羨望2
***
仕事が多忙を極めた四月半ばは残業と休日出勤に追われ、圭介のリハビリに付き添えなかった。圭介を自分に合わせるのも悪く、可能ならばひとりでクラブへ行くように釘を刺しておいたが、空返事ばかりの圭介がそれを聞き入れたかどうかは不明だ。達也がクラブへ通うことについては、体の不調を改善したいからと遠慮気味に窺うと、すんなり構わないと言ってくれた。その代わりにトレーニングが終わったらすぐに帰ることと、親しくない人間からの誘いには乗らないという、まるで子どもが親に約束させられるようなことが条件だった。
雅久に会った夜の翌日にさっそくフィットネスクラブへ電話をかけたら、五月からの雅久のクラスがまだ空いていたので、申し込みを済ませてある。毎週木曜の午後六時からの予定だ。繁忙期で蓄積された疲れから、体に痛みと重みを感じながら五月を迎え、激務が少しだけ落ち着いた連休明けに、達也はクラブに通い始めた。
「小野寺さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。先日はありがとうございました。よろしくお願いします」
「仕事は落ち着かれたんですか?」
「大体。残業続きだったんですけど、木曜日くらいは早く帰ろうと思って」
「なら良かった。今日は最初にカウンセリングと、姿勢のチェック、メニューの計画を立てます。その後ストレッチをしながら筋肉へのアプローチ、トレーニング、と段階を踏んでいきます。いきなり激しい運動をしたりしないので安心して下さい」
最後の台詞で達也の緊張した表情が緩んだ。トレーニングに付いていけるだろうかという不安があったのは正直なところだ。
「僕、昔から運動音痴で……」
「大丈夫、その人にあったメニューを作りますので」
そういう雅久は達也が到底持ち得ない体格に恵まれている。広い肩幅に堂々とした姿勢、スポーツウェアが体にフィットしているので引き締まった筋肉が浮かび上がっている。自分もどうせ男なら、このくらい逞しい身体になりたかったものだ。壁に背中を付けてみろと言われる。
「やっぱり猫背ですね。首が前に出てる。あと背中も壁に付いてない」
言いながら背中を撫でた。
「デスクワークの方に多いんですよね。姿勢が悪いと肩懲りや腰痛だけでなくて、色んな病気も引き起こします。姿勢を整えてインナーマッスルを鍛えると体は軽くなるし、腸内環境も良くなります。腸内環境が良いと栄養の吸収も便通も良くなって、効率よく老廃物を体外に出せるでしょ? これだけでかなりダイエットにもなりますしね。小野寺さんはダイエットの必要はないでしょうけど」
と、腰回りに手を当てられて思わず身をよじる。
「普段、肩懲りや腰痛の原因だな~って思うのはやっぱり仕事中ですか?」
「それもそうですけど……」
言いかけて達也はやめた。家事や炊事でも辛いことはある。ただ、一番は圭介とセックスをするとどうしても自分が動かなければならないことだ。馬乗りになって圭介の足を気遣いながら動くのは肉体的に辛い。が、それをまさか雅久には言えまい。
すぐ傍にあるマットに横になれと指示される。仰向けになって背中の下に手を入れられて探りながら指圧された。その度に片足が跳ねる。
「大丈夫ですか?」
「すみません、……く、くすぐったくて」
「敏感なんですねぇ」
達也は基本的に他人に体を触られるのが苦手だ。自分で手の届かないところに誰かが触るとくすぐったくて必要以上に反応してしまうからだ。圭介とは長年連れ添っていることもあって今更羞恥心はないが、言ってしまえば圭介以外の人間に触れられたことがないので、意思とは関係なく体が拒絶しないか心配だった。
「背中、ちゃんと床に付いてないの分かります? 仰向けになった時に背中が浮くのは腰が反ってるからです。腰回りの筋肉がないと一部分の筋肉だけで体を支えようとするからだんだん偏って姿勢が悪くなるんです。それで首が前に出てきて肩が凝ったりするんですよ。……失礼」
今度は足を片方ずつ持ち上げられて屈伸する。膝を胸に近づけようとすると腰が張って痛い。
「腰が引っ張られてる感じするでしょ?」
「はい、痛いです」
「これもちゃんと筋肉が付いていれば、引っ張られることはないんです。今日はこんな感じで順番にストレッチしていきましょう」
