堤 雅久2
***
「早かったのね」
カツカツとヒールの音を響かせて、ウェーブの茶髪の女が現れた。恋人の翠である。正確に言えば、元恋人だ。
昔から彼女が贔屓にしているカフェ・マロニエを予約しておいたのだが、彼女は雅久の気遣いを知ってか知らずか特に喜ぶ様子を見せなかった。それどころか身なりも適当だ。カーディガンとスカートは誰が見ても分かるファストファッションのもので、ヒールはつま先が黒く汚れている。最低限、色合いを間違えないことだけを意識した格好だ。メイクも軽くはしてあるが、口紅を塗っていないせいで顔色が冴えなく見える。美意識の高い翠は、今まで身だしなみに手を抜いたことはなかった。六年間付き合って、ただの一度もだ。いきなりこんな投げやりな格好を見せられては、もう彼女にやり直す気はないのだと思わずにいられない。それでも雅久は無理やり明るく笑ってみせた。
「早いって、約束の時間は七時だぞ。十五分遅れたのはきみだ」
「十五分くらい、遅刻って言わないわよ」
雅久の前の席についた翠は、冷やを持ってきたウェイトレスに「アメリカン」と手っ取り早く注文した。
「何か食べたら?」
「お腹すいてないから、いらないわ。それにわたし、また会社に戻らないといけないの」
「そうか。大変なんだな」
「しょせん、我儘社長のお守りよ」
翠の注文したアメリカンはまだ来ていないが、雅久は早々に本題に入った。
「やり直す気はないのか」
二人のあいだに気まずい沈黙が流れる。翠はやはりか、といった表情で溜息をついた。
「ないわ」
「もう一度、考え直してくれないか。プロポーズだって一度受けてくれたのに、いきなり別れてくれなんて言われても納得できない。
せめて理由を教えてくれよ」
「理由は……」
「ないはずはない。……本当はお母さんに反対されたとか」
「違うわ」
「他に好きな人ができたとか」
「違う」
翠は最後の否定だけは語気を強めた。否定したところで理由が分からなければ雅久は納得しない。雅久は昔から物事をハッキリさせないと気が済まない性格だ。翠は小さく息を吐いて、困ったように微笑した。
「ねえ、雅久。わたし、あなたのこと好きよ。雅久以上の男はそうそういないと思ってるの」
「……」
「初めて大学で雅久に会った時、すぐに好きになったわ。ほら、わたしってば濃い顔好きでしょ?」
それには雅久も少し笑った。
「体つきもすごく好みだわ。優しくて明るくて」
「そこまで褒めてくれるのに、どうして別れるんだよ」
「あなた、結婚したらフリーのパーソナルトレーナーとして自分の教室を開きたいって言ってたわよね。それが不安なの」
「そりゃあ、いきなり上手くいくわけないと思ってる。暫くは厳しい」
「そうじゃなくて、あなた優しいから、騙されたりしないかなって不安なの」
雅久は思わず鼻で笑う。
「なんだよ。それ」
「昔、話したわよね。わたしの父が事業に失敗して途方に暮れた話。父も雅久みたいに優しい人だったわ。役員の中に父の古い友人がいたんだけど、その人は貧しかったから、父が住む家や生活費を援助してたの。そのうちに友人に騙されて家と会社の資産も根こそぎ取られちゃった」
「そもそも業種が違うし、俺はそうならないようにする」
「大体ね、開業って大変よ。ローン組んで建物建てて、返せなかったらどうするの。借りるにしても家賃がいるでしょう。経費だって税金だって対策立てなきゃいけないわ。それに従業員なしでひとりでするとしても、あなたが倒れたら途端に収入ゼロよ」
「そういうリスクは考えてる。だから保険だってちゃんと調べてるし」
「もし仕事が上手く軌道に乗ったとしても、事業主ってだけでストレスは相当なのよ。あなたにはいつも穏やかにいて欲しいの。わたし、結婚しても仕事は続けるし、今のクラブの給料でもふたり合わせればなんとかなるわ」
「お金の問題じゃない。自分の仕事の幅をもっと広げたいんだ。応援してくれないのか」
「……不安なのよ」
翠はやや苛立った様子で目を伏せた。ちょうどアメリカンが運ばれる。フレッシュミルクだけを入れて二、三口飲んだ。
翠の父が事業に失敗したのは、翠がまだ高校生の頃だったと聞いたことがある。それが原因で父は鬱病を発症したのだという。そのことがトラウマになっているのであれば、翠の不安は理解できる。だからと言って雅久は自分の夢を諦めたくなかった。このまま話し合いを続けても意味がない。アメリカンはまだ三分の二程残っているが、翠は代金を置いて席を立った。
「ここで揉めてるようじゃ、結婚しても上手くいかないと思うの。だからお互い新しい出会いを探しましょう」
「本気で言ってるのか」
「わたしがそういう性格だって、よく分かってるでしょ?」
「……代金はいらない。俺が払っておくから」
「恋人じゃない男に奢ってもらうのは主義じゃないの」
それはふたりの仲が戻ることはないと言っているのと同じだ。ヒールの音を鳴らせながら、翠は足早に去った。彼女の後姿に迷いはなかった。
