・雨の中の訪問者1
■雨の中の訪問者
仕事で失敗をして上司と取引先から叱責された挙句、帰り道で突然大雨に見舞われて成す術もなくみすぼらしい有様を余儀なくされたのでは、もう自分はなんのために存在しているのか分からなくなった。
古田篤郎は昔から愚直なまでに生真面目で、狡賢さとは無縁の男だった。勉強でもスポーツでも与えられた課題はどんなに時間がかかっても最後までやり遂げるタイプだ。決して何かに秀でた才能があるわけではないが、目に見える努力は周囲の胸を打つものがあり、結果うんぬんより彼の場合はその誠実さを評価されることが多かった。
ただ、社会に出ると結果が伴わないとどんな努力も評価されない。もともと人の好い人間でもあるので体よく仕事を押し付けられたり、いい様に濡れ衣を着せられることもしばしばだった。今回の失敗も、そんなお人好しが仇となってミスを引き起こしたのだ。
いよいよ自分が嫌になった。
羽目を外して一晩中飲み歩いたり、足を踏み入れたことのない風俗に行ってみようかとも思ったが、こんな時ですら真面目な自分が邪魔をしてそれを許さない。上手く肩の力を抜く方法も分からない。誰かに愚痴を言おうにも、故郷の田舎を遠く離れた地で仕事に明け暮れる毎日だったのでたいした友人もいない。趣味もない。篤郎は生きる希望をすっかりなくしてしまった。
―――
コンビニに着いた頃には、今更傘を買っても意味がないほど全身がずぶ濡れだった。ウール素材のライトグレーのスーツは色が変わり、独特の臭みを発している。おろしたてのスーツを早くも台無しにしてしまったことに、また肩を落とした。額にへばり付いた前髪を搔き上げて視界を広く持てたところ、駐輪場に一匹の猫が横たわっているのを見た。とうに日が沈んで、店の灯りも届いていない暗闇の中でも見つけることができたのは、猫の毛色が白いからだろう。雨に濡れているせいかアスファルトにこびり付いたように倒れていて、まるで使い捨てにされたモップのようだった。
篤郎はとりわけ猫が好きなわけではないが、誰にも気に留めてもらえずに孤独に息絶えている姿が他人事に思えず、せめて人目に触れない位置に移動させてやろうと猫に近寄った。抱き上げてみて、猫にまだ息があると気付いた。手の平に微かに熱を感じる。腹部に目を凝らすとゆっくり上下していた。だが、生きているからと言って何もしなればすぐに死んでしまうだろう。十一月も後半の寒さが厳しくなり始めた季節だ。これだけ濡れていれば凍えてしまう。篤郎はバッグの中にあった薄いハンカチを取り出して猫に被せ、コンビニで夕食を買う予定だったのも忘れてそのまま猫を連れて帰宅した。
まずは温かいシャワーで体を洗ってやった。意識を取り戻した猫はシャンプーを嫌がって逃げ出すのではないかと思ったが、その心配は皆無のようで気持ち良さそうに目を閉じたまま篤郎の手を受け入れている。
あれだけ雨に濡れて黒く汚れていたのに、軽く洗ってやっただけで流れるような毛並みが蘇った。ドライヤーの風にふわりと靡き、輝く白さは上質な絹を纏っているようだった。全体的に華奢な輪郭だが、尻尾は毛量が多いせいか存在感がある。透き通るブルーを持った大きな目に吸い込まれそうになった。篤郎はこの猫がなんの品種なのかも分からないが、どこかで手塩にかけて育てられた猫であるというのは分かった。
微かに口を動かしたのを見て、食事を与えなければと思い出す。生憎、キャットフードなどないので冷蔵庫にあった牛乳を温めて、残り物の縮緬雑魚をやったら、猫は相当腹を空かしていたのか、あっという間に平らげてしまった。
「お前、よっぽど弱ってたんだな」
ペロリと舌を出しながら篤郎を見ている。
「ごめんな、おかわりがもうないんだ。僕も弁当買うの忘れちゃって。ドジだろ? 腹減ったよな」
小さく「にゃあ」と鳴いて、篤郎は人差し指を口元に立てた。
