違和感3
***
「なんだよ堤くん、元気ないなぁ。いつもの覇気はどこにいったんだよ」
デスクでボーッと座っている雅久の背中を叩いたのは宮崎だ。能天気に鼻歌を歌いながら隣の席につく。はーっと盛大な溜息をつくと宮崎が顔をしかめる。
「もー朝から陰鬱な空気醸しださないでよー」
「宮崎さん、相談が……」
「なに?」
『男で抜いたことありますか?』
「聞けない……」
「なによぉ、気になるじゃん」
「……あ、白石さん、リハビリ来てます? 白石さんの連れの人が今、僕のクラスに通ってるんですよ。白石さんの足の心配してました」
「ああ、白石さんね。このあいだ電話があって、辞めたよ」
「――え……」
――なんでも、理由もなくいきなり『辞めます』って。
別にいいんだ。最初からやる気ない人だったし、俺も正直、真剣にしようと思わなかった。先月は一回も来なかったし、今月も先々週来ただけ。
でも俺、思うんだけど、あの人――、
「雅久」
事務室を出たところで、久しぶりに聞く声がした。すぐ近くの自販機の横で翠が立っていた。
「翠、……どうして」
「ちょっと顔を見に来ただけ。どうしてるかなって」
およそ一ヵ月半ぶりに見る彼女は、付き合っていた頃のように小奇麗な身なりをしていて、鎖骨には初めて見るネックレスがあった。
「何も用事はないのか?」
「ええ、会いに来ただけ。仕事中にごめんね」
翠は雅久をジロジロと眺めて何か待っているようだった。翠の意図が分からない雅久は、眉間を寄せて訝しむ。
「……元気そうね」
「きみがそれを言うのか」
「勝手だけど、もうちょっと嬉しそうな顔してくれるかなって思ったの。でも、そうでもないみたいね。むしろ迷惑そう」
「自分が振ったくせに、よく言うよ」
雅久は呆れながら笑った。
「ね、今日の夜、会えない?」
「え?」
「久しぶりに雅久と話したくなったの」
どういうつもりでそんな誘いをするのか理解に苦しむ。翠はあっさりした性格だが、時々無神経なところがある。まだ別れてから二ヵ月も経っていない。雅久の頭の片隅に復縁の文字が浮かんだが、さすがにもうないだろう。それに翠とは学生時代からの友人でもあるので、完全に縁を切る必要はないのだ。雅久は動じずに了承した。
「七時に終わると思う」
「じゃあ、七時半にマロニエで」
約束の時間より十分ほど遅れてマロニエに着くと、翠が紅茶を啜りながら待っていた。
「十分の遅刻よ」
「十分くらい遅刻って言わないだろ?」
いつか翠に言われた台詞を、皮肉を込めて言ってやった。翠は「意地が悪くなったのね」と含み笑いをする。翠が飲んでいる紅茶のソーサーにレモンが載っているのを見て、雅久は通り過がりのウェイターに咄嗟にアイスレモネードを注文する。翠が意外そうに言った。
「レモネードなんて初めてじゃない? いつもコーヒーなのに」
「……暑くなってきたからな」
「仕事はどう? クラブの」
「別に大きな変化はないよ」
「独立はするの? やっぱり変わらない?」
「独立は必ずする。定年までクラブで雇われるなんてやっぱり考えられない。フリーのほうが活動の幅も広がるし」
「ふーん……」
紅茶のカップをソーサーに重ねる。付き合いが長かっただけに、翠に会ったらうろたえたり、昔を思い出して懐かしんだりするかと思っていた。誘われてもっと嬉しいかと思ったのに、案外そうでもなかった。胸元で光るネックレスが新しい恋人にもらったものだと直感で悟っても、それほどショックじゃない。
「彼氏ができた?」
「……ええ、まあ」
「なんだよ。今更気を遣わなくていいよ。どんな人?」
「同じ会社の人。いい人だし、上手くは、いってるわ」
どこか含みのある言い方で、翠のほうに迷いがあるのだと察した。雅久が聞くより先に翠が続ける。
「すごく優しい人で色々気遣ってはくれるんだけど、時々疲れちゃうのよね」
「贅沢言うなよ」
「分かってるわ。でも雅久は優しかったけど、適度に自分勝手なところもあったから、一緒にいて気が楽だったのよね」
「褒めてるのか? それ」
「まあね」
ウェイターが持って来たアイスレモネードが置かれる。ストローでひと口吸うと、味は薄く、甘みがない。達也のレモネードのほうがよっぽど美味かった。そして、
「あ」
「なに?」
「いや、なんでもない」
達也から礼だと言って受け取ったレモネードのタンブラーを返すのを忘れていたことを思い出した。今度トレーニングに来た時に返そうか、そんな呑気なことを考えている雅久の傍らで翠が話を続ける。
「やっぱり雅久といるとなんだか落ち着くわね。わたし早まったのかしら」
「いずれにしても、きみは俺とは結婚するつもりなんかないだろう」
「……少し、後悔してる」
窓の外に目を向けると、見たことのある人物が店の隣を通った。仕事帰りらしいスーツ姿の達也だった。姿勢よく颯爽と歩く姿に目を引かれたのですぐに気が付いた。
「覚えてる? 丁度、去年の今頃だったかな、」
「ごめん、ちょっと急用ができた」
「え?」
慌てて財布から千円札を出して翠に押し付けた。
「お釣りはいらない。本当、ごめん」
「雅久!」
駆け足で出口へ向かうと翠が呼び止めた。
「また会ってくれる?」
「その時は新しい彼氏を紹介してくれ」
ドアの鈴を鳴らしながら雅久は店を飛び出した。
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「なんだよ堤くん、元気ないなぁ。いつもの覇気はどこにいったんだよ」