雅久は達也の両脚をふくらはぎから太ももにかけて丁寧に筋肉をほぐしていった。ただ撫でられて軽く揉まれるだけなのに、緊張して体に力が入ってしまう。
「小野寺さん、お勤め先は近くなんですか?」
「そう、ですね……近いです、わりと……。あ、このあいだのお店……マロニエでしたっけ。あの近くなんです」
「もしかしてクロカワ不動産?」
「そうです」
「大会社じゃないですか。すごいなぁ。マンションも社割とかあるんですか?」
「ありますよ。売れ残ったマンションは社宅になってます。僕は他社のマンションで住んでますけど」
愛社精神がないので、と加えると雅久は声を出して笑った。痛いところはないかと聞かれて首が痛いと答えたら、雅久は頭のほうへ移動して肩の下に手を滑り込ませた。これだけでもうくすぐったい。
「今のうちにマンション買ったら、あとが楽とかないんですか? 彼女と結婚してもそのまま住めるし」
「……彼女は、いないし……僕はたぶん、結婚しないから……」
キスマークを残しておいて彼女がいないことはないだろう、と雅久は達也の首元にある小さな痣を見て心の中で突っ込んだ。それにしても随分受け身な場所にキスマークを付けられたものだ。
「圭介と同居してるし、圭介といる限りは誰とも付き合わない……」
「……へぇ……。あ、痛いのって首の付け根ですか? このまま肩をすくめて下さい」
「あ、ちょっと楽になりました」
「でしょ。筋肉には体を動かすアウターマッスルと、体を支えるインナーマッスルがあります。インナーマッスルがないとアウターマッスルだけで体を支えようとするので、常に力が入った状態になります。そうなると疲れやすくなったり、いつもだるさが抜けないんですね。……で、筋肉が凝り固まるんですが、その状態で運動しても逆効果なので、まずは固くなった部分をほぐすのも大事なんです」
マッサージの効果で血流が良くなってきたからか、達也の表情から強張りがなくなった。弱すぎず強すぎずの力加減で凝り固まった筋をほぐされるのは気持ちが良いのか、瞼がとろんとしている。表情に気を取られていると、突然達也が大きく目を開けた。頬から耳にかけて一気に赤くなる。
「どうしました?」
視線をずらすと、達也の下半身の異変に気付いた。マッサージ中に無意識に覚醒するのはただの生理現象で珍しくないので特別驚きはしない。だが、達也は慣れていないせいか、やり過すことができずに飛び起きた。慌てて正座をして裾の短いTシャツで必死に隠そうとしている。
「ち、違うんです」
「血の流れが良くなると自然とそうなるんです。健康な証拠ですよ」
「で、でも」
達也が尋常じゃないくらい恥ずかしがるので、雅久まで恥ずかしくなってくる。「男同士なんだから」という言葉を飲み込んだ。
「あのー……こんなことを聞いて気を悪くされるかもしれないですが、もしかして、小野寺さん、白石さんとお付き合いされてるんですか……?」
「……」
「それでその、同性がお好き、とか……」
真っ赤な顔で俯いたまま、達也は下唇を噛み締めた。
「ごめんなさい。いや、あのもしそうなら、俺、デリカシーのないことしたり言ったりしたんじゃないかと思って……」
「……確かに僕は圭介と付き合っています。……でも同性が好きってわけではない、と思う。……彼しか好きになったことがないので」
「え、」
「ご、ごめんなさい。もう時間ですよね。今日は失礼していいですか。……ありがとうございました」
達也は雅久の返事を待たずにコーチングルームを飛び出していった。取り残された雅久は茫然とし、達也が圭介と付き合っていることや達也が圭介以外の人間を好きになったことがないという事実に静かに驚いていた。そして何より戸惑ったのはそれを聞いて嫌悪を抱くどころか、少し羨ましいと思ったことだ。二十数年生きてきて荒んだ心を持たずに一途にひとりの人間だけを想い続ける姿は理想だし、稀だ。
圭介を想い、彼の足が治るようにと尽力し、生理現象にすらうろたえる純情さは胸の奥がむず痒いほど健気だと思った。
―――