「ここアパートで動物禁止だからさ。鳴かないようにしてくれよ。って、いっても、無理だよね。今晩はここで寝かせてやるから、明日になったら主人のところに帰りな。お前、どう見てもいいところの猫だろ? ……いいよな、お前には帰る場所があって。僕にはもう誰もいないよ。実家は遠いし、友達だってろくにいない。おまけに今日は会社で失敗して……。良かれと思って引き受けた仕事でミスしてね。商品の発注個数を大幅に間違えたんだ。それで動揺しちゃって振り込み金額間違えたりね。……ごめんな、こんな話して。お前には分からないか」
猫は気取った様子で篤郎のベッドに上がり、体を丸めて目を閉じた。
「……厚かましいな。そこは僕のベッドだぞ」
先ほどまで死にかけていた猫だ。無理にどかす気にもなれず、篤郎は薄手のブランケットをクローゼットから引っ張り出して、床で夜を越した。
カーテンを閉めずに寝ていたせいか、燦々と入り込む朝日の眩しさで目が覚めた。昨日の大雨が嘘のような快晴だ。猫がいることを思い出してベッドを見たら、猫の姿はどこにもなかった。
「あれ? ……どこから逃げたんだろう」
どっちにしろ猫をここに留めておく理由もない。あの猫との縁はここまでだったのだろうと、篤郎はいまだ仕事でのミスを吹っ切れないまま欝々とした気分で支度を始めた。
***
今日は大きなトラブルもなく無事に仕事を終えたが、昨日のミスを引き摺ったままの業務だったので、いつもより疲れが残った。
自分の仕事を終えたら、退社前に必ず「何か手伝うことはないか」と上司に訊ねるのが篤郎の決まり事だ。それは入社してから五年間、毎日続けている。けれども、この日は一刻も早く帰宅したくて定時のチャイムとほぼ同時に席を立った。
雨が上がったあとの気温の変化は激しい。会社を出てすぐ、体に吹き付けた風がやたら冷たく、いきなり季節が秋から冬へ一変したような寒さだった。まだ五時だというのに空も暗い。肩をすくめながら目の前の横断歩道を渡り切った時、雑踏の中ですまして座っている猫を見つけた。白い毛を靡かせ、ブルーの目でまっすぐ篤郎を捉えている。あの猫だった。
「また会ったな」
篤郎はまるで気の知れた友人に出くわした感覚で猫に話し掛けた。傍から見れば奇妙な人間だろう。篤郎が近付くと、猫は背を向けて歩き出した。
「なんだよ、冷たいやつだな」
それでも、まさかここで再会すると思わなかった。仕事の疲れが少し薄れた気がして、篤郎は内心猫に出会えたことを嬉しく思った。ふいに猫が振り返り、立ち止まったままの篤郎に視線を送ってくる。暫くその目に縛られて固まってしまったが、篤郎が動くと猫は再び背を向けた。
――まさか、付いて来いってことか?
行き交う通行人の足元をすいすいとかいくぐる猫を、篤郎は知らない肩にぶつかりながら追い掛けた。
大通りから路地に入り、更に細い裏路地を進み、賑やかな街の中心からどんどん外れて、いつの間にか寂れた下町に足を踏み入れていた。ジラジラと点滅している街灯がかろうじて夜道を照らしてる。電柱には色褪せた一昔前のポスターが貼られてあり、商店街に並んでいる店のほとんどはシャッターが下ろされていた。しかも人っ子ひとりいない。大人の男である篤郎もさすがに気味悪さに自宅が恋しくなった。それでも先々進んでいく猫を追い掛けずにいられない。
「なあ、どこに行くんだよ」
むろん、返事はない。今更引き返す気にもなれないので、もうどうなってもいいや、という半ば投げやりな気持ちだった。
商店街を抜けると、小さな鳥居が現れ、猫は鳥居を通ってその先に続く林の中へ姿を消した。篤郎はいったん鳥居の前で立ち止まり、進むかどうか躊躇した。なんせ外灯はもちろん、月の光でさえも雲に遮られている漆黒の暗闇だ。こんな中で林に入ろうものなら一生出て来られない気がする。逡巡していると鳥居の向こうで目玉が小さく光った。猫が待っているのだ。
――迷っても、あの猫がいるなら大丈夫かな。
篤郎は小走りで鳥居をくぐった。
ガサガサと落ち葉を踏み締める足音と、風が草木を揺らす音だけが聞こえる。寒さと不気味さに小刻みに震えているところに、突然目の前にたぬきが横切り、思わず「うわ!」と声を上げた。振り向いた猫が大きな目で見上げてくる。馬鹿にされているような気がして、篤郎は「驚いただけだよ」と返した。