デスクでボーッと座っている雅久の背中を叩いたのは宮崎だ。能天気に鼻歌を歌いながら隣の席につく。はーっと盛大な溜息をつくと宮崎が顔をしかめる。
「もー朝から陰鬱な空気醸しださないでよー」
「宮崎さん、相談が……」
「なに?」
『男で抜いたことありますか?』
「聞けない……」
「なによぉ、気になるじゃん」
「……あ、白石さん、リハビリ来てます? 白石さんの連れの人が今、僕のクラスに通ってるんですよ。白石さんの足の心配してました」
「ああ、白石さんね。このあいだ電話があって、辞めたよ」
「――え……」
――なんでも、理由もなくいきなり『辞めます』って。
別にいいんだ。最初からやる気ない人だったし、俺も正直、真剣にしようと思わなかった。先月は一回も来なかったし、今月も先々週来ただけ。
でも俺、思うんだけど、あの人――、
「雅久」
事務室を出たところで、久しぶりに聞く声がした。すぐ近くの自販機の横で翠が立っていた。
「翠、……どうして」
「ちょっと顔を見に来ただけ。どうしてるかなって」
およそ一ヵ月半ぶりに見る彼女は、付き合っていた頃のように小奇麗な身なりをしていて、鎖骨には初めて見るネックレスがあった。
「何も用事はないのか?」
「ええ、会いに来ただけ。仕事中にごめんね」
翠は雅久をジロジロと眺めて何か待っているようだった。翠の意図が分からない雅久は、眉間を寄せて訝しむ。
「……元気そうね」
「きみがそれを言うのか」
「勝手だけど、もうちょっと嬉しそうな顔してくれるかなって思ったの。でも、そうでもないみたいね。むしろ迷惑そう」
「自分が振ったくせに、よく言うよ」
雅久は呆れながら笑った。
「ね、今日の夜、会えない?」
「え?」
「久しぶりに雅久と話したくなったの」
どういうつもりでそんな誘いをするのか理解に苦しむ。翠はあっさりした性格だが、時々無神経なところがある。まだ別れてから二ヵ月も経っていない。雅久の頭の片隅に復縁の文字が浮かんだが、さすがにもうないだろう。それに翠とは学生時代からの友人でもあるので、完全に縁を切る必要はないのだ。雅久は動じずに了承した。
「七時に終わると思う」
「じゃあ、七時半にマロニエで」
約束の時間より十分ほど遅れてマロニエに着くと、翠が紅茶を啜りながら待っていた。
「十分の遅刻よ」
「十分くらい遅刻って言わないだろ?」
いつか翠に言われた台詞を、皮肉を込めて言ってやった。翠は「意地が悪くなったのね」と含み笑いをする。翠が飲んでいる紅茶のソーサーにレモンが載っているのを見て、雅久は通り過がりのウェイターに咄嗟にアイスレモネードを注文する。翠が意外そうに言った。
「レモネードなんて初めてじゃない? いつもコーヒーなのに」
「……暑くなってきたからな」
「仕事はどう? クラブの」
「別に大きな変化はないよ」
「独立はするの? やっぱり変わらない?」
「独立は必ずする。定年までクラブで雇われるなんてやっぱり考えられない。フリーのほうが活動の幅も広がるし」
「ふーん……」
紅茶のカップをソーサーに重ねる。付き合いが長かっただけに、翠に会ったらうろたえたり、昔を思い出して懐かしんだりするかと思っていた。誘われてもっと嬉しいかと思ったのに、案外そうでもなかった。胸元で光るネックレスが新しい恋人にもらったものだと直感で悟っても、それほどショックじゃない。
「彼氏ができた?」
「……ええ、まあ」
「なんだよ。今更気を遣わなくていいよ。どんな人?」
「同じ会社の人。いい人だし、上手くは、いってるわ」
どこか含みのある言い方で、翠のほうに迷いがあるのだと察した。雅久が聞くより先に翠が続ける。
「すごく優しい人で色々気遣ってはくれるんだけど、時々疲れちゃうのよね」
「贅沢言うなよ」
「分かってるわ。でも雅久は優しかったけど、適度に自分勝手なところもあったから、一緒にいて気が楽だったのよね」
「褒めてるのか? それ」
「まあね」
ウェイターが持って来たアイスレモネードが置かれる。ストローでひと口吸うと、味は薄く、甘みがない。達也のレモネードのほうがよっぽど美味かった。そして、
「あ」
「なに?」
「いや、なんでもない」
達也から礼だと言って受け取ったレモネードのタンブラーを返すのを忘れていたことを思い出した。今度トレーニングに来た時に返そうか、そんな呑気なことを考えている雅久の傍らで翠が話を続ける。
「やっぱり雅久といるとなんだか落ち着くわね。わたし早まったのかしら」
「いずれにしても、きみは俺とは結婚するつもりなんかないだろう」
「……少し、後悔してる」
窓の外に目を向けると、見たことのある人物が店の隣を通った。仕事帰りらしいスーツ姿の達也だった。姿勢よく颯爽と歩く姿に目を引かれたのですぐに気が付いた。
「覚えてる? 丁度、去年の今頃だったかな、」
「ごめん、ちょっと急用ができた」
「え?」
慌てて財布から千円札を出して翠に押し付けた。
「お釣りはいらない。本当、ごめん」
「雅久!」
駆け足で出口へ向かうと翠が呼び止めた。
「また会ってくれる?」
「その時は新しい彼氏を紹介してくれ」
ドアの鈴を鳴らしながら雅久は店を飛び出した。
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