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達也と圭介1

 十歳の頃、父の転勤に伴い、慣れ親しんだ土地を離れて田舎でも都会でもない、小さな街のマンションに越した。達也が新しく住む部屋の真下の部屋に圭介の家族が住んでいた。挨拶に赴いた際、出迎えた圭介に素っ気なく「なに」と問われて怖気付いた。スッと鼻筋の通った、同い年とは思えないほど眼光炯々とした逞しそうな少年。体格は達也と変わりはないが、健康的な小麦色の肌と少し乾燥した黒い髪が活発そうだった。達也はどちらかというと日陰や家で本を読んだり絵を描いたりするのが好きなひ弱なタイプだ。性格的にも圭介とは合わないだろうと思ったし、実際、たいして仲良くもならなかった。

 小学校の集団登下校で少し話をすることはあったが、達也の見立て通り、圭介は気の利いた冗談や世辞を言えるだけの器量もなく、人付き合いが下手だった。ただ、時々教室の窓から運動場で圭介がサッカーをしている姿を見かけることがあり、その時だけは無邪気な笑顔で生き生きとしていて、達也はその姿を見ては「いい人なんだろうな」と、白石圭介という人間についてあれこれ想像するようになった。窓からサッカーをしている圭介を見るのが、達也の楽しみだった。

 達也が引っ越して三ヵ月程経った日のことだ。内気で引っ込み思案の達也は気の合う友人を作れず、教室の隅で本を読んでいるだけの休み時間を過ごしていた。群れることが苦手なので、周りが賑やかにしている傍らでひとりの時間を楽しむのは苦ではない。だが、昼休みにクラスメイトが一斉に散らばって、がらんとした教室に残されるのはさすがに寂しかった。
 ある日の放課後、クラスメイトの沢村に呼び止められた。

「小野寺、帰りにみんなでサッカーするから、一緒に来ない?」

 達也はなぜ自分が誘われたのか訝しんだが、声を掛けられたことは嬉しかったし、サッカーとなるともしかしたら圭介もいるかもしれないという期待もあって二つ返事で受けた。 けれども、連れて行かれた場所は校舎裏だった。

「ここでサッカーするの?」

「そんなわけないだろ」

「いいぞ!」という声を合図に、木陰に隠れていた数人の仲間たちにバケツ一杯の水を掛けられた。至近距離だったので衝撃もあり、達也はその場で尻餅をついた。目や耳や鼻に水が入った息苦しさと、驚き。しかも真冬だったので針で刺されたような冷たさが痛い。沢村と仲間たちはゲラゲラと笑いながら走り去った。辺りが静まると同時に木枯らしが体を叩きつけ、寒さのあまり歯をガチガチ鳴らしながら縮こまった。カラン、と目の前に転がった「4―3」と書かれた水色のバケツ。このままにしておけばあとで咎められるのは自分なのだろうと思うと、悔しさと悲しさでいっぱいになった。

 着替えもなく濡れたままで帰路に着くことになり、やっとの思いでマンションまで辿り着いた時、達也はロビーで倒れ込んでしまった。芯まで体が冷えてもう動けない。すぐにでも意識を失いそうなところ、