やがて木々が少なくなり、ようやく開放的な空間にありつけると思ったら、前方に大きな洋風の館が現れた。多数の窓から橙の光が洩れている。
「まさか、あれがお前の家か?」
すると猫は駆け出して、あっという間に館の中へ消えて行った。勢いでここまで来てしまったものの、この先をどうすればいいのか悩んだ。猫のあとを追って館を訪ねればいいのか、このまま引き返せばいいのか。そもそもどうして猫に付いてきたのか。所詮、自分は人間で猫の考えなど到底分からない。なぜ「付いて来い」と言われているような気がしたのか。けれども、引き返したらそれこそ追い掛けたのがまったくの無駄になる。篤郎は固唾を飲みながら館の前まで足を進めた。
金で施されたロココ式の豪華な扉には、どこを探してもインターホンはない。ノックをしてみたが、厚みがあるのか響かないようだ。恐る恐るノブを回すと案外すんなり開かれた。
「ごめんください」
とは言ってみるものの、蚊の鳴くような小さな声では誰にも聞こえないだろう。それより篤郎は館の内装に、ただただ呆れはてた。
入ってすぐから床一面を占めているのはペルシャ絨毯。目の前の螺旋階段はレッドカーペットが敷かれていた。何メートルもある高い天井は何故かヴェネチア派絵画が飾られ、そこから大きなシャンデリアが垂れ下がっている。何か模様をつけなれば勿体ないとでも言うように、壁にも薔薇の絵が描かれていたり、赤や金で塗りたくられていた。色彩感覚が狂いそうな派手な色使いに眩暈を覚える。全体的に欧風であるのに細かい設定は無視され、様々な文化が入り混じった、気品も何もない、金の使い道が分からない成金の道楽といった装飾の仕方だった。しかもどこからともなく漂う強い香りは南アジアを思い出させる香で、一体ここは日本なのかヨーロッパなのか南アジアなのか、自分が存在する世界すら曖昧になる。
何より驚いたのはそこら中に猫がいることだ。このだだっ広い、ど派手なだけの部屋の中に家具はなく、無秩序な装飾と同じく、様々な品種の猫が自由気ままに歩き回っている。その中にあの白い猫はいなかった。
「いらっしゃい」
高くも低くもない、心地よく響く声で螺旋階段を下りて来たのは、若い長身の男だった。腰まで届く、銀にも見える真っ白な細い髪をひとつに束ねていて、髪の色と同じシルクのシャツをしなやかに着こなしている。細身だが病的ではない。生まれ持ったスタイルの良さだった。男が目の前に近付いてくるまで、篤郎は完全に男に目を奪われていた。「よく来たね」と言われて、我に返る。
「す、すみません。勝手に入ってしまって。……あの、ここに白い猫が……来ませんでしたか?」
「まあ、立ち話もなんだから、中でゆっくり話しそうか」
「え? いえ、僕は白い猫の行方を追っただけで……その猫の家がここで合ってるなら、いいんです」
「その猫が気になるかい?」
「昨日、雨に打たれて弱っているところを連れて帰ったんですけど、今朝起きたらいなくて。だけどさっき、仕事が終わって会社を出てみたら、その猫が横断歩道のところにいたんです。まるで僕を待っていて、付いて来いって言ってるような気がして、深く考えずに付いて行きました。そしたら、ここに辿り着いたんです。あなたは、白い猫の飼い主さんで?」
「とにかく、こちらにどうぞ。外は寒かったでしょう。頬と鼻が真っ赤だ」
男が長い指で篤郎の頬を撫でた。熱でもあるのかと思うくらい熱い指だった。得体のしれない男に頬を触れられて、気味が悪いどころかドキリと心臓が跳ねてしまったことは不覚だ。
「食事を用意してあるんです。食べて行って下さい」
「だ、駄目ですよ。そんな突然訪ねて来た男に! 僕だってそこまで厚かましくありません」
「それはわたしの台詞ですよ」
「え?」
「いくら気の毒だったからって、小汚い死にかけの猫を助けるなんて、あなた相当お人好しでしょう」
「いや、だって……かわいそう、だったから」
「普通は見て見ぬふりをするものです。あなたのおかげで凍えずに済みました。ありがとうございました」
「―――え……」
「今日は恩返しをさせて下さい」
⇒