翠とは大学三回生の頃に出会った。雅久は体育学部で翠は文学部だったので、ふたりに接点はなかったのだが、食堂で度々見かけることがあった。目鼻立ちのはっきりした顔で、背筋を伸ばして姿勢よく歩く姿が特に美しかった。
彼女と知り合ったのは、共通の友人を介してだ。食堂でひとりで食事をしているところに友人が「一緒に食べないか」と翠を連れて来たのである。見た目を気に入っていたこともあるが、物怖じしないさっぱりした性格に惹かれて、雅久のほうから交際を申し込んだ。喧嘩もしたし、浮気をされたこともあった。それでも六年間、紆余曲折を経て、とうとう先月、正式にプロポーズしたのだった。
――俺はじきに独立してフリーのトレーナーとしてやっていきたい。そのためには翠にも応援してもらいたいんだ。結婚してくれないか。――
返事は「イエス」だった。雅久は飛び上がるほど喜んだ。なぜなら家庭を持つことに憧れていたからだ。
雅久は思春期の頃に両親を亡くしている。母は体が弱く、雅久が幼い頃から入退院を繰り返していて、無理はできない状態でもあったので母との密な時間を充分取ることができないまま中学生の頃に他界した。父は明るく丈夫な人間だったが、母がいなくなってからみるみる憔悴し、あとを追うようにしてこの世を去った。祖父母の存在もあって両親の死を長く引きずることはなかったけれど、家族との時間を満足に過ごせなかったのが心残りだった。いつしかその寂しさが憧れに変わり、いつか自分に伴侶ができたら幸せな家庭を築くのが雅久の願いだったのだ。だから、翠がプロポーズを受けてくれた時の喜びはひとしおだった。憧れの家庭を持つことができると思ったからだ。だが、そんな幸せな気分は数日ですぐに崩された。
――ごめんなさい、雅久。わたし、やっぱりあなたとは結婚できないわ。――
理由を訊ねても教えてくれない。目も合わせてくれず、雅久は混乱したまま引き下がることしかできなかった。
自分に何か不満があったのだろうか。もっと相応しい人物を見つけたのだろうか。
むしろそういった理由のほうが納得できたかもしれない。まさか開業のことを言われると思わなかった。
雅久は翠の残した冷めたアメリカンをぼんやり見つめたまま、暫くその場から動けなかった。
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「早かったのね」
カツカツとヒールの音を響かせて、ウェーブの茶髪の女が現れた。恋人の翠である。正確に言えば、元恋人だ。
昔から彼女が贔屓にしているカフェ・マロニエを予約しておいたのだが、彼女は雅久の気遣いを知ってか知らずか特に喜ぶ様子を見せなかった。それどころか身なりも適当だ。カーディガンとスカートは誰が見ても分かるファストファッションのもので、ヒールはつま先が黒く汚れている。最低限、色合いを間違えないことだけを意識した格好だ。メイクも軽くはしてあるが、口紅を塗っていないせいで顔色が冴えなく見える。美意識の高い翠は、今まで身だしなみに手を抜いたことはなかった。六年間付き合って、ただの一度もだ。いきなりこんな投げやりな格好を見せられては、もう彼女にやり直す気はないのだと思わずにいられない。それでも雅久は無理やり明るく笑ってみせた。
「早いって、約束の時間は七時だぞ。十五分遅れたのはきみだ」
「十五分くらい、遅刻って言わないわよ」
雅久の前の席についた翠は、冷やを持ってきたウェイトレスに「アメリカン」と手っ取り早く注文した。
「何か食べたら?」
「お腹すいてないから、いらないわ。それにわたし、また会社に戻らないといけないの」
「そうか。大変なんだな」
「しょせん、我儘社長のお守りよ」
翠の注文したアメリカンはまだ来ていないが、雅久は早々に本題に入った。
「やり直す気はないのか」
二人のあいだに気まずい沈黙が流れる。翠はやはりか、といった表情で溜息をついた。
「ないわ」
「もう一度、考え直してくれないか。プロポーズだって一度受けてくれたのに、いきなり別れてくれなんて言われても納得できない。
せめて理由を教えてくれよ」
「理由は……」
「ないはずはない。……本当はお母さんに反対されたとか」
「違うわ」
「他に好きな人ができたとか」
「違う」
翠は最後の否定だけは語気を強めた。否定したところで理由が分からなければ雅久は納得しない。雅久は昔から物事をハッキリさせないと気が済まない性格だ。翠は小さく息を吐いて、困ったように微笑した。
「ねえ、雅久。わたし、あなたのこと好きよ。雅久以上の男はそうそういないと思ってるの」
「……」
「初めて大学で雅久に会った時、すぐに好きになったわ。ほら、わたしってば濃い顔好きでしょ?」
それには雅久も少し笑った。
「体つきもすごく好みだわ。優しくて明るくて」
