堤 雅久3
***
翌週の日曜日、いつも通りの仕事をこなしてコーチングルームから事務室へ寄った。
「宮崎先生、お疲れ様ですー」
「ああ、堤先生。お疲れ」
宮崎はもう五十を過ぎている。頭髪の大半は白髪が占め、笑うと皺が目立つが、長年鍛えられているだけあって体つきはがっしりと引き締まった男だ。丁度授業を終えたところなのか、指導カードを書いていた。
「キッズですか?」
「まあね。いやー、いつも不思議なんだけどさ、あんな小さい子でも体の使い方が上手い子と下手な子ってすぐ分かるよねー」
「そうですね。まあ、上手い子にはもっと上手くさせて、下手な子にはせめて標準まで引き上げてやるのが我々の仕事なんでしょうがね」
「堤先生は相変わらず立派だねえ」
と言って、宮崎は首を回した。
「宮崎先生、日曜日の二時半からの生徒で、白……川? 白石? って生徒いますか?」
「んーと、ああ、白石さんね。いるよ。元サッカー選手なの」
「あ、そうなんですか」
「カンタマーレの選手だよ。J2だけど、サッカーファンにならけっこう知られてるみたいだよ。二ヵ月前に辞めたんだって」
「へぇ、リハビリ……ですよね? 怪我かなんかしたんですか?」
「いや、交通事故だよ。左足骨折して、痺れと脱力感が抜けなくて杖がないとさっさと歩けないみたいよ」
「今も?」
「本人曰く変わりはないらしいよ。ただねぇ、なんっか、こうやる気を感じないんだよね。本気で治したいと思ってないというか」
「なんででしょうね」
「知らないよ、僕が聞きたいよ」
「付き添いの方がいませんでした?」
「うん、いるよ。毎回。トレーニング中はベンチでずっと待ってる。見たことある? すごいキレーな男の人だよ。なんかいっつも寄り添っててさ、どういう関係なんだろうね」
話がズレてしまったので、雅久は無理やり戻した。
「宮崎先生がその白石さんって人に指名されたんですか?」
「いや? 別に? 日曜のこの時間しか来れないって言うから。本当にやる気あんのかね」
先日の達也の様子と宮崎との会話が一致しない。これ以上聞いたら宮崎のプライドを傷つけかねないので自粛した。ちょうど、もうすぐ白石が来る頃だろう。雅久は直接達也に話を聞くためにその時間帯を狙うことにした。
二時半を少し過ぎて宮崎と白石のいるコーチングルームへ行くと、部屋の前のベンチに達也の姿はなかった。暫く周辺を探してみたが見当たらない。諦めて自販機で缶コーヒーを買い、中庭に出た時だ。
「すみません」
背後から通る声が雅久を呼び止めた。振り返ると達也がいた。白Tシャツにグレーのパーカーを羽織っている。子どもじみた服装が華奢な彼によく似合った。
「あの、先週、ペットボトルを託(ことづけ)けて下さいましたか?」
「ああ、はい。お金入れっぱなしだったの忘れてたでしょう」
達也はやっぱり、と頭を掻いた。どこか間の抜けた雰囲気が微笑ましい。こうして明るい陽射しの中でいると、肌の白さと髪の光沢が際立った。
「僕、百円しか入れた記憶がなくて。確か、百六十円でしたよね? もしかして六十円足して下さったんですか?」
「ええ。百円返金しても良かったんですが、リハビリ後だと喉が渇いてるかなと思って」
「そんなお気遣いまで……。本当にすみません。ありがとうございます。あの……今、お時間大丈夫ですか?」
達也のほうからそれを聞かれると思わず、「えっ?」と聞き返す声が裏返った。
「よかったら、これ受け取ってください」
小さな紙袋を渡された。中にはタンブラーに入ったレモン水と、雅久でも知っている有名スイーツ店のバウムクーヘンが入っていた。
「これは?」
「連れの実家がレモンを作ってて。旬の時期は過ぎちゃったんですが、蜂蜜漬けにしたものでレモネードを作りました。バウムクーヘンは……たまたま店に寄ったらあったんで。すぐ売り切れちゃってなかなか買えないんですよね」
