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羨望1

 定時を過ぎても仕事が片付かず、合間を縫って「今日は遅くなる」と圭介にメッセージを入れておいた。

「小野寺、悪いんだけど、俺の仕事ちょっと手伝ってくれないか」

 これから上司を手伝ったら、家に帰るのは日付が変わる頃だろう。達也は仕事に打ち込みながらも、圭介が不自由していないかが心配だった。

 ――は? 変更? ―—

 雅久と話をした夜、トレーナーを変えてもらおうとさっそく圭介に持ち掛けたら、どういうわけか冷たい反応があった。

「宮崎先生は、医療的なリハビリは専門じゃないんだって。堤先生っていう人がそういうのを含めて指導してるトレーナーだから、その人のほうがいいんじゃないかと思って」

「別に今のままで問題ない。めんどくせぇし、変えなくていい」

「でも、少しでも良くなることを考えたら……。クラブに通い出してからも足は相変わらずなんでしょ?」

「たかが足の一本、役に立たなくてもなんとかなってる」

「だけど、それじゃいつまで経っても治らないかもしれないし、サッカーしたいでしょ? 今からでも遅くないからさ……」

「うるっせぇな! やらねーっつったら、やらねーんだよ!!」

 大声を上げられて肩が跳ねた。良かれと思って提案したことなのに、かえって機嫌を悪くさせてしまった。達也は勝手に決めてしまったことを反省し、小さく「分かった」とだけ返した。落胆して項垂れていると、背後から抱き締められた。

「……お前が俺のためを思ってしてくれてるのは分かってんだよ」

「大丈夫。僕も勝手なことしてごめんね」

 顎に手を添え、振り向かされてキスをした。

「本当に俺は足なんか治らなくてもいいんだ」

「僕は元気に走り回ってる圭介が見たいよ」

「走れない俺は嫌いか」

「……好き。でも、昔みたいに生き生きとサッカーしてる圭介も好き」

「俺がこうなったのは、自業自得だ」

「違うよ、圭介が事故にあったのは僕のせいなんだ」

「なんだよ、この庇い合い。気持ちワル」

「本当にいいの? 今のままで」

「うん、いい」

「……分かった。明日、断りに行くよ」

 圭介がリハビリに消極的なのは達也も気付いている。フィットネスクラブに通い出したのも達也がしつこく誘ったからだ。圭介はどちらかというと渋々始めた。クラブにいる時もどこかやる気のない態度が伝わっているのか、宮崎も圭介には力を入れていない。かと言って説教じみたことを言えば圭介の機嫌が悪くなるのも知っている。だからいつも彼の顔色を窺いながら達也が先回りをして促しているのだ。圭介がなぜ、ああもやる気がないのか達也には分からない。十七年も一緒にいるのに、達也は圭介のことをおそらく半分も知らない。

 ―――

 仕事が忙しくてどんなに疲れていても、圭介に誘われると断れない。昨夜も二度抱かれたので体が重くて仕方がなかった。日に日にひどくなる肩懲りと腰痛をどうにかしたいと思いながら叶わずにいる。頭痛がしてきたところで上司から帰っていいと許しが出たので、達也は早々に片付けて会社を出た。

 少しだけひんやりする春の夜風が心地良い。街中とはいえ日付の変わった深夜では店も道路もがらんと暗い。退社して気が抜けたからか、頭痛がひどくなってきた。閑散とした歩道を唯一、橙の灯りで照らしている店があった。女性に人気の夜カフェ、マロニエだ。そういえば毎日通るのにこの店には一度も来たことがない。そんなことを考えていたらズキンとこめかみが痛み、思わず頭を抱えてその場にうずくまった。眩暈と吐き気がする。今、立ち上がったらまともに歩けないだろう。ひと気もないので助けも求められない。その時、

「大丈夫ですか?」

 低く、はっきりした声を掛けられた。ゆっくり頭を上げると見たことのある男が心配そうな顔つきで達也を覗き込んでいた。

「……あ、あなた」

「あれ? えーと、小野寺さん?」

 思いがけず声を掛けてくれたのは堤雅久だった。クラブで見る彼はいつも黒のスポーツウェアを着ているので、ポロシャツとハーフパンツという見慣れない格好のせいか名前がなかなか出てこなかった。

「え……と、堤、先生」

「どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」

「いえ、ちょっと……頭痛がして。あ、大丈夫です。もう帰るだけですから」

「でも、うずくまるほど痛いんでしょう?」

 雅久はすぐ傍のマロニエに目をやり、少し休みましょう、と腕を取って立ち上がらせてくれた。

「でも、もうお店、閉まるんじゃ」

「ここは深夜二時までやってるんです。まだ一時間半はありますから」

 なぜそんなことを知っているのだろうと不思議に思ったが、声を出すのも辛いので飲み込んだ。
 店に入り、隅の二人掛けの席に案内される。深夜二時までの営業とはいえ、やはり客はそれほどいない。雅久は座るなりウェイターに頭痛薬はないかと無理な注文をした。慌てて辞退しようとしたが、幸い店に常備薬があるというので、素直に甘える。「良かったですね」と雅久に微笑まれて、つられて笑みを返した。

「何か飲みます? あったかいものとか」

 テーブルに置かれているメニュー表にホットレモネードと書かれてあるのを見て、達也は迷いなく決めた。

「ホットレモネードと言えば、このあいだのレモネード、すごく美味しかったです。酸味と甘みのバランスが絶妙で。ありがとうございました。小野寺さんが作られたんですか?」

