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プロローグ

 自販機の下に小銭が入った。生憎、札は万しか持ち合わせておらず、両替も不可能なうえ代わりになる小銭も、もうない。百円玉は見える位置にはあるが、腕を伸ばしても届かなかった。諦めて立ち上がったところ、

「これをどうぞ」

 突然、ペットボトルのスポーツドリンクを差し出されて条件反射で受け取った。ペットボトルを渡してくれた人はそのまま颯爽と通り過ぎてしまったので、礼を述べるどころか顔もよく分からなかった。唯一確認できたのは、外股で歩くいかり肩の男だということだけだった。

 ―――

「圭介、お待たせ」

 誰もいないコーチングルームで座り込んでいる幼馴染の圭介に、達也はスポーツドリンクを手渡した。圭介は「サンキュ」と呟き、受け取った。すぐにキャップを回し、ひと口含んだ瞬間に眉を寄せる。

「……ちょっとぬるいな」

「あ、ごめん。実は小銭を自販機の下に落としちゃって。最後の百円玉だったし、一万円札しかなかったから両替できなくて。でも、たまたま近くを通りかかった人がくれたんだ」

「これを? なんで?」

「知らない」

「男? 女?」

「男のヒト」

「なんかヤバイの入ってんじゃねぇだろうな」

「まさか。だって新品だったでしょ」

「新品でもな、底から細い針ブッ挿して毒入れるっつーやり方があるんだよ。その男が達也目的でくれたんなら、媚薬でも入ってたりしてな」

「なにそれ、なんで媚薬なんだよ」

 圭介は達也の手首を取ると無理やりに抱き寄せ、周囲の目など構わずにいきなりキスをした。少しだけ唇を離して「無防備め」と、鼻で笑う。

「お前は本当に隙だらけだな」

「僕は男だから、狙う奴なんかいないよ」

「そんなことに男も女も関係ないってのは、お前が一番よく分かってるだろ?」

 再び唇が重なりそうになったのを達也は顔を背けて阻止した。

「人が来るから」

「そうだな。家でゆっくりやるか」

 達也は返事をする代わりに頬を少しだけ赤らめた。差し出された圭介の腕を肩に回して腰を支える。立ち上がった圭介は右足で全身を支えた。

「はい、杖。歩ける?」

「ああ」

 圭介は半年前から左足の自由が利かない。信号が点滅している横断歩道に飛び出したところ、スピードを出し過ぎて突っ込んできた乗用車と接触したのだ。プロサッカーチームに所属するほど運動神経の良かった圭介は瞬時に直撃を避けられたものの、逃げ切れずに左足が犠牲になった。幸い命に別状はなく、骨折だけで済んだが、問題はそのあとだった。ギプスを取ったあとも暫く痺れや脱力感が残り、支えがないと歩くこともままならない。病院をいくつか回ったが、神経になんらかの損傷があるのだろうと曖昧な診断を下されただけだった。いっこうに良くなる気配を見せず、二ヵ月前、ついにサッカーチームを辞めることとなった。現在は小さなスポーツ用品店で働きながら、週に一度、達也の付き添いのもとフィットネスクラブにリハビリに通っている。

 クラブを出ると暖かい風が汗ばんだ体を癒した。中庭の真ん中に植えられている桜の木が揺れ、たくさんの花びらが雪のように舞った。達也は満開の桜よりも散る桜のほうが好きだ。蕾から花が散るまでが桜の一生とするなら、桜は老いて命を落とす瞬間も美しい。散ってしまったあとも花びらの絨毯を敷き詰めては歩行者を楽しませる。花びらが黒ずんで土に還るまで、最期の瞬間まで凛とした姿に達也は心を打たれるのだった。

 花びらが風に靡く圭介の黒髪に付いた。顎下まである髪の先にしがみ付いている。達也はそれを指でつまんだ。

「お花見に行けなかったね」

「花なら、わざわざ行かなくても見られるじゃねぇか」

「でも、やっぱり弁当持ってさ、花を見ながら食べるのってよくない? 子どもの頃好きだったな」

「お前んとこの家族と、俺んとこの家族で、一度だけ行ったことあるよな」

「うん、小学校卒業したあとの春休みだったかな。一度きりで中学上がってか、ら……」

 そこで二人ともが黙り込んだ。今の関係ができるきっかけとなった出来事を、悔いることも懐かしむこともなく思い出している。沈黙を破ったのは圭介だった。

「……あーあ、花びらってのは鬱陶しいな」

「そう? 僕は散るのを見るのが好きだよ。綺麗じゃないか」

「散るのを見るのは虚しいだけだ。俺はあんな風に散りたくないな。……散る前に駄目になったけど」

「……」

「来年は行くか」

「行ってくれるの?」

「お前が支えてくれるんならな。弁当、作ってくれるんだろ」

「来年には圭介の足も治ってるよ。弁当は作るから、圭介が持って歩いてよね」

 確信のない未来を想像して笑い合いながら、二人は駐車場から遊歩道へ続く階段をゆっくり降りて行った。その際、外股で歩くいかり肩の男とすれ違ったことに、達也はまったく気付いていなかった。
 
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