およそ六年間付き合っていた雅久と翠は、何度も衝突を繰り返した。大学を卒業して雅久が理学療法士の専門学校へ通い、IT企業に就職した翠が社会人として様になってきた頃のことだ。学生時代の甘さがなくなり、女としても社員としても自信を持ち始めた翠は、男性から言い寄られることが増えた。もともと持て囃されることに慣れている翠は、適当なあしらい方も、誘いの受け方も駆け引きの仕方も知っている。未だ勉学に励んでいる雅久とは生活リズムも価値観もずれ、同じ会社の社員に浮ついたことがあった。当時、あまりゆっくり会う時間はなかったというのに、翠は寂しがる様子も不満を言うこともなかったので、訝しんだ雅久が問い詰めたらあっさり白状した。
――だって、雅久とは時間が合わないし、わたしの仕事の悩み事なんて、話しても分からないでしょ? ――
特定の恋人がいるのに他の人間に浮つくことが許せない雅久は、翠に強く言い返した。
自分は一度も浮気をしたことはないし、したいとも思わない、生活リズムが変わってもきみを信じていたのに、不誠実じゃないのか、と。
翠は反省の色を見せなかったし、あくまで価値観が違うと貫いた。翠の思いきりのいい性格は好きだが、軽率で薄情な行為はどうしても理解し難い。雅久から別れを切り出そうと一度は覚悟した。けれども数日後に翠のほうから悪かったと折れたのだった。
――ごめんなさい。やっぱりわたしには雅久しかいないの。もう絶対浮気しないから、許してくれる? ――
―――
事務室のデスクでぼんやりしていた雅久はチャイムの音で我に返り、慌ててコーチングルームへ向かった。日曜日の午後三時半。もしかしたら、と思ったところに、別のコーチングルームから達也と圭介が出てきたのを見かけた。けだるそうに杖をついている圭介に甲斐甲斐しく手を貸す達也。恋人だけに見せる笑顔は長年付き合っていると思えないほど初々しい。時折圭介が鬱陶しそうにしているが、そんなことも構わないといった様子だ。
ひとりだけに向けられる表情。ひとりだけに傾く愛。
――雅久って時々、重いんだもの。――
それでも、同じだけの愛を自分にも向けて欲しかった。雅久は達也と圭介の後姿を、羨望の眼差しで見送った。
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仕事が多忙を極めた四月半ばは残業と休日出勤に追われ、圭介のリハビリに付き添えなかった。圭介を自分に合わせるのも悪く、可能ならばひとりでクラブへ行くように釘を刺しておいたが、空返事ばかりの圭介がそれを聞き入れたかどうかは不明だ。達也がクラブへ通うことについては、体の不調を改善したいからと遠慮気味に窺うと、すんなり構わないと言ってくれた。その代わりにトレーニングが終わったらすぐに帰ることと、親しくない人間からの誘いには乗らないという、まるで子どもが親に約束させられるようなことが条件だった。
雅久に会った夜の翌日にさっそくフィットネスクラブへ電話をかけたら、五月からの雅久のクラスがまだ空いていたので、申し込みを済ませてある。毎週木曜の午後六時からの予定だ。繁忙期で蓄積された疲れから、体に痛みと重みを感じながら五月を迎え、激務が少しだけ落ち着いた連休明けに、達也はクラブに通い始めた。
「小野寺さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。先日はありがとうございました。よろしくお願いします」
「仕事は落ち着かれたんですか?」
「大体。残業続きだったんですけど、木曜日くらいは早く帰ろうと思って」
「なら良かった。今日は最初にカウンセリングと、姿勢のチェック、メニューの計画を立てます。その後ストレッチをしながら筋肉へのアプローチ、トレーニング、と段階を踏んでいきます。いきなり激しい運動をしたりしないので安心して下さい」
最後の台詞で達也の緊張した表情が緩んだ。トレーニングに付いていけるだろうかという不安があったのは正直なところだ。
「僕、昔から運動音痴で……」
「大丈夫、その人にあったメニューを作りますので」
そういう雅久は達也が到底持ち得ない体格に恵まれている。広い肩幅に堂々とした姿勢、スポーツウェアが体にフィットしているので引き締まった筋肉が浮かび上がっている。自分もどうせ男なら、このくらい逞しい身体になりたかったものだ。壁に背中を付けてみろと言われる。
「やっぱり猫背ですね。首が前に出てる。あと背中も壁に付いてない」