「なんで、それを俺に?」
「気持ちばかりのお礼です。甘いものが苦手でしたらすみません」
「甘党です。……お礼なんていいのに。ありがとうございます」
「二度もペットボトル下さったじゃないですか。用はそれだけなんです。引き止めてごめんなさい」
去ろうとする達也を呼び止めたが、どう話を切り出していいのか分からない。しどろもどろになっている雅久を、達也が訝しんで見上げている。足元にしなびた桜の花びらが落ちているのを見た。
「桜っ、ちっ……ちゃいました……ね」
「はあ」
「あーお花見行きました? 俺は今年は行けなかったんです。なんて、毎年行ってるみたいに言ってるけど、ここ何年も行ってません」
達也がくすりと笑う。
「満開の桜も綺麗だけど、俺は散ってる桜のほうが好きだなぁ。木の下にさ、花びらがワーッて敷き詰められてるのとか綺麗だと思いません? なんかすみません、変な話して」
「いえ、僕も散ってる桜のほうが好きです」
達也の表情が和んだのを見て、話を切り出した。
「今、白石さんリハビリ中ですよね? もしお時間があるなら、少しお話聞かせていただいても?」
「僕の?」
「このあいだ、白石さんの足の具合で心配されてるようでしたので」
「助かります。本当は僕も聞いて欲しかったんです」
桜の木の下に置かれているベンチに腰掛けた。木は葉桜になっており、時々思い出したように上から花びらが落ちた。
「えーと、白石さんはどういう経緯で、ここに通うことになったんですか?」
「け……白石は、カンタマーレの選手で、もともとすごく運動神経の良い奴でした。半年前に横断歩道に飛び出したら、横から来た車にぶつかったんです。ぶつかったといっても、左足だけです。咄嗟に避けられたので。衝撃で転がったりはしましたが、幸い二次被害もなく、骨折だけで済みました。……怪我自体はたいしたことなかったんです。しばらくギプスの生活をしただけで。だけどギプスが取れてから、痺れや脱力感が残るって……」
「病院で診てもらいました?」
「はい。でもそれらしい原因は分からず、日にちが経てば治るだろうと言われました。白石は中学生の頃に左膝の靭帯を痛めたこともあるので、それもあるのかな……って、これは僕の勝手な考えですが。だけど痺れはなくならず、歩こうとしても突然かくっと力が抜けたり。危ないので今は杖を持たせてます」
「どうしてこのクラブに?」
「整形外科にかかろうとしたんですが、痺れがなくならないことにはどうにもできないって言われて。知り合いからこのクラブにそういったリハビリの知識のあるトレーナーがいるって聞いたんで、僕が無理やり引っ張ってきました」
この小さなフィットネスクラブで医療的なリハビリの知識のあるトレーナーは雅久だけだ。雅久自身、自慢ではないが、その自覚もある。
「宮崎先生を指名されたんですか?」
「いえ、名前が分からなかったので。でも白石の足のことは伝えてあるし、てっきり宮崎先生がそのトレーナーなんだと思ってました」
違うのか? とでも言いたげな視線を向けられ、雅久は困惑しながら正直に答えた。
「宮崎先生はどちらかというとスポーツ選手への指導がメインなんです。医療的な知識としては、なくはないですが……」
「もしかして、意味はない……?」
落胆と、やや憤りの色を見せたので、雅久は慌てて否定した。
「意味がないことはないです。トレーナーといっても色々種類があるんです。宮崎先生のようにスポーツ選手向けのトレーニングやリハビリを行うトレーナーをアスレティックトレーナー、俺のように医療的なリハビリや身体作りのエクササイズなどの指導をするのをパーソナルトレーナーって言います。こういったフィットネスクラブだとインストラクターもトレーナーもごちゃごちゃになって、目的の指導が受けられないことも正直言って多々ありますよね。……ごめんなさい、うちのクラブからの説明と配慮が足りなかった」
