堤 雅久1
『OK。今日の七時に、マロニエね』
通知音に気付いてスマートフォンを確認したら、そう返信があった。会えないか、とメッセージを送ったのは昨日の昼前だった。すぐに既読にはなっていたのに返事だけがなく、諦めかけたところの承諾だ。もともと入っていた用事がキャンセルになったか、はたまた同情か。なんにせよ乗り気でないことは確かだが、約束を取り付けたことに安堵してベッドから下りた。
朝起きてすぐに一杯の水を飲み、軽くストレッチをするのが堤(つつみ)雅(が)久(く)の日課だ。カーテンを開け放して日光を浴びる。ザバザバと顔を洗い、気合を入れるように頬を叩いた。
「さ、今日も行きますか」
見てくれの悪い自作の握り飯とお茶を口に押し込み、軽快な足取りで家を出た。今日の生徒は誰だったかと思い浮かべながら車を走らせる。
雅久は、三年前からフィットネスクラブでパーソナルトレーナーとして働いている。昔からスポーツ全般が得意で、中高生時代は水泳選手として数々の大会で名を残したほどだ。将来はオリンピックに、という夢を抱かないこともなかったが、もともと面倒見のいい性格もあって、自分が前に出るより裏方で役に立ちたい気持ちのほうが強かった。高校卒業後は大学の体育学部でスポーツトレーナーとしての知識を学び、保健体育の教諭免許をはじめ、スポーツプログラマーやCSCS(認定ストレングス&コンディショニングスペシャリスト)、NSCA認定パーソナルトレーナーなどの資格を順調に取得し、卒業後は理学療法士の資格を取るために専門学校へ通った。スポーツ選手のサポートは勿論、基本的な体力づくりや身体的な問題を抱えたリハビリなど、マルチに指導している。まだ一人前とはいかないが、近々独立したいと考えている。
日曜日の午前十時。この日最初の生徒は四十代の男性だ。会社の健康診断で中性脂肪が高いと言われ続け、年々肉付きの良くなる体に妻から背中を押されて通い出したという。
「よろしくお願いします」
「宮本さん、おはようございます。あれから筋肉痛はきましたか?」
「それがねぇ、こなかったんですよ。帰ってすぐにアミノ酸飲んだからかなぁ」
「うーん、鍛え方が足りなかったですかね」
宮本と呼ばれた男性は大袈裟に首を横に振って「勘弁して下さい」と苦笑した。
「それより、腰が痛いんですよ」
「どの辺ですか? そういう時は運動はしないほうがいいですからね。マッサージします。そのマットの上に寝て下さい」
「マッサージ!? 悪いですよ!」
「これも仕事ですから。色んな方の体を触って勉強しなきゃいけないんです」
「はは、人体実験ですね」
「そんなところです」
マットにうつ伏せになった宮本の腰回りを探るように揉んでいった。思い当たる箇所を触っては具合を訊ねるが、宮本はそこじゃない、と言うだけで原因の部位が分からない。仰向けにさせて股関節のストレッチをしてみても、眉間に皺を寄せるだけだった。全身が凝り固まっているので、丁寧にほぐしていく。やがて気持ち良さそうに脱力した宮本が、睡魔に負けるまいとして口を開いた。
「堤先生……ってさぁ、何歳だっけ?」
「このあいだ二十八になりました」
「結婚してるの?」
「まだです」
急にパッと目を見開いた宮本がここぞとばかりに冷やかしてくる。
「まだ、ってことは、彼女はいるんだ?」
雅久はすぐには答えられなかった。今朝のメッセージの相手の顔を思い浮かべるが、最後に会った時の表情しか思い出せない。その日は笑っていなかった。
「……ま、いずれ結婚できたらいいなぁって感じですね」
―――
仕事が一段落ついたところ、事務室へ向かう途中に設置されている自販機の前で、ひとりの男が立っているのを見た。丁度小銭を入れているところだ。紺のチェック柄シャツとカーキのパンツの細身の男だった。後ろ姿だが、袖からのぞく白い手首と艶のある黒髪で、つい一週間前に同じ自販機の前にいた男と同一人物だと分かった。あの時は確か自販機の下を覗き込んでいた。小銭でも落としたのか、必死に手を伸ばす姿が気の毒で、ちょうど持っていたペットボトルのスポーツドリンクを差し出したのだ。顔はよく覚えていない。通りすがりに思い付きで渡しただけなので、手元しか見ていなかった。雅久は自販機の前の男に声を掛けることにした。