言いながら背中を撫でた。
「デスクワークの方に多いんですよね。姿勢が悪いと肩懲りや腰痛だけでなくて、色んな病気も引き起こします。姿勢を整えてインナーマッスルを鍛えると体は軽くなるし、腸内環境も良くなります。腸内環境が良いと栄養の吸収も便通も良くなって、効率よく老廃物を体外に出せるでしょ? これだけでかなりダイエットにもなりますしね。小野寺さんはダイエットの必要はないでしょうけど」
と、腰回りに手を当てられて思わず身をよじる。
「普段、肩懲りや腰痛の原因だな~って思うのはやっぱり仕事中ですか?」
「それもそうですけど……」
言いかけて達也はやめた。家事や炊事でも辛いことはある。ただ、一番は圭介とセックスをするとどうしても自分が動かなければならないことだ。馬乗りになって圭介の足を気遣いながら動くのは肉体的に辛い。が、それをまさか雅久には言えまい。
すぐ傍にあるマットに横になれと指示される。仰向けになって背中の下に手を入れられて探りながら指圧された。その度に片足が跳ねる。
「大丈夫ですか?」
「すみません、……く、くすぐったくて」
「敏感なんですねぇ」
達也は基本的に他人に体を触られるのが苦手だ。自分で手の届かないところに誰かが触るとくすぐったくて必要以上に反応してしまうからだ。圭介とは長年連れ添っていることもあって今更羞恥心はないが、言ってしまえば圭介以外の人間に触れられたことがないので、意思とは関係なく体が拒絶しないか心配だった。
「背中、ちゃんと床に付いてないの分かります? 仰向けになった時に背中が浮くのは腰が反ってるからです。腰回りの筋肉がないと一部分の筋肉だけで体を支えようとするからだんだん偏って姿勢が悪くなるんです。それで首が前に出てきて肩が凝ったりするんですよ。……失礼」
今度は足を片方ずつ持ち上げられて屈伸する。膝を胸に近づけようとすると腰が張って痛い。
「腰が引っ張られてる感じするでしょ?」
「はい、痛いです」
「これもちゃんと筋肉が付いていれば、引っ張られることはないんです。今日はこんな感じで順番にストレッチしていきましょう」
雅久は達也の両脚をふくらはぎから太ももにかけて丁寧に筋肉をほぐしていった。ただ撫でられて軽く揉まれるだけなのに、緊張して体に力が入ってしまう。
「小野寺さん、お勤め先は近くなんですか?」
「そう、ですね……近いです、わりと……。あ、このあいだのお店……マロニエでしたっけ。あの近くなんです」
「もしかしてクロカワ不動産?」
「そうです」
「大会社じゃないですか。すごいなぁ。マンションも社割とかあるんですか?」
「ありますよ。売れ残ったマンションは社宅になってます。僕は他社のマンションで住んでますけど」
愛社精神がないので、と加えると雅久は声を出して笑った。痛いところはないかと聞かれて首が痛いと答えたら、雅久は頭のほうへ移動して肩の下に手を滑り込ませた。これだけでもうくすぐったい。
「今のうちにマンション買ったら、あとが楽とかないんですか? 彼女と結婚してもそのまま住めるし」
「……彼女は、いないし……僕はたぶん、結婚しないから……」
キスマークを残しておいて彼女がいないことはないだろう、と雅久は達也の首元にある小さな痣を見て心の中で突っ込んだ。それにしても随分受け身な場所にキスマークを付けられたものだ。
「圭介と同居してるし、圭介といる限りは誰とも付き合わない……」
「……へぇ……。あ、痛いのって首の付け根ですか? このまま肩をすくめて下さい」
「あ、ちょっと楽になりました」
「でしょ。筋肉には体を動かすアウターマッスルと、体を支えるインナーマッスルがあります。インナーマッスルがないとアウターマッスルだけで体を支えようとするので、常に力が入った状態になります。そうなると疲れやすくなったり、いつもだるさが抜けないんですね。……で、筋肉が凝り固まるんですが、その状態で運動しても逆効果なので、まずは固くなった部分をほぐすのも大事なんです」
マッサージの効果で血流が良くなってきたからか、達也の表情から強張りがなくなった。弱すぎず強すぎずの力加減で凝り固まった筋をほぐされるのは気持ちが良いのか、瞼がとろんとしている。表情に気を取られていると、突然達也が大きく目を開けた。頬から耳にかけて一気に赤くなる。
