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間違い1

『こんにちは、じゃない、おはようございます、堤です。さっそく電話してしまってすみません。あの……昨日はいきなり失礼しました。えー……と、どうか忘れて下さい。本当、ごめんなさい。それだけです。……じゃあ、また木曜日に』

 留守番電話に雅久からそうメッセージがあったのは翌朝のことだった。わざわざ掛け直すのもおかしいので、そのままにしている。メッセージはなんとなく消せないままだ。忘れてくれと言われても、正直気になっている。

 随分沈んだ様子で謝られたが、謝りたいのはどちらかというと達也のほうだった。雅久とはただのトレーナーと生徒の関係でしかないにも関わらず、まして圭介とは面識もないはずなのに、どうしてあんなに親身になってくれるのか。知り合いでもなんでもないクラブの生徒がどのトレーナーにかかろうが普通はそこまで気にならないはずだ。雅久の心くばりに甘えてしまっているのはこちらなのに、よっぽど人が好いのだろう。

 圭介以外の人間にああいった抱擁をされたのは初めてだ。もしかしたら圭介にもされたことがないかもしれない。公衆の面前という点を除いては、雅久に抱き寄せられたことは嫌ではなかった。それどころか、少しでもドキッとしてしまった自分を反省する。

 ケトルのお湯が沸いたのを合図に寝室でまだ寝ている圭介を起こしに行く。昨夜、家に帰ったら圭介は早くも就寝していた。一度は起こして食事を摂ったかと訊ねたが、圭介は「いらない」と寝言のように言っただけだ。サッカーをしている時もそうだったけれど、圭介は自分が疲れていてもストレスがあっても、あまり口にしない。煙草を吸う量が増えたり、物に八つ当たりをしたり、そういった行動で達也は圭介の変化に気付いてきた。食事を摂らずに就寝するのもそのひとつである。

「……おはよう、圭介。朝ごはん食べよう。仕事に遅れるよ」

「……まだ、だるい」

「仕事、忙しい?」

「眠いだけだ」

 達也は布団をめくって圭介の足に触れた。深い意味はない。怠い時に体をさするだけで気持ちが良いだろうという親切心だった。左足首を撫でた時、いきなり圭介が上半身を起こして達也を突き飛ばした。油断していた達也は尻餅をついて驚いた。えらく不機嫌そうな表情で睨まれている。

「ど、どうして」

「マッサージとかいらねぇ」

「ご、ごめん……」

 杖を取って立ち上がる圭介に、つい癖で手を貸そうとしてしまう。はっきり「やめろ」と拒否されて大人しく引き下がった。寝室を出て行こうとする圭介の背中に、勇気を振り絞って問いかける。

「クラブ、なんで勝手に辞めたんだよ」

 圭介は立ち止まったが、振り返りはしない。

「なんで一言も相談してくれなかったの」

「それ、誰から聞いた?」

「堤先生。昨日、会社帰りに偶然会って、圭介が辞めたって教えてくれたんだ」

「……達也の担当のトレーナーか。だから昨日は遅かったのか」

 ちっ、と舌打ちをする。

「なんで、辞めたの」

「ほっといてくれ」

「でも――」

 ――小野寺さんから行動するのを少し控えたらどうでしょう。――

 雅久の言葉が蘇り、達也は口をつぐんだ。怪しんだ圭介が振り返ったが、達也はこれ以上言うのは控えることにした。

「……ごめん、僕、いつもしつこいよね。……圭介が話してくれるまで何も言わない」

「達也」

「必要以上に手を貸すのもやめるよ。お節介でごめん」

 達也は圭介を通り過ぎて先に寝室を出た。圭介が何か言おうとしたのを感じ取ったが、呼び止められはしなかった。

 ***

「堤先生、元気ないね、どうかしたの?」

 生徒の宮本が睡魔に負けるまいとして、うとうとしながら訊ねた。マッサージに手を抜いていたつもりはないが、指摘されてつい力を入れる。

「あいたたたた!」

「わっ、すみません!」

 危うく肩を外すところだった。

「元気ないように見えますか?」

「いつもより口数少ないし、笑っててもどこか沈んでるから」

「すみません」

「人間、誰でもそんな時もあるよ。悩み事?」

「悩み事というか、ちょっとした考え事です」

 股関節を広げるとポキポキ骨が鳴る。宮本は気持ち良さそうに呻った。

「仕事のこと?」

「いや、……人間関係……?」

「人当たりのいい堤先生でも人間関係で悩むことあるの?」

「ある人に、失礼なことをしてしまったかもしれなくて……謝ったんですけど、許してくれたのかどうか分からなくて」

「話してないの?」

「電話したら出なかったんで、留守電にメッセージだけ……」

「そういう時は直接会って言わないと駄目だよ」

「そうですよね。……膝裏を抱えて背中を丸めて下さい」

 宮本は言われた通りにするが、筋力がないのか体が震えている。

「宮本さん、家でストレッチしてないでしょう。このあいだバランスボール持って帰ったでしょ? 座ってるだけでも違うんですよ」

「うっ……はー。ついつい仕事終わって家に帰るとダラけちゃってね」

 大袈裟に息を乱しながら宮本は話を戻した。

「で、その人のことが気になってるから元気ないの?」

「まあ……そうです」

「そんなに気にしなくてもいいんじゃない? 謝ったんでしょ、一応。気にしすぎると禿げるよ、僕みたいに」

 薄くなった頭頂部を指差すのでひそかに笑いを堪えた。ただの友人や知り合い程度の関係であれば雅久も悩まない。常識を逸脱した、正体不明の不純な思いがあるからこその悩みなのだ。

「僕なんか、こうして家でトレーニングもまともにしなくて怒られても気にしないっていうのに」

「宮本さんはもっと気にして下さい。ふくらはぎにも筋肉付けないと」

「セルライトだらけでぶよぶよだよね」

「ふくらはぎが弱ってると血行不良になって浮腫みや怠さの原因になるんですよ。ふくらはぎは第二の心臓って言われてます」

「大腸も歯も第二の心臓って言うよね」

「いらない部分はひとつもないってことです」

「だったら髪の毛だって第二の心臓じゃない? 家でもトレーニング頑張ったら僕の髪の毛生えてくるかな?」

 雅久はたまらず噴き出す。

「ちょっとは元気出た?」

「ありがとうございます」

「仕事関係の人じゃないんでしょ? 彼女、でもなさそうだね」

「あ、彼女とは別れたんです。……だからですかね、別に彼女を引き摺っているわけじゃないけど、時々侘びしくなる」

「あらぁ、結婚したいって言ってたのにね。でも堤先生ならすぐにいい人見つかるよ。若いのにそんなジジィみたいなこと言わないの。世の中には男と女が半々いるんだから」

「出会えますかね」

「別れるときにはもう新しい恋が始まってるって言うでしょ? どう、身近にいない?」

 聞かれて真っ先に浮かぶのは、やはり達也だった。けれども男である彼をそういう対象で見ることを認めるには抵抗がある。仮に彼が女だったとしても、恋人がいる人間に横恋慕することになるので、結局雅久が入る余地はないのだ。そのくせ留守電にメッセージを入れてから何も反応がないことを女々しく気にしている。

 やっぱり電話をしなければよかった。今度会った時に軽く謝れば笑い話で終わったかもしれないのに。一週間がいつもより長い。そんな雅久のもどかしさなど露知らず、達也は二週間クラブに来なかった。


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