頭を下げると達也が「やめて下さい」と慌てて止めた。
「そもそも僕がよく調べもしないで決めてしまったのが軽率だったんです。話を聞いて下さってありがとうございます。僕、もう一度ちゃんと調べてみます。フィットネスクラブじゃなくても、個人の教室とかもあるかもしれないですよね」
「俺の知ってる限りでは、この辺ではパーソナルトレーナーが個人的に立ち上げてる教室はないんですよね」
「そうですか……」
あからさまにシュンとする達也が気の毒になって、雅久は自ら提案する。
「今、日曜の二時半からですよね。一時に変更できませんか? その時間、来月から生徒がひとり辞めるので俺のクラスに空きが出るんです。よかったら俺が見ましょうか」
「本当に!?」
「はい。五月からですけど」
達也は雅久の両手をぎゅっと握り締めた。男の手のわりには細くて柔らかい手だなと思った。達也は目をキラキラさせて雅久の提案に乗った。よっぽど嬉しいのだろう。
「じゃあ、受付で時間変更の希望を出しておいてくださいね」
「ありがとうございます! けい……白石にも伝えておきます!」
ちょうど達也のスマートフォンが鳴った。達也は相手が誰か分かった上で電話には出ず、立ち上がる。
「失礼します!」
ペコペコと忙しなくお辞儀をして、達也は小走りで去った。暫くその後姿を見守っていたら、数メートル走ったところで達也が振り返り、最後に深々と頭を下げて建物の中へ消えた。どこか憎めない男だ。
―――
翌日、夕方以降に受け持つクラスが多い雅久は夜遅くまでクラブに居残っていた。帰宅前にシャワーを済ませ、事務室で簡単な雑務をこなす。午後八時頃になってクラブを出た時だ。入口近くの外灯の下でスーツの男が立っていた。達也だった。
「こんばんは」
「小野寺さん、どうしたんですか?」
いつも中性的な私服しか見ないので、スーツ姿というのは新鮮だ。達也は表情を曇らせたまま、言いにくそうに口を開いた。
「あの……昨日の、件なんですが」
「昨日……あ、白石さんの?」
「はい、先生に見てもらうっていう……。それでその……やっぱりお断り、します」
「え!? だって、あんなに喜んでらしたのに」
「は、はい。でもその……」
達也がちらりと視線を横に投げたので、その先を追ったら暗闇の中で圭介が立っていた。杖をついてけだるそうに煙草を吸っている。
「圭介の仕事の兼ね合いとかで、やっぱり無理かなって……」
「でも二時半に来れるんだから、一時に変えるくらい……」
「いいんです!」
はっきりと拒否されて雅久は何も言えなくなった。内心、あきらかに嘘と分かる言い訳で断られて腹が立っている。
あんなに喜んでいたのに、本気で治したいんじゃないのか、なぜ自分で決めずに達也にすべて言わせるのだ、と、暗がりに立っている圭介を睨み付けた。鋭い眼と視線が合ったが、圭介は表情ひとつ変えずに紫煙を闇にくゆらせる。
「……申し訳ございません」
事務的にそう言った達也の声は震えていて、頬を真っ赤にしている。
「分かりました……。頑張ってください」
「失礼します」
走り去った達也から微かにレモンのような香りが残った。まっすぐ圭介のもとへ向かった達也は、圭介に寄り添って歩いた。ふたりのあいだに入り込めない空気感は微笑ましいというより異様だ。本当の理由を言えない彼らなりの事情があるのかもしれない。けれども、どうしても雅久には「お前では不満だ」と言われたような気がしてならなかった。
⇒
翌週の日曜日、いつも通りの仕事をこなしてコーチングルームから事務室へ寄った。