「こんにちは、今日は小銭を落としませんでしたか?」
驚いて振り向いたその男は、大きな目を更に大きくして雅久を見上げた。想像以上にか弱そうな顔つきだ。小さな鼻と、血色の良い唇。スポーツやトレーニングとは縁遠そうな、このクラブにはいささか不釣り合いな人種だと思った。
「……あ、あの?」
「えーと、先週も自販機の前でいませんでしたか? 自販機の下を覗いてたので、小銭を落としたのかと思ったんですが」
「もしかして、ペットボトル下さった方ですか?」
「はい、そうです」
「わあ、お会いできて良かった! あの時はよくお顔も見えなかったものですから、きちんとお礼を言えなくて……。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げられて、かえってこちらが申し訳なくなる。
「いえ、いいんです。こちらこそいきなり押し付けてすみませんでした」
「あの時、もう小銭も両替できるようなお札もなかったので、困ってたんです。本当に助かりました」
幼さが残る屈託ない笑顔。表情だけなら十代にも見えるが、高くも低くもない透き通った声のトーンや仕草を見れば、おそらく社会に出ている人間だろう。
「このクラブで何か習われてるんですか?」
「いえ、僕はただの付き添いなんです。連れが通ってて……」
「へえ、水泳とか、体操とか」
「リハビリなんです。足がちょっと不自由で。このクラブにリハビリの知識のあるトレーナーがいるって聞いて、先月から通ってるんですが」
「……今のトレーナーは?」
「宮崎先生です」
宮崎は確かにベテランのトレーナーでリハビリも行っているが、どちらかというとスポーツ選手向けのアスレティックトレーナーだ。医学的なリハビリは専門ではない。
「あの……、良かったら」
その時、けたたましい着信音で会話が遮られた。「すみません」と詫びた男が慌てて電話に応答する。短い返事をしたあと、「すぐ戻る」と言って電話を切った。相手はその連れだろう。
「ごめんなさい、僕、行きますね」
「お名前を伺っても?」
「え? 僕のですか? 小野寺達也です」
「ああ、失礼。お連れの方は?」
達也は一瞬、眉をひそめた。自分だけならともかく、何故連れの名前まで言わないといけないのかと不審に思ったのだろう。雅久は慌てて付け加えた。
「もし心配なら、僕が宮崎先生にどんな状態か聞いておきましょうか。僕もこう見えて、パーソナルトレーナーとしてここで働いてるんですよ。堤と申します」
正体が分かって安堵したのか、達也は微笑してみせた。
「そうだったんですね。連れは白石圭介です。日曜の二時半からの」
「ありがとうございます。早く良くなるといいですね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
達也はそのまま背を向けて去ってしまった。自販機に百円を入れっぱなしなのを忘れているようだ。雅久は自分が声を掛けたからなのだと済まなく思い、六十円を追加してスポーツドリンクを買った。達也が向かったと思われるコーチングルームへ急ぐ。窓から中を覗くと、達也は連れの体を支えて立ち上がらせているところだった。達也よりも一頭身ほど背の高い、体つきのしっかりした長髪の男だ。会話は聞こえないが、達也はばつの悪そうに苦笑して頭を下げている。窓を叩こうとしたら、次の生徒が部屋に入ろうとするので呼び止めた。
「すみません、あの……申し訳ないですが、このペットボトルをあの彼に渡していただけませんか。忘れ物なんです」
「いいですよ」
「ありがとうございます」
去り際に見た二人は、他の誰も寄せ付けない空気を漂わせていた。
⇒