仕事で失敗をして上司と取引先から叱責された挙句、帰り道で突然大雨に見舞われて成す術もなくみすぼらしい有様を余儀なくされたのでは、もう自分はなんのために存在しているのか分からなくなった。
古田篤郎は昔から愚直なまでに生真面目で、狡賢さとは無縁の男だった。勉強でもスポーツでも与えられた課題はどんなに時間がかかっても最後までやり遂げるタイプだ。決して何かに秀でた才能があるわけではないが、目に見える努力は周囲の胸を打つものがあり、結果うんぬんより彼の場合はその誠実さを評価されることが多かった。
ただ、社会に出ると結果が伴わないとどんな努力も評価されない。もともと人の好い人間でもあるので体よく仕事を押し付けられたり、いい様に濡れ衣を着せられることもしばしばだった。今回の失敗も、そんなお人好しが仇となってミスを引き起こしたのだ。
いよいよ自分が嫌になった。
羽目を外して一晩中飲み歩いたり、足を踏み入れたことのない風俗に行ってみようかとも思ったが、こんな時ですら真面目な自分が邪魔をしてそれを許さない。上手く肩の力を抜く方法も分からない。誰かに愚痴を言おうにも、故郷の田舎を遠く離れた地で仕事に明け暮れる毎日だったのでたいした友人もいない。趣味もない。篤郎は生きる希望をすっかりなくしてしまった。
―――
コンビニに着いた頃には、今更傘を買っても意味がないほど全身がずぶ濡れだった。ウール素材のライトグレーのスーツは色が変わり、独特の臭みを発している。おろしたてのスーツを早くも台無しにしてしまったことに、また肩を落とした。額にへばり付いた前髪を搔き上げて視界を広く持てたところ、駐輪場に一匹の猫が横たわっているのを見た。とうに日が沈んで、店の灯りも届いていない暗闇の中でも見つけることができたのは、猫の毛色が白いからだろう。雨に濡れているせいかアスファルトにこびり付いたように倒れていて、まるで使い捨てにされたモップのようだった。
篤郎はとりわけ猫が好きなわけではないが、誰にも気に留めてもらえずに孤独に息絶えている姿が他人事に思えず、せめて人目に触れない位置に移動させてやろうと猫に近寄った。抱き上げてみて、猫にまだ息があると気付いた。手の平に微かに熱を感じる。腹部に目を凝らすとゆっくり上下していた。だが、生きているからと言って何もしなればすぐに死んでしまうだろう。十一月も後半の寒さが厳しくなり始めた季節だ。これだけ濡れていれば凍えてしまう。篤郎はバッグの中にあった薄いハンカチを取り出して猫に被せ、コンビニで夕食を買う予定だったのも忘れてそのまま猫を連れて帰宅した。
まずは温かいシャワーで体を洗ってやった。意識を取り戻した猫はシャンプーを嫌がって逃げ出すのではないかと思ったが、その心配は皆無のようで気持ち良さそうに目を閉じたまま篤郎の手を受け入れている。
あれだけ雨に濡れて黒く汚れていたのに、軽く洗ってやっただけで流れるような毛並みが蘇った。ドライヤーの風にふわりと靡き、輝く白さは上質な絹を纏っているようだった。全体的に華奢な輪郭だが、尻尾は毛量が多いせいか存在感がある。透き通るブルーを持った大きな目に吸い込まれそうになった。篤郎はこの猫がなんの品種なのかも分からないが、どこかで手塩にかけて育てられた猫であるというのは分かった。
微かに口を動かしたのを見て、食事を与えなければと思い出す。生憎、キャットフードなどないので冷蔵庫にあった牛乳を温めて、残り物の縮緬雑魚をやったら、猫は相当腹を空かしていたのか、あっという間に平らげてしまった。
「お前、よっぽど弱ってたんだな」
ペロリと舌を出しながら篤郎を見ている。
「ごめんな、おかわりがもうないんだ。僕も弁当買うの忘れちゃって。ドジだろ? 腹減ったよな」
小さく「にゃあ」と鳴いて、篤郎は人差し指を口元に立てた。
「ここアパートで動物禁止だからさ。鳴かないようにしてくれよ。って、いっても、無理だよね。今晩はここで寝かせてやるから、明日になったら主人のところに帰りな。お前、どう見てもいいところの猫だろ? ……いいよな、お前には帰る場所があって。僕にはもう誰もいないよ。実家は遠いし、友達だってろくにいない。おまけに今日は会社で失敗して……。良かれと思って引き受けた仕事でミスしてね。商品の発注個数を大幅に間違えたんだ。それで動揺しちゃって振り込み金額間違えたりね。……ごめんな、こんな話して。お前には分からないか」