「宮崎先生、お疲れ様ですー」
「ああ、堤先生。お疲れ」
宮崎はもう五十を過ぎている。頭髪の大半は白髪が占め、笑うと皺が目立つが、長年鍛えられているだけあって体つきはがっしりと引き締まった男だ。丁度授業を終えたところなのか、指導カードを書いていた。
「キッズですか?」
「まあね。いやー、いつも不思議なんだけどさ、あんな小さい子でも体の使い方が上手い子と下手な子ってすぐ分かるよねー」
「そうですね。まあ、上手い子にはもっと上手くさせて、下手な子にはせめて標準まで引き上げてやるのが我々の仕事なんでしょうがね」
「堤先生は相変わらず立派だねえ」
と言って、宮崎は首を回した。
「宮崎先生、日曜日の二時半からの生徒で、白……川? 白石? って生徒いますか?」
「んーと、ああ、白石さんね。いるよ。元サッカー選手なの」
「あ、そうなんですか」
「カンタマーレの選手だよ。J2だけど、サッカーファンにならけっこう知られてるみたいだよ。二ヵ月前に辞めたんだって」
「へぇ、リハビリ……ですよね? 怪我かなんかしたんですか?」
「いや、交通事故だよ。左足骨折して、痺れと脱力感が抜けなくて杖がないとさっさと歩けないみたいよ」
「今も?」
「本人曰く変わりはないらしいよ。ただねぇ、なんっか、こうやる気を感じないんだよね。本気で治したいと思ってないというか」
「なんででしょうね」
「知らないよ、僕が聞きたいよ」
「付き添いの方がいませんでした?」
「うん、いるよ。毎回。トレーニング中はベンチでずっと待ってる。見たことある? すごいキレーな男の人だよ。なんかいっつも寄り添っててさ、どういう関係なんだろうね」
話がズレてしまったので、雅久は無理やり戻した。
「宮崎先生がその白石さんって人に指名されたんですか?」
「いや? 別に? 日曜のこの時間しか来れないって言うから。本当にやる気あんのかね」
先日の達也の様子と宮崎との会話が一致しない。これ以上聞いたら宮崎のプライドを傷つけかねないので自粛した。ちょうど、もうすぐ白石が来る頃だろう。雅久は直接達也に話を聞くためにその時間帯を狙うことにした。
二時半を少し過ぎて宮崎と白石のいるコーチングルームへ行くと、部屋の前のベンチに達也の姿はなかった。暫く周辺を探してみたが見当たらない。諦めて自販機で缶コーヒーを買い、中庭に出た時だ。
「すみません」
背後から通る声が雅久を呼び止めた。振り返ると達也がいた。白Tシャツにグレーのパーカーを羽織っている。子どもじみた服装が華奢な彼によく似合った。
「あの、先週、ペットボトルを託(ことづけ)けて下さいましたか?」
「ああ、はい。お金入れっぱなしだったの忘れてたでしょう」
達也はやっぱり、と頭を掻いた。どこか間の抜けた雰囲気が微笑ましい。こうして明るい陽射しの中でいると、肌の白さと髪の光沢が際立った。
「僕、百円しか入れた記憶がなくて。確か、百六十円でしたよね? もしかして六十円足して下さったんですか?」
「ええ。百円返金しても良かったんですが、リハビリ後だと喉が渇いてるかなと思って」
「そんなお気遣いまで……。本当にすみません。ありがとうございます。あの……今、お時間大丈夫ですか?」
達也のほうからそれを聞かれると思わず、「えっ?」と聞き返す声が裏返った。
「よかったら、これ受け取ってください」
小さな紙袋を渡された。中にはタンブラーに入ったレモン水と、雅久でも知っている有名スイーツ店のバウムクーヘンが入っていた。
「これは?」
「連れの実家がレモンを作ってて。旬の時期は過ぎちゃったんですが、蜂蜜漬けにしたものでレモネードを作りました。バウムクーヘンは……たまたま店に寄ったらあったんで。すぐ売り切れちゃってなかなか買えないんですよね」