「そこまで褒めてくれるのに、どうして別れるんだよ」
「あなた、結婚したらフリーのパーソナルトレーナーとして自分の教室を開きたいって言ってたわよね。それが不安なの」
「そりゃあ、いきなり上手くいくわけないと思ってる。暫くは厳しい」
「そうじゃなくて、あなた優しいから、騙されたりしないかなって不安なの」
雅久は思わず鼻で笑う。
「なんだよ。それ」
「昔、話したわよね。わたしの父が事業に失敗して途方に暮れた話。父も雅久みたいに優しい人だったわ。役員の中に父の古い友人がいたんだけど、その人は貧しかったから、父が住む家や生活費を援助してたの。そのうちに友人に騙されて家と会社の資産も根こそぎ取られちゃった」
「そもそも業種が違うし、俺はそうならないようにする」
「大体ね、開業って大変よ。ローン組んで建物建てて、返せなかったらどうするの。借りるにしても家賃がいるでしょう。経費だって税金だって対策立てなきゃいけないわ。それに従業員なしでひとりでするとしても、あなたが倒れたら途端に収入ゼロよ」
「そういうリスクは考えてる。だから保険だってちゃんと調べてるし」
「もし仕事が上手く軌道に乗ったとしても、事業主ってだけでストレスは相当なのよ。あなたにはいつも穏やかにいて欲しいの。わたし、結婚しても仕事は続けるし、今のクラブの給料でもふたり合わせればなんとかなるわ」
「お金の問題じゃない。自分の仕事の幅をもっと広げたいんだ。応援してくれないのか」
「……不安なのよ」
翠はやや苛立った様子で目を伏せた。ちょうどアメリカンが運ばれる。フレッシュミルクだけを入れて二、三口飲んだ。
翠の父が事業に失敗したのは、翠がまだ高校生の頃だったと聞いたことがある。それが原因で父は鬱病を発症したのだという。そのことがトラウマになっているのであれば、翠の不安は理解できる。だからと言って雅久は自分の夢を諦めたくなかった。このまま話し合いを続けても意味がない。アメリカンはまだ三分の二程残っているが、翠は代金を置いて席を立った。
「ここで揉めてるようじゃ、結婚しても上手くいかないと思うの。だからお互い新しい出会いを探しましょう」
「本気で言ってるのか」
「わたしがそういう性格だって、よく分かってるでしょ?」
「……代金はいらない。俺が払っておくから」
「恋人じゃない男に奢ってもらうのは主義じゃないの」
それはふたりの仲が戻ることはないと言っているのと同じだ。ヒールの音を鳴らせながら、翠は足早に去った。彼女の後姿に迷いはなかった。
翠とは大学三回生の頃に出会った。雅久は体育学部で翠は文学部だったので、ふたりに接点はなかったのだが、食堂で度々見かけることがあった。目鼻立ちのはっきりした顔で、背筋を伸ばして姿勢よく歩く姿が特に美しかった。
彼女と知り合ったのは、共通の友人を介してだ。食堂でひとりで食事をしているところに友人が「一緒に食べないか」と翠を連れて来たのである。見た目を気に入っていたこともあるが、物怖じしないさっぱりした性格に惹かれて、雅久のほうから交際を申し込んだ。喧嘩もしたし、浮気をされたこともあった。それでも六年間、紆余曲折を経て、とうとう先月、正式にプロポーズしたのだった。
――俺はじきに独立してフリーのトレーナーとしてやっていきたい。そのためには翠にも応援してもらいたいんだ。結婚してくれないか。――
返事は「イエス」だった。雅久は飛び上がるほど喜んだ。なぜなら家庭を持つことに憧れていたからだ。
雅久は思春期の頃に両親を亡くしている。母は体が弱く、雅久が幼い頃から入退院を繰り返していて、無理はできない状態でもあったので母との密な時間を充分取ることができないまま中学生の頃に他界した。父は明るく丈夫な人間だったが、母がいなくなってからみるみる憔悴し、あとを追うようにしてこの世を去った。祖父母の存在もあって両親の死を長く引きずることはなかったけれど、家族との時間を満足に過ごせなかったのが心残りだった。いつしかその寂しさが憧れに変わり、いつか自分に伴侶ができたら幸せな家庭を築くのが雅久の願いだったのだ。だから、翠がプロポーズを受けてくれた時の喜びはひとしおだった。憧れの家庭を持つことができると思ったからだ。だが、そんな幸せな気分は数日ですぐに崩された。
――ごめんなさい、雅久。わたし、やっぱりあなたとは結婚できないわ。――
理由を訊ねても教えてくれない。目も合わせてくれず、雅久は混乱したまま引き下がることしかできなかった。
自分に何か不満があったのだろうか。もっと相応しい人物を見つけたのだろうか。
むしろそういった理由のほうが納得できたかもしれない。まさか開業のことを言われると思わなかった。
雅久は翠の残した冷めたアメリカンをぼんやり見つめたまま、暫くその場から動けなかった。
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