猫は気取った様子で篤郎のベッドに上がり、体を丸めて目を閉じた。
「……厚かましいな。そこは僕のベッドだぞ」
先ほどまで死にかけていた猫だ。無理にどかす気にもなれず、篤郎は薄手のブランケットをクローゼットから引っ張り出して、床で夜を越した。
カーテンを閉めずに寝ていたせいか、燦々と入り込む朝日の眩しさで目が覚めた。昨日の大雨が嘘のような快晴だ。猫がいることを思い出してベッドを見たら、猫の姿はどこにもなかった。
「あれ? ……どこから逃げたんだろう」
どっちにしろ猫をここに留めておく理由もない。あの猫との縁はここまでだったのだろうと、篤郎はいまだ仕事でのミスを吹っ切れないまま欝々とした気分で支度を始めた。
***
今日は大きなトラブルもなく無事に仕事を終えたが、昨日のミスを引き摺ったままの業務だったので、いつもより疲れが残った。
自分の仕事を終えたら、退社前に必ず「何か手伝うことはないか」と上司に訊ねるのが篤郎の決まり事だ。それは入社してから五年間、毎日続けている。けれども、この日は一刻も早く帰宅したくて定時のチャイムとほぼ同時に席を立った。
雨が上がったあとの気温の変化は激しい。会社を出てすぐ、体に吹き付けた風がやたら冷たく、いきなり季節が秋から冬へ一変したような寒さだった。まだ五時だというのに空も暗い。肩をすくめながら目の前の横断歩道を渡り切った時、雑踏の中ですまして座っている猫を見つけた。白い毛を靡かせ、ブルーの目でまっすぐ篤郎を捉えている。あの猫だった。
「また会ったな」
篤郎はまるで気の知れた友人に出くわした感覚で猫に話し掛けた。傍から見れば奇妙な人間だろう。篤郎が近付くと、猫は背を向けて歩き出した。
「なんだよ、冷たいやつだな」
それでも、まさかここで再会すると思わなかった。仕事の疲れが少し薄れた気がして、篤郎は内心猫に出会えたことを嬉しく思った。ふいに猫が振り返り、立ち止まったままの篤郎に視線を送ってくる。暫くその目に縛られて固まってしまったが、篤郎が動くと猫は再び背を向けた。
――まさか、付いて来いってことか?
行き交う通行人の足元をすいすいとかいくぐる猫を、篤郎は知らない肩にぶつかりながら追い掛けた。
大通りから路地に入り、更に細い裏路地を進み、賑やかな街の中心からどんどん外れて、いつの間にか寂れた下町に足を踏み入れていた。ジラジラと点滅している街灯がかろうじて夜道を照らしてる。電柱には色褪せた一昔前のポスターが貼られてあり、商店街に並んでいる店のほとんどはシャッターが下ろされていた。しかも人っ子ひとりいない。大人の男である篤郎もさすがに気味悪さに自宅が恋しくなった。それでも先々進んでいく猫を追い掛けずにいられない。
「なあ、どこに行くんだよ」
むろん、返事はない。今更引き返す気にもなれないので、もうどうなってもいいや、という半ば投げやりな気持ちだった。
商店街を抜けると、小さな鳥居が現れ、猫は鳥居を通ってその先に続く林の中へ姿を消した。篤郎はいったん鳥居の前で立ち止まり、進むかどうか躊躇した。なんせ外灯はもちろん、月の光でさえも雲に遮られている漆黒の暗闇だ。こんな中で林に入ろうものなら一生出て来られない気がする。逡巡していると鳥居の向こうで目玉が小さく光った。猫が待っているのだ。
――迷っても、あの猫がいるなら大丈夫かな。
篤郎は小走りで鳥居をくぐった。
ガサガサと落ち葉を踏み締める足音と、風が草木を揺らす音だけが聞こえる。寒さと不気味さに小刻みに震えているところに、突然目の前にたぬきが横切り、思わず「うわ!」と声を上げた。振り向いた猫が大きな目で見上げてくる。馬鹿にされているような気がして、篤郎は「驚いただけだよ」と返した。
やがて木々が少なくなり、ようやく開放的な空間にありつけると思ったら、前方に大きな洋風の館が現れた。多数の窓から橙の光が洩れている。