「なんで、それを俺に?」
「気持ちばかりのお礼です。甘いものが苦手でしたらすみません」
「甘党です。……お礼なんていいのに。ありがとうございます」
「二度もペットボトル下さったじゃないですか。用はそれだけなんです。引き止めてごめんなさい」
去ろうとする達也を呼び止めたが、どう話を切り出していいのか分からない。しどろもどろになっている雅久を、達也が訝しんで見上げている。足元にしなびた桜の花びらが落ちているのを見た。
「桜っ、ちっ……ちゃいました……ね」
「はあ」
「あーお花見行きました? 俺は今年は行けなかったんです。なんて、毎年行ってるみたいに言ってるけど、ここ何年も行ってません」
達也がくすりと笑う。
「満開の桜も綺麗だけど、俺は散ってる桜のほうが好きだなぁ。木の下にさ、花びらがワーッて敷き詰められてるのとか綺麗だと思いません? なんかすみません、変な話して」
「いえ、僕も散ってる桜のほうが好きです」
達也の表情が和んだのを見て、話を切り出した。
「今、白石さんリハビリ中ですよね? もしお時間があるなら、少しお話聞かせていただいても?」
「僕の?」
「このあいだ、白石さんの足の具合で心配されてるようでしたので」
「助かります。本当は僕も聞いて欲しかったんです」
桜の木の下に置かれているベンチに腰掛けた。木は葉桜になっており、時々思い出したように上から花びらが落ちた。
「えーと、白石さんはどういう経緯で、ここに通うことになったんですか?」
「け……白石は、カンタマーレの選手で、もともとすごく運動神経の良い奴でした。半年前に横断歩道に飛び出したら、横から来た車にぶつかったんです。ぶつかったといっても、左足だけです。咄嗟に避けられたので。衝撃で転がったりはしましたが、幸い二次被害もなく、骨折だけで済みました。……怪我自体はたいしたことなかったんです。しばらくギプスの生活をしただけで。だけどギプスが取れてから、痺れや脱力感が残るって……」
「病院で診てもらいました?」
「はい。でもそれらしい原因は分からず、日にちが経てば治るだろうと言われました。白石は中学生の頃に左膝の靭帯を痛めたこともあるので、それもあるのかな……って、これは僕の勝手な考えですが。だけど痺れはなくならず、歩こうとしても突然かくっと力が抜けたり。危ないので今は杖を持たせてます」
「どうしてこのクラブに?」
「整形外科にかかろうとしたんですが、痺れがなくならないことにはどうにもできないって言われて。知り合いからこのクラブにそういったリハビリの知識のあるトレーナーがいるって聞いたんで、僕が無理やり引っ張ってきました」
この小さなフィットネスクラブで医療的なリハビリの知識のあるトレーナーは雅久だけだ。雅久自身、自慢ではないが、その自覚もある。
「宮崎先生を指名されたんですか?」
「いえ、名前が分からなかったので。でも白石の足のことは伝えてあるし、てっきり宮崎先生がそのトレーナーなんだと思ってました」
違うのか? とでも言いたげな視線を向けられ、雅久は困惑しながら正直に答えた。
「宮崎先生はどちらかというとスポーツ選手への指導がメインなんです。医療的な知識としては、なくはないですが……」
「もしかして、意味はない……?」
落胆と、やや憤りの色を見せたので、雅久は慌てて否定した。
「意味がないことはないです。トレーナーといっても色々種類があるんです。宮崎先生のようにスポーツ選手向けのトレーニングやリハビリを行うトレーナーをアスレティックトレーナー、俺のように医療的なリハビリや身体作りのエクササイズなどの指導をするのをパーソナルトレーナーって言います。こういったフィットネスクラブだとインストラクターもトレーナーもごちゃごちゃになって、目的の指導が受けられないことも正直言って多々ありますよね。……ごめんなさい、うちのクラブからの説明と配慮が足りなかった」
