のおばあさん、何歳になったんだっけ」
「さあね」
「去年、確か腰を悪くして、お父さんとお母さんがおばあさんのところに引っ越したんだよね。電話した時はお母さんが出たよ」
「フーン」
「久しぶりの実家なんだから、少しは嬉しそうにすれば」
「親やババアに会えて喜ぶ歳でもないだろ、面倒くせぇ。大体遠いんだよ」
圭介の祖母は瀬戸内海に浮かぶ島に住んでいる。レモンの産地で、波の穏やかな海とレモン畑に囲まれている。自家用車を持っていない達也と圭介はいつも新幹線とフェリーを乗り継いで行くので決して楽ではない。だからと言って放っておけば圭介は永遠に帰省しないだろうし、圭介の両親も腰の悪い祖母を置いてこちらに向かってくることはないだろう。達也はつくづく自分のお節介さに呆れながらも、このくらいならいいかと自分で自分を許してやる。何故なら、その島に毎年行くことを、達也が一番楽しみにしているからだ。
最も陽が高くて暑い時間帯に島に着き、フェリー乗り場からタクシーに乗って圭介の実家を目指した。道中に見かけたレモン畑。春は花が咲いてレモンの香りを漂わせ、冬にはたわわに実る姿を想像する。
小高い丘にある圭介の実家からは瀬戸内海と、島と島を繋ぐ橋が見える。じりじりと照り付ける日光に肌が焼けていくのを感じながら、その開放的でのどかな風景を眺めるのが達也は好きだ。ふたりの訪問を真っ先に出迎えたのは圭介の母だ。
「たっちゃん、なんだかまた、かっこよくなったわねぇ。毎年来てくれてありがとうね」
圭介には「あら、おかえり」と、まるで散歩から帰った時のような挨拶だった。居間に案内されると圭介の祖母が仏壇の前で団扇を扇いでいた。達也を見るなり三つ指をついて深々と頭を下げる。
「ご無沙汰してます。腰の具合はどうですか?」
「まぁ~優しいこと。うちの不愛想な孫とは大違いね。おかげ様でだいぶ良くなったのよ。でもこの歳ではもうレモン作るのも大変よ」
「僕、おばあさんの作ったレモンが大好きなんです。いつも沢山ありがとうございます。このあいだ、知り合いにおばあさんのレモンで作ったレモネードを差し入れしたら、絶賛してくれました」
「それは達也くんの味付けが上手なのよ」
圭介の母が「そういえば一緒に住んでるのよね」と言いながら茶菓子を運んでくる。
「圭介がサッカー辞めてからも、たっちゃんが色々助けてくれてるんでしょ? いつもありがとう。ごめんなさいね、何もしない親で」
圭介の両親は放任主義だ。子のやることによっぽどでない限り口を出さないし、手助けもしない。圭介が事故に遭った時も、見舞いに来たのは一度だけ。命に別状はないと知ると早々と帰ってしまったし、足に不具合が起きたと知った時も「自分で乗り越えろ」と、父が電話一本寄越しただけだった。
「で、圭介。あんたまだ足悪いの? 仏頂面してないで何か喋りなさいな」
「うるせぇな、少しは良くなってるよ」
圭介から初めて聞く「少しは良い」という台詞に一番に反応したのは達也だった。
「良かった、やっぱりリハビリの効果はあったんだね」
「リハビリもたっちゃんに付添ってもらってるんですってね。本当、世話の焼ける息子で申し訳ないわ。でも、たっちゃん、あんまり圭介を甘やかしたら駄目よ。たっちゃんも自分のこと優先しなさいね。あんたたちももう二十七なんだから、そろそろお互い良い人見つけないと」
「……あ、いや、でも、……僕は圭介くんといると楽しいですし……」
「まるで達也くんが圭介のお嫁さんみたいね」と笑ったのは祖母だった。それには苦笑を返すだけだ。そうそう、と母が仏壇の横にあるチェストから何かを取り出した。
「圭介宛に届いてたの。手紙。差出人が分からないけど」
圭介はそれを受け取り、裏表を確認したあと封を切った。四つ折りにされた紙を開いたと思ったら、圭介はぐしゃりと握り潰し、ポケットに入れた。一部始終を見ていた達也は密かに驚く。圭介と目が合ったが何も教えてはくれなかった。
「ねえ、今日は泊まっていくんでしょ? 夕飯まで時間があるから出掛けてきたら?」
「俺はいい」
「じゃあ、僕、ちょっと行ってきていいかな」
夕飯までに戻ると言って、ひとりで圭介の実家をあとにした。圭介の自転車を借りて、海沿いを走る。日差しが厳しくて汗がとめどなく噴き出すが、運動を始めてから汗を流すことは気持ちが良いことだと知った。タイムスリップしたような古い街並みを目で楽しみ、時折自転車を止めて照り返す紺碧の海を眺めた。普段感じることのない潮風に当たると体の中の毒気がなくなる。こんなに清々しくなる雰囲気を、圭介は何故もっと堪能しないのだろう。けれども、爽やかで甘酸っぱい島の空気は、どちらかというと雅久のほうが似合うかもしれない。達也はふとそんなことを考えた。
