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瞬の心臓4

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 店頭コンサートでのことを母から何か言われるかと思ったが、母は瞬のことどころか、演奏についても何も触れてこなかった。怒っている様子も呆れている様子もなく、普段通りに岬に食事を用意して、日常生活での小言を言い、一緒に食事をしながら岬にとってはどうでもいい世間話を聞かされた。父の病室で喧嘩した時もそうだったが、母は揉め事があっても切り替えが早い。カッとなったかと思うと、数分後にはケロッと笑っている。それは昔からだった。岬は母のそういう部分にいつも振り回され、戸惑いながらも救われている。

 店頭コンサートの翌週はセンター試験があった。進学しないと主張した時は感情的になっていたのもあり、二度と勉強はしないつもりだったが、母と穏やかに過ごすうちにセンター試験くらいは受けようかという気になった。けれども、これまで溜まりに溜まっていた疲労が出たのか体調を崩してしまい、結局、本試験も再試験も受けられずに終わった。母から折り入って話をされたのは、体調が戻って三日後のことだった。

 リビングではなく仏間に呼ばれ、年季の入った座卓の前に正座した。
 それまで仏壇に手を合わせていた母は、岬が現れると蝋燭の火を消し、同じく正座で向き合った。仏壇の横に置かれている父の遺影はやたら存在感があり、母の隣に父が座っているような気になった。母は座卓に置かれている冷めた緑茶をひと口飲み、話に入る。

「……演奏、すごく良かったわ。岬、あなた本当に上手になったのね」

「……俺は、別に」

「母さん、思い出したのよ」

「何を」

「あの子。……瞬くんって言ったかしら。昔、岬と『子守歌』を連弾して、そのあとソロでベートーヴェンの『テンペスト』を弾いたわよね」

「よく……覚えてるね」

「ええ。だって、すごく上手だったんだもの。発表会に出てた生徒の誰よりも、ずば抜けて上手かったわ。だけど、あの子が発表会に出たの、あの年だけだったわよね。その頃から体は弱かったの?」

「……中学一年の時に病気が見つかったって言ってた」

「そう、そんなに前からなの。……大変だったでしょうね」

「……」

「あなたがあの子とそんなに仲が良いなんて知らなかったわ。いつから好きなの」

 改めて母にそういう話をされるのは気恥ずかしいが、ここで誤魔化すわけにはいかない。

「中学生くらいの時から……」

 その答えには母も驚いた顔をした。さすがにそんな以前からだとは思っていなかったのだろう。だが、それがかえって母の背中を押した。

「そんなに前からだったの。本当に好きなのね?」

「うん」

 母は、仏壇の隣に置いている分厚いクリアファイルを取り、岬の前に出した。

「ヤマイでね、見たことあるお医者様がいるなと思ってたの。心配そうに瞬くんを見てたわ。きっと瞬くんの主治医の方ね。お父さんが入院してる時、一度あの先生に診てもらったことがあるから分かったの」

「父さんが診てもらったの?」

「そうよ。心臓が苦しいって言ってたでしょ。それは結局、腫瘍に邪魔されて潰されてるからってことだったんだけど。すごく感じの良い先生だった。それで母さん、あの先生に聞いたのよ。瞬くんの病気」

「教えてくれた?」

「瞬くんと今、エレクトーンを弾いてるのはわたしの息子ですって言ったら、信じてくれたわ。心筋症ですってね」

「……」

「あなた、瞬くんの生活を支えたいって言ってたけど、その病気についてちゃんと調べてるの? 何が良くて何が駄目か、あなたも把握してるの? 薬は? 正常値は? 心不全の兆候は?」

 母の質問に岬は何ひとつ答えられなかった。瞬の病気と向き合うと言いながら、自分は何もできていないことを思い知らされた。

「きちんとどんな病気なのか調べないと駄目じゃない。だからあなたは子どもだって言ったのよ。……そのファイルの中を見なさい」

 冊子のようなクリアファイルの中を見る。インターネットで調べたことを印刷したものだった。

「心筋症のことを書いてある記事よ。全部読みなさい。分からないところは自分で調べなさい。瞬くんが少しでも体調が悪そうにしてたらすぐに気付いてあげられるくらいでいなくちゃ駄目よ。……薬や治療法が合えば、決して怖くないそうよ」

「……もしかして、父さんの時も、こうやって調べたの?」

「当たり前じゃない。そりゃあ、確かに、怖かったわ。岬に言われたように現実逃避したわ。でもそうしながらも良くなることを考えて看病しないと、お父さんも不安になるでしょ?」

 自分は父に、どういう態度で接していたのだろう。
 父の死がたいして悲しくなかったのは、随分前から覚悟していたからだと思っていた。勿論、いなくなるのは辛かった。けれども、どこかで「親は先に死ぬもの」と考えていたから、危篤の父を見