頭を下げると達也が「やめて下さい」と慌てて止めた。
「そもそも僕がよく調べもしないで決めてしまったのが軽率だったんです。話を聞いて下さってありがとうございます。僕、もう一度ちゃんと調べてみます。フィットネスクラブじゃなくても、個人の教室とかもあるかもしれないですよね」
「俺の知ってる限りでは、この辺ではパーソナルトレーナーが個人的に立ち上げてる教室はないんですよね」
「そうですか……」
あからさまにシュンとする達也が気の毒になって、雅久は自ら提案する。
「今、日曜の二時半からですよね。一時に変更できませんか? その時間、来月から生徒がひとり辞めるので俺のクラスに空きが出るんです。よかったら俺が見ましょうか」
「本当に!?」
「はい。五月からですけど」
達也は雅久の両手をぎゅっと握り締めた。男の手のわりには細くて柔らかい手だなと思った。達也は目をキラキラさせて雅久の提案に乗った。よっぽど嬉しいのだろう。
「じゃあ、受付で時間変更の希望を出しておいてくださいね」
「ありがとうございます! けい……白石にも伝えておきます!」
ちょうど達也のスマートフォンが鳴った。達也は相手が誰か分かった上で電話には出ず、立ち上がる。
「失礼します!」
ペコペコと忙しなくお辞儀をして、達也は小走りで去った。暫くその後姿を見守っていたら、数メートル走ったところで達也が振り返り、最後に深々と頭を下げて建物の中へ消えた。どこか憎めない男だ。
―――
翌日、夕方以降に受け持つクラスが多い雅久は夜遅くまでクラブに居残っていた。帰宅前にシャワーを済ませ、事務室で簡単な雑務をこなす。午後八時頃になってクラブを出た時だ。入口近くの外灯の下でスーツの男が立っていた。達也だった。
「こんばんは」
「小野寺さん、どうしたんですか?」
いつも中性的な私服しか見ないので、スーツ姿というのは新鮮だ。達也は表情を曇らせたまま、言いにくそうに口を開いた。
「あの……昨日の、件なんですが」
「昨日……あ、白石さんの?」
「はい、先生に見てもらうっていう……。それでその……やっぱりお断り、します」
「え!? だって、あんなに喜んでらしたのに」
「は、はい。でもその……」
達也がちらりと視線を横に投げたので、その先を追ったら暗闇の中で圭介が立っていた。杖をついてけだるそうに煙草を吸っている。
「圭介の仕事の兼ね合いとかで、やっぱり無理かなって……」
「でも二時半に来れるんだから、一時に変えるくらい……」
「いいんです!」
はっきりと拒否されて雅久は何も言えなくなった。内心、あきらかに嘘と分かる言い訳で断られて腹が立っている。
あんなに喜んでいたのに、本気で治したいんじゃないのか、なぜ自分で決めずに達也にすべて言わせるのだ、と、暗がりに立っている圭介を睨み付けた。鋭い眼と視線が合ったが、圭介は表情ひとつ変えずに紫煙を闇にくゆらせる。
「……申し訳ございません」
事務的にそう言った達也の声は震えていて、頬を真っ赤にしている。
「分かりました……。頑張ってください」
「失礼します」
走り去った達也から微かにレモンのような香りが残った。まっすぐ圭介のもとへ向かった達也は、圭介に寄り添って歩いた。ふたりのあいだに入り込めない空気感は微笑ましいというより異様だ。本当の理由を言えない彼らなりの事情があるのかもしれない。けれども、どうしても雅久には「お前では不満だ」と言われたような気がしてならなかった。
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