「まさか、あれがお前の家か?」
すると猫は駆け出して、あっという間に館の中へ消えて行った。勢いでここまで来てしまったものの、この先をどうすればいいのか悩んだ。猫のあとを追って館を訪ねればいいのか、このまま引き返せばいいのか。そもそもどうして猫に付いてきたのか。所詮、自分は人間で猫の考えなど到底分からない。なぜ「付いて来い」と言われているような気がしたのか。けれども、引き返したらそれこそ追い掛けたのがまったくの無駄になる。篤郎は固唾を飲みながら館の前まで足を進めた。
金で施されたロココ式の豪華な扉には、どこを探してもインターホンはない。ノックをしてみたが、厚みがあるのか響かないようだ。恐る恐るノブを回すと案外すんなり開かれた。
「ごめんください」
とは言ってみるものの、蚊の鳴くような小さな声では誰にも聞こえないだろう。それより篤郎は館の内装に、ただただ呆れはてた。
入ってすぐから床一面を占めているのはペルシャ絨毯。目の前の螺旋階段はレッドカーペットが敷かれていた。何メートルもある高い天井は何故かヴェネチア派絵画が飾られ、そこから大きなシャンデリアが垂れ下がっている。何か模様をつけなれば勿体ないとでも言うように、壁にも薔薇の絵が描かれていたり、赤や金で塗りたくられていた。色彩感覚が狂いそうな派手な色使いに眩暈を覚える。全体的に欧風であるのに細かい設定は無視され、様々な文化が入り混じった、気品も何もない、金の使い道が分からない成金の道楽といった装飾の仕方だった。しかもどこからともなく漂う強い香りは南アジアを思い出させる香で、一体ここは日本なのかヨーロッパなのか南アジアなのか、自分が存在する世界すら曖昧になる。
何より驚いたのはそこら中に猫がいることだ。このだだっ広い、ど派手なだけの部屋の中に家具はなく、無秩序な装飾と同じく、様々な品種の猫が自由気ままに歩き回っている。その中にあの白い猫はいなかった。
「いらっしゃい」
高くも低くもない、心地よく響く声で螺旋階段を下りて来たのは、若い長身の男だった。腰まで届く、銀にも見える真っ白な細い髪をひとつに束ねていて、髪の色と同じシルクのシャツをしなやかに着こなしている。細身だが病的ではない。生まれ持ったスタイルの良さだった。男が目の前に近付いてくるまで、篤郎は完全に男に目を奪われていた。「よく来たね」と言われて、我に返る。
「す、すみません。勝手に入ってしまって。……あの、ここに白い猫が……来ませんでしたか?」
「まあ、立ち話もなんだから、中でゆっくり話しそうか」
「え? いえ、僕は白い猫の行方を追っただけで……その猫の家がここで合ってるなら、いいんです」
「その猫が気になるかい?」
「昨日、雨に打たれて弱っているところを連れて帰ったんですけど、今朝起きたらいなくて。だけどさっき、仕事が終わって会社を出てみたら、その猫が横断歩道のところにいたんです。まるで僕を待っていて、付いて来いって言ってるような気がして、深く考えずに付いて行きました。そしたら、ここに辿り着いたんです。あなたは、白い猫の飼い主さんで?」
「とにかく、こちらにどうぞ。外は寒かったでしょう。頬と鼻が真っ赤だ」
男が長い指で篤郎の頬を撫でた。熱でもあるのかと思うくらい熱い指だった。得体のしれない男に頬を触れられて、気味が悪いどころかドキリと心臓が跳ねてしまったことは不覚だ。
「食事を用意してあるんです。食べて行って下さい」
「だ、駄目ですよ。そんな突然訪ねて来た男に! 僕だってそこまで厚かましくありません」
「それはわたしの台詞ですよ」
「え?」
「いくら気の毒だったからって、小汚い死にかけの猫を助けるなんて、あなた相当お人好しでしょう」
「いや、だって……かわいそう、だったから」
「普通は見て見ぬふりをするものです。あなたのおかげで凍えずに済みました。ありがとうございました」
「―――え……」
「今日は恩返しをさせて下さい」
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