「おい」

 ランドセルを蹴られた。スポーツブランドのスニーカーが目の前にある。ゆっくり頭を上げると、圭介が無表情で達也を見下ろしていた。

「……白石くん」

「なんだよ、お前。雨でも降ってんのかよ。ビショ濡れじゃねぇか」

「ちが……さむ、い」

「そんだけ濡れてりゃ寒いだろうな。このクソ寒い中泳ぐわけねぇし」

 クラスメイトに水を掛けられた、とは言えなかった。弱虫で惨めな自分が恥ずかしい。けれども、それはすぐに見破られた。

「いじめられたのか?」

「……」

「どこのどいつだよ」

「同じクラスの……やっぱり、いいや。忘れて。僕も……なんで水を掛けられたのか分からない、から」

「なんでやられたのか分からないんなら、尚更だろ。誰だよ。ブン殴ってきてやるよ」

「ほんとに……いいから」

 身震いをしたら圭介が腕を取って立ち上がらせた。そのまま自宅ではなく圭介の部屋に連れられた。真っ先に浴室へ案内されて、温かいシャワーと新しい着替えを用意される。親しくない他人の家に汚れた姿で上がりこんだうえ、いきなり風呂を借りるのは子どもながらに気兼ねはあったけれど、理不尽な悪戯を受けた直後の優しさが痛いほど嬉しく、シャワーの音で誤魔化しながらすすり泣いた。

 凍えるような寒さから解放されてリビングに案内された達也は、ホットレモネードを出された。

「お母さんはいないの?」

「買い物でも行ってんじゃねーの。それ、俺が作ったんだぜ。ばあちゃんがレモン作っててさ、蜂蜜で漬けたやつにお湯淹れるだけ。風邪にいいんだってよ」

「風邪は引いてない」

「これから引くかもしれないだろ、ばか」

 ソファに圭介と並んで腰かけ、添えられているマドラーでひと混ぜして、少しずつ飲んだ。蜂蜜の甘さのあとでレモンの酸味が追いついて、喉の奥に染みる。温かいレモネードが体中に広がった。

「おいしい、ありがとう」

「で、どこの誰にやられたんだ」

「……」

「言えって」

「同じクラスの沢村くん。話したこともなかったのに、帰りにサッカーするから来いよって、誘われたんだ。だけど連れて行かれたのは校舎の裏で……待ち構えてた奴らに水を掛けられたんだ」

 圭介は決まりの悪そうに頭を掻いた。

「あいつ、俺と同じサッカークラブに通ってんだ」

「そうなんだ……。僕、運動は苦手だけど、サッカーならもしかしたら白石くんもいるかなって思って、付いて行ったんだ」

「悪かったな」

「なんで白石くんが謝るの」

「俺がいると思ったんだろ」

「僕が勝手に思っただけで、白石くんは何も悪くない。教室から、時々白石くんがサッカーしてるの見てたよ。僕もあんな風になれたらいいなぁって思ってた。白石くんと一緒にサッカーできたら、楽しいだろうなぁ……て」

 安心して気が抜けたからなのか、急に睡魔が達也を襲った。瞼が重くなり、レモネードのカップを落としそうになったのを圭介が気付いてカップを取った。

「寝れば。お前んち電話しといてやる。番号は? おい、達也」

 自然にクッションに向かって体が倒れる。圭介の呼びかけに反応はできなかったが「達也」と呼ばれたことが嬉しかった。

 真冬に体を冷やしたダメージは大きく、達也は深夜に高熱に浮かされた。あのあと、どうやって自宅に戻ったのか記憶がない。母の話では、迎えに来た母が連れ帰ったとのことだ。熱は翌日の夕方になっても下がらず、布団の中から窓の外を眺めるだけの一日だった。厚い雲に覆われたひたすら白と灰色の面白味のない空。変化があるとすれは時折鳥が羽ばたくくらいだった。気付けば寝ていて、目が覚めた時にベッドのすぐ傍で人の気配を感じた。圭介である。まだ夢か現かはっきりしない中で、圭介はぶっきら棒に言った。

「沢村のこと、殴っといたぜ。なんでお前に水掛けたのか聞いたけど、いまいちよく分かんなかった。もうしないって言ってたから大丈夫だと思う。もしなんかされたら、また俺に言え」

「白石くん……?」

「サッカーしたいんだろ。治ったら教えてやるよ」

「ありがとう、白石くん……」

「圭介でいいよ」

 そこで再び意識はなくなった。はっきりと目が覚めた時には圭介の姿はどこにもなかった。熱も下がり、母に何か食べたいものはないかと聞かれてゼリーを要望したが、本当は圭介の作ったレモネードを冷やして飲みたいと思った。


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