翌朝、朝食を済ませるとふたりはすぐに荷物をまとめた。
「まだゆっくりしていけばいいのに」
「明日から仕事なんだよ」
「お世話になりました。おばあさん、お大事にね」
「ありがとうね、いつかふたりにお嫁さんができたら、一緒に連れて来てちょうだいね。きっと賑やかになるわね。楽しみだわ」
達也は約束できない未来には触れず、最後に皺の寄った、皮の薄い両手を強く握った。
帰りの新幹線の中では会話はなく、それぞれに流れる景色を眺めていたり、本を読んだりして過ごした。窓際にいる圭介は頬杖をついて窓に頭を預けたまま目を瞑っているが、おそらく眠ってはいない。このところの圭介はどこか機嫌が悪い。はっきりとは分からないが、圭介がクラブを辞めた辺りからだ。口数が減り、あまり笑わなくなった。毎日のようにしていたセックスも、ここ数日はない。達也はその理由を聞きたかったが、雅久から「達也から動くのをやめろ」と言われたことを思い出してやめた。
「圭介、起きてる? 喉乾かない?」
「いらね」
「……そう? お腹空かない?」
「空いてない」
目を閉じたまま答える。達也は小さく溜息をついた。再び読書を始めようとした時、圭介が口を開いた。
「お前、いつ誰に差し入れしたんだよ」
「え?」
「昨日、ババアに言ってたろ。知り合いにレモネード差し入れしたって」
「ああ。もうけっこう前だよ。まだ僕がクラブに通う前、堤先生に」
「なんで」
「自販機の下に小銭落として、通りすがりの人がペットボトルくれたって話したでしょ? あれ堤先生だったんだよ。お礼に」
「ふーん」
「圭介は? ……あの手紙、誰だったの?」
「別に」
それきり圭介は黙り込んでしまった。達也は圭介が何を考えているのか、まったく分からない。以前は「おそらくこうだろう」と勝手に想像できたことも、最近は見当もつかない。圭介がクラブを辞めた理由も、結局聞かされないままだ。達也はここにきて初めて息苦しさを覚えた。
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毎年夏になると、達也は圭介の実家を訪ねることになっている。圭介やその家族に強要されているわけではなく、毎年レモンをくれる圭介の祖母に挨拶したいからと、達也が言い出したことだった。圭介は帰省を嫌がるので、それも達也が率先して日にちを決め、無理やり引っ張っている。今年も七月下旬に顔を見せると事前に連絡してあるので、達也は例年通り、無難な菓子折りを用意して圭介と連れ立って新幹線に乗った。澄み渡る快晴の空に蝉時雨が響く猛暑日だった。
「圭介のおばあさん、何歳になったんだっけ」
「さあね」
「去年、確か腰を悪くして、お父さんとお母さんがおばあさんのところに引っ越したんだよね。電話した時はお母さんが出たよ」
「フーン」
「久しぶりの実家なんだから、少しは嬉しそうにすれば」
「親やババアに会えて喜ぶ歳でもないだろ、面倒くせぇ。大体遠いんだよ」
圭介の祖母は瀬戸内海に浮かぶ島に住んでいる。レモンの産地で、波の穏やかな海とレモン畑に囲まれている。自家用車を持っていない達也と圭介はいつも新幹線とフェリーを乗り継いで行くので決して楽ではない。だからと言って放っておけば圭介は永遠に帰省しないだろうし、圭介の両親も腰の悪い祖母を置いてこちらに向かってくることはないだろう。達也はつくづく自分のお節介さに呆れながらも、このくらいならいいかと自分で自分を許してやる。何故なら、その島に毎年行くことを、達也が一番楽しみにしているからだ。
最も陽が高くて暑い時間帯に島に着き、フェリー乗り場からタクシーに乗って圭介の実家を目指した。道中に見かけたレモン畑。春は花が咲いてレモンの香りを漂わせ、冬にはたわわに実る姿を想像する。
小高い丘にある圭介の実家からは瀬戸内海と、島と島を繋ぐ橋が見える。じりじりと照り付ける日光に肌が焼けていくのを感じながら、その開放的でのどかな風景を眺めるのが達也は好きだ。ふたりの訪問を真っ先に出迎えたのは圭介の母だ。
「たっちゃん、なんだかまた、かっこよくなったわねぇ。毎年来てくれてありがとうね」
圭介には「あら、おかえり」と、まるで散歩から帰った時のような挨拶だった。居間に案内されると圭介の祖母が仏壇の前で団扇を扇いでいた。達也を見るなり三つ指をついて深々と頭を下げる。
「ご無沙汰してます。腰の具合はどうですか?」
「まぁ~優しいこと。うちの不愛想な孫とは大違いね。おかげ様でだいぶ良くなったのよ。でもこの歳ではもうレモン作るのも大変よ」
「僕、おばあさんの作ったレモンが大好きなんです。いつも沢山ありがとうございます。このあいだ、知り合いにおばあさんのレモンで作ったレモネードを差し入れしたら、絶賛してくれました」