「どうしました?」
視線をずらすと、達也の下半身の異変に気付いた。マッサージ中に無意識に覚醒するのはただの生理現象で珍しくないので特別驚きはしない。だが、達也は慣れていないせいか、やり過すことができずに飛び起きた。慌てて正座をして裾の短いTシャツで必死に隠そうとしている。
「ち、違うんです」
「血の流れが良くなると自然とそうなるんです。健康な証拠ですよ」
「で、でも」
達也が尋常じゃないくらい恥ずかしがるので、雅久まで恥ずかしくなってくる。「男同士なんだから」という言葉を飲み込んだ。
「あのー……こんなことを聞いて気を悪くされるかもしれないですが、もしかして、小野寺さん、白石さんとお付き合いされてるんですか……?」
「……」
「それでその、同性がお好き、とか……」
真っ赤な顔で俯いたまま、達也は下唇を噛み締めた。
「ごめんなさい。いや、あのもしそうなら、俺、デリカシーのないことしたり言ったりしたんじゃないかと思って……」
「……確かに僕は圭介と付き合っています。……でも同性が好きってわけではない、と思う。……彼しか好きになったことがないので」
「え、」
「ご、ごめんなさい。もう時間ですよね。今日は失礼していいですか。……ありがとうございました」
達也は雅久の返事を待たずにコーチングルームを飛び出していった。取り残された雅久は茫然とし、達也が圭介と付き合っていることや達也が圭介以外の人間を好きになったことがないという事実に静かに驚いていた。そして何より戸惑ったのはそれを聞いて嫌悪を抱くどころか、少し羨ましいと思ったことだ。二十数年生きてきて荒んだ心を持たずに一途にひとりの人間だけを想い続ける姿は理想だし、稀だ。
圭介を想い、彼の足が治るようにと尽力し、生理現象にすらうろたえる純情さは胸の奥がむず痒いほど健気だと思った。
―――
およそ六年間付き合っていた雅久と翠は、何度も衝突を繰り返した。大学を卒業して雅久が理学療法士の専門学校へ通い、IT企業に就職した翠が社会人として様になってきた頃のことだ。学生時代の甘さがなくなり、女としても社員としても自信を持ち始めた翠は、男性から言い寄られることが増えた。もともと持て囃されることに慣れている翠は、適当なあしらい方も、誘いの受け方も駆け引きの仕方も知っている。未だ勉学に励んでいる雅久とは生活リズムも価値観もずれ、同じ会社の社員に浮ついたことがあった。当時、あまりゆっくり会う時間はなかったというのに、翠は寂しがる様子も不満を言うこともなかったので、訝しんだ雅久が問い詰めたらあっさり白状した。
――だって、雅久とは時間が合わないし、わたしの仕事の悩み事なんて、話しても分からないでしょ? ――
特定の恋人がいるのに他の人間に浮つくことが許せない雅久は、翠に強く言い返した。
自分は一度も浮気をしたことはないし、したいとも思わない、生活リズムが変わってもきみを信じていたのに、不誠実じゃないのか、と。
翠は反省の色を見せなかったし、あくまで価値観が違うと貫いた。翠の思いきりのいい性格は好きだが、軽率で薄情な行為はどうしても理解し難い。雅久から別れを切り出そうと一度は覚悟した。けれども数日後に翠のほうから悪かったと折れたのだった。
――ごめんなさい。やっぱりわたしには雅久しかいないの。もう絶対浮気しないから、許してくれる? ――
―――
事務室のデスクでぼんやりしていた雅久はチャイムの音で我に返り、慌ててコーチングルームへ向かった。日曜日の午後三時半。もしかしたら、と思ったところに、別のコーチングルームから達也と圭介が出てきたのを見かけた。けだるそうに杖をついている圭介に甲斐甲斐しく手を貸す達也。恋人だけに見せる笑顔は長年付き合っていると思えないほど初々しい。時折圭介が鬱陶しそうにしているが、そんなことも構わないといった様子だ。
ひとりだけに向けられる表情。ひとりだけに傾く愛。
――雅久って時々、重いんだもの。――
それでも、同じだけの愛を自分にも向けて欲しかった。雅久は達也と圭介の後姿を、羨望の眼差しで見送った。
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