「はい。でも、僕より連れのほうが上手く作れます。僕が作ると甘みが足りないっていつも言われるんです」

 連れ、と聞いて雅久の頭にすぐ浮かんだのは、

「白石さん?」

「あ、はい」

「仲がよろしいんですね。まるでご兄弟のようで」

「家族ではないですが、小さい頃から一緒なので家族みたいなものですね。僕らは地元を離れて暮らしているので、知り合いがいなくて頼れる人がお互いしかいないんです」

 喋ると痛みが走るのか、達也はこめかみを親指で押しながら小さく息を吐いた。ちょうどウェイターが薬を持ってきた。

「大丈夫です? 今までお仕事だったんですか?」

「ええ。今、繁忙期なんです。……堤先生はなぜこんな時間にここに?」

 雅久はそれに答えかねた。翠と別れてからひとりの時間が多くなった雅久は、持て余した暇をどう使えばいいのか分からなかった。観たいテレビもないし眠くもないので、目的もなく気晴らしに散歩をしていただけだ。体を動かせば眠れるのではないかと思ったのだ。マロニエの近くを通ったのは偶然だ。かつてよく来ていたこの店も、翠と別れた日を思い出しては後ろ向きな気分になるので本当は入りたくなかった。けれど、それを達也に話すのもおかしい。返答に詰まっていると達也は敏感に察したらしく、話題を変えた。

「あの、先日はせっかく誘って下さったのに申し訳ございませんでした。その……誤解されてないかなって、気になってて」

「誤解?」

「堤先生が不満とかそういうことは一切ないんです。できればお願いしたかった。でも肝心の圭介本人が乗り気でなくて……というのも、リハビリそのものにやる気がないみたいで。少し気難しい人間でもありますから、しつこく言い聞かすとクラブを辞めてしまう可能性もあるので、今回は辞退したんです。本当にすみませんでした」

 まだ半人前の自分が簡単に信用されなくて当然だと分かってはいるが、一方的に断られて雅久のプライドが傷付いたのは確かだ。けれども、達也から本当のことを聞かされて、今すっきりと心の奥のわだかまりがなくなった。そうなると今度はいつまでもいじけていた自分が恥ずかしくなる。

「気にしてないからいいんです。だけど、どうして白石さんはやる気がないんですか?」

「それが僕にも分からなくて。足の調子はどうかと訊ねても曖昧な返事しかないし、別に動かないなら動かないでいいとか、そんなことも言うし。かと言って無理強いすると機嫌を損ねる。病院で検査をした時にはこれといった異常はなかったんです。神経になんらかの損傷があるんじゃないかってだけで。足の感覚だけは本人にしか分からないんで、どうしようもなくて」

 はあ、と深い溜息をついた。長年一緒にいるのに、達也は圭介に対して随分遠慮があるなと雅久は感じた。しかし、その理由まで聞くのはさすがに無粋だ。

「……サッカーをしている時の圭介は、本当に素敵なんです。ああ、好きなことをしている人間ってこんなに輝くんだって。僕にはなんの取柄もないから余計にそういう特別なものを持ってる人が羨ましいし尊敬する。圭介も、本当はもう一度サッカーをしたいはずなんです。だから、どうしても治してやりたい」

 どこか悲壮感を漂わせた達也は、男である雅久から見ても妖艶だ。瞼を落とすと長い睫毛が目立つ。改めて綺麗な造りをしていると、思わず見入ってしまった。

 はっきり言って圭介がサッカーを辞めようが続けようが雅久にはどっちでもいい。けれども彼の復帰を切実に願う達也を見ると応援してやりたくもなった。

「白石さん、早く良くなるといいですね」

 薬が効いてきたのか、少しマシになった顔色でにっこりと微笑む達也に、癒されたのは雅久のほうだった。

「薬、効いてきました?」

「はい。本当にありがとうございました。堤先生に声を掛けてもらえなかったら、いつまでも動けなかったかもしれない」

 首を回して肩を交互に上下させる。慢性的な肩懲りを持つ人間の癖だ。

「小野寺さん、もしかして頭痛って、肩懲りですか? 首も凝ってそうですね」

「たぶん。治したいけど、マッサージ苦手で」

 それならば、と口を開きかけて止めた。また断られたらという考えが一瞬、頭をよぎったからだ。けれども、それを悟ったように達也に言われた。

「パーソナルトレーナーって身体作りもするって言ってましたよね。もしかして肩懲り改善とかの指導もされてますか?」

「は、はい!」

「ならお願いしようかな……。ちょうど体を動かしたいし、肩懲り治したいし」

「通われます?」

「今月は時間がないけど、来月からなら……明日、さっそく申し込んでみます」

「トレーニングの目的を具体的に言って下されば、俺が担当になれるかもしれないけど、都合のいい時間帯とかあるだろうし、他のトレーナーもいますから……」

「僕は堤先生にお願いしたいから」

 断られた時は腹が立ったが、頼りにされると嬉しくなる。気分の変わり様が単純すぎて笑える。
 達也がホットレモネードを飲み干しているのを確認して店を出た。スマートフォンのホーム画面は深夜一時を表示していた。

「すっかり遅くなってしまって申し訳ない。気を付けて帰ってくださいね」

「ありがとうございました。堤先生も」

 達也はお辞儀をしたあと、また無意識に首を回した。その際に首元に痣があるのを見た。どう見ても他人に付けられたものだ。雅久は無垢な笑顔で去っていく達也を見送りながら、か弱そうな見た目なのに彼女がいるのかと、その時は深く考えはしなかった。


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