通知音に気付いてスマートフォンを確認したら、そう返信があった。会えないか、とメッセージを送ったのは昨日の昼前だった。すぐに既読にはなっていたのに返事だけがなく、諦めかけたところの承諾だ。もともと入っていた用事がキャンセルになったか、はたまた同情か。なんにせよ乗り気でないことは確かだが、約束を取り付けたことに安堵してベッドから下りた。
朝起きてすぐに一杯の水を飲み、軽くストレッチをするのが堤(つつみ)雅(が)久(く)の日課だ。カーテンを開け放して日光を浴びる。ザバザバと顔を洗い、気合を入れるように頬を叩いた。
「さ、今日も行きますか」
見てくれの悪い自作の握り飯とお茶を口に押し込み、軽快な足取りで家を出た。今日の生徒は誰だったかと思い浮かべながら車を走らせる。
雅久は、三年前からフィットネスクラブでパーソナルトレーナーとして働いている。昔からスポーツ全般が得意で、中高生時代は水泳選手として数々の大会で名を残したほどだ。将来はオリンピックに、という夢を抱かないこともなかったが、もともと面倒見のいい性格もあって、自分が前に出るより裏方で役に立ちたい気持ちのほうが強かった。高校卒業後は大学の体育学部でスポーツトレーナーとしての知識を学び、保健体育の教諭免許をはじめ、スポーツプログラマーやCSCS(認定ストレングス&コンディショニングスペシャリスト)、NSCA認定パーソナルトレーナーなどの資格を順調に取得し、卒業後は理学療法士の資格を取るために専門学校へ通った。スポーツ選手のサポートは勿論、基本的な体力づくりや身体的な問題を抱えたリハビリなど、マルチに指導している。まだ一人前とはいかないが、近々独立したいと考えている。
日曜日の午前十時。この日最初の生徒は四十代の男性だ。会社の健康診断で中性脂肪が高いと言われ続け、年々肉付きの良くなる体に妻から背中を押されて通い出したという。
「よろしくお願いします」
「宮本さん、おはようございます。あれから筋肉痛はきましたか?」
「それがねぇ、こなかったんですよ。帰ってすぐにアミノ酸飲んだからかなぁ」
「うーん、鍛え方が足りなかったですかね」
宮本と呼ばれた男性は大袈裟に首を横に振って「勘弁して下さい」と苦笑した。
「それより、腰が痛いんですよ」
「どの辺ですか? そういう時は運動はしないほうがいいですからね。マッサージします。そのマットの上に寝て下さい」
「マッサージ!? 悪いですよ!」
「これも仕事ですから。色んな方の体を触って勉強しなきゃいけないんです」
「はは、人体実験ですね」
「そんなところです」
マットにうつ伏せになった宮本の腰回りを探るように揉んでいった。思い当たる箇所を触っては具合を訊ねるが、宮本はそこじゃない、と言うだけで原因の部位が分からない。仰向けにさせて股関節のストレッチをしてみても、眉間に皺を寄せるだけだった。全身が凝り固まっているので、丁寧にほぐしていく。やがて気持ち良さそうに脱力した宮本が、睡魔に負けるまいとして口を開いた。
「堤先生……ってさぁ、何歳だっけ?」
「このあいだ二十八になりました」
「結婚してるの?」
「まだです」
急にパッと目を見開いた宮本がここぞとばかりに冷やかしてくる。
「まだ、ってことは、彼女はいるんだ?」
雅久はすぐには答えられなかった。今朝のメッセージの相手の顔を思い浮かべるが、最後に会った時の表情しか思い出せない。その日は笑っていなかった。
「……ま、いずれ結婚できたらいいなぁって感じですね」
―――
仕事が一段落ついたところ、事務室へ向かう途中に設置されている自販機の前で、ひとりの男が立っているのを見た。丁度小銭を入れているところだ。紺のチェック柄シャツとカーキのパンツの細身の男だった。後ろ姿だが、袖からのぞく白い手首と艶のある黒髪で、つい一週間前に同じ自販機の前にいた男と同一人物だと分かった。あの時は確か自販機の下を覗き込んでいた。小銭でも落としたのか、必死に手を伸ばす姿が気の毒で、ちょうど持っていたペットボトルのスポーツドリンクを差し出したのだ。顔はよく覚えていない。通りすがりに思い付きで渡しただけなので、手元しか見ていなかった。雅久は自販機の前の男に声を掛けることにした。