「それは達也くんの味付けが上手なのよ」
圭介の母が「そういえば一緒に住んでるのよね」と言いながら茶菓子を運んでくる。
「圭介がサッカー辞めてからも、たっちゃんが色々助けてくれてるんでしょ? いつもありがとう。ごめんなさいね、何もしない親で」
圭介の両親は放任主義だ。子のやることによっぽどでない限り口を出さないし、手助けもしない。圭介が事故に遭った時も、見舞いに来たのは一度だけ。命に別状はないと知ると早々と帰ってしまったし、足に不具合が起きたと知った時も「自分で乗り越えろ」と、父が電話一本寄越しただけだった。
「で、圭介。あんたまだ足悪いの? 仏頂面してないで何か喋りなさいな」
「うるせぇな、少しは良くなってるよ」
圭介から初めて聞く「少しは良い」という台詞に一番に反応したのは達也だった。
「良かった、やっぱりリハビリの効果はあったんだね」
「リハビリもたっちゃんに付添ってもらってるんですってね。本当、世話の焼ける息子で申し訳ないわ。でも、たっちゃん、あんまり圭介を甘やかしたら駄目よ。たっちゃんも自分のこと優先しなさいね。あんたたちももう二十七なんだから、そろそろお互い良い人見つけないと」
「……あ、いや、でも、……僕は圭介くんといると楽しいですし……」
「まるで達也くんが圭介のお嫁さんみたいね」と笑ったのは祖母だった。それには苦笑を返すだけだ。そうそう、と母が仏壇の横にあるチェストから何かを取り出した。
「圭介宛に届いてたの。手紙。差出人が分からないけど」
圭介はそれを受け取り、裏表を確認したあと封を切った。四つ折りにされた紙を開いたと思ったら、圭介はぐしゃりと握り潰し、ポケットに入れた。一部始終を見ていた達也は密かに驚く。圭介と目が合ったが何も教えてはくれなかった。
「ねえ、今日は泊まっていくんでしょ? 夕飯まで時間があるから出掛けてきたら?」
「俺はいい」
「じゃあ、僕、ちょっと行ってきていいかな」
夕飯までに戻ると言って、ひとりで圭介の実家をあとにした。圭介の自転車を借りて、海沿いを走る。日差しが厳しくて汗がとめどなく噴き出すが、運動を始めてから汗を流すことは気持ちが良いことだと知った。タイムスリップしたような古い街並みを目で楽しみ、時折自転車を止めて照り返す紺碧の海を眺めた。普段感じることのない潮風に当たると体の中の毒気がなくなる。こんなに清々しくなる雰囲気を、圭介は何故もっと堪能しないのだろう。けれども、爽やかで甘酸っぱい島の空気は、どちらかというと雅久のほうが似合うかもしれない。達也はふとそんなことを考えた。
翌朝、朝食を済ませるとふたりはすぐに荷物をまとめた。
「まだゆっくりしていけばいいのに」
「明日から仕事なんだよ」
「お世話になりました。おばあさん、お大事にね」
「ありがとうね、いつかふたりにお嫁さんができたら、一緒に連れて来てちょうだいね。きっと賑やかになるわね。楽しみだわ」
達也は約束できない未来には触れず、最後に皺の寄った、皮の薄い両手を強く握った。
帰りの新幹線の中では会話はなく、それぞれに流れる景色を眺めていたり、本を読んだりして過ごした。窓際にいる圭介は頬杖をついて窓に頭を預けたまま目を瞑っているが、おそらく眠ってはいない。このところの圭介はどこか機嫌が悪い。はっきりとは分からないが、圭介がクラブを辞めた辺りからだ。口数が減り、あまり笑わなくなった。毎日のようにしていたセックスも、ここ数日はない。達也はその理由を聞きたかったが、雅久から「達也から動くのをやめろ」と言われたことを思い出してやめた。
「圭介、起きてる? 喉乾かない?」
「いらね」
「……そう? お腹空かない?」
「空いてない」
目を閉じたまま答える。達也は小さく溜息をついた。再び読書を始めようとした時、圭介が口を開いた。
「お前、いつ誰に差し入れしたんだよ」
「え?」
「昨日、ババアに言ってたろ。知り合いにレモネード差し入れしたって」
「ああ。もうけっこう前だよ。まだ僕がクラブに通う前、堤先生に」
「なんで」
「自販機の下に小銭落として、通りすがりの人がペットボトルくれたって話したでしょ? あれ堤先生だったんだよ。お礼に」
「ふーん」
「圭介は? ……あの手紙、誰だったの?」
「別に」
それきり圭介は黙り込んでしまった。達也は圭介が何を考えているのか、まったく分からない。以前は「おそらくこうだろう」と勝手に想像できたことも、最近は見当もつかない。圭介がクラブを辞めた理由も、結局聞かされないままだ。達也はここにきて初めて息苦しさを覚えた。
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