「こんにちは、今日は小銭を落としませんでしたか?」
驚いて振り向いたその男は、大きな目を更に大きくして雅久を見上げた。想像以上にか弱そうな顔つきだ。小さな鼻と、血色の良い唇。スポーツやトレーニングとは縁遠そうな、このクラブにはいささか不釣り合いな人種だと思った。
「……あ、あの?」
「えーと、先週も自販機の前でいませんでしたか? 自販機の下を覗いてたので、小銭を落としたのかと思ったんですが」
「もしかして、ペットボトル下さった方ですか?」
「はい、そうです」
「わあ、お会いできて良かった! あの時はよくお顔も見えなかったものですから、きちんとお礼を言えなくて……。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げられて、かえってこちらが申し訳なくなる。
「いえ、いいんです。こちらこそいきなり押し付けてすみませんでした」
「あの時、もう小銭も両替できるようなお札もなかったので、困ってたんです。本当に助かりました」
幼さが残る屈託ない笑顔。表情だけなら十代にも見えるが、高くも低くもない透き通った声のトーンや仕草を見れば、おそらく社会に出ている人間だろう。
「このクラブで何か習われてるんですか?」
「いえ、僕はただの付き添いなんです。連れが通ってて……」
「へえ、水泳とか、体操とか」
「リハビリなんです。足がちょっと不自由で。このクラブにリハビリの知識のあるトレーナーがいるって聞いて、先月から通ってるんですが」
「……今のトレーナーは?」
「宮崎先生です」
宮崎は確かにベテランのトレーナーでリハビリも行っているが、どちらかというとスポーツ選手向けのアスレティックトレーナーだ。医学的なリハビリは専門ではない。
「あの……、良かったら」
その時、けたたましい着信音で会話が遮られた。「すみません」と詫びた男が慌てて電話に応答する。短い返事をしたあと、「すぐ戻る」と言って電話を切った。相手はその連れだろう。
「ごめんなさい、僕、行きますね」
「お名前を伺っても?」
「え? 僕のですか? 小野寺達也です」
「ああ、失礼。お連れの方は?」
達也は一瞬、眉をひそめた。自分だけならともかく、何故連れの名前まで言わないといけないのかと不審に思ったのだろう。雅久は慌てて付け加えた。
「もし心配なら、僕が宮崎先生にどんな状態か聞いておきましょうか。僕もこう見えて、パーソナルトレーナーとしてここで働いてるんですよ。堤と申します」
正体が分かって安堵したのか、達也は微笑してみせた。
「そうだったんですね。連れは白石圭介です。日曜の二時半からの」
「ありがとうございます。早く良くなるといいですね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
達也はそのまま背を向けて去ってしまった。自販機に百円を入れっぱなしなのを忘れているようだ。雅久は自分が声を掛けたからなのだと済まなく思い、六十円を追加してスポーツドリンクを買った。達也が向かったと思われるコーチングルームへ急ぐ。窓から中を覗くと、達也は連れの体を支えて立ち上がらせているところだった。達也よりも一頭身ほど背の高い、体つきのしっかりした長髪の男だ。会話は聞こえないが、達也はばつの悪そうに苦笑して頭を下げている。窓を叩こうとしたら、次の生徒が部屋に入ろうとするので呼び止めた。
「すみません、あの……申し訳ないですが、このペットボトルをあの彼に渡していただけませんか。忘れ物なんです」
「いいですよ」
「ありがとうございます」
去り際に見た二人は、他の誰も寄せ付けない空気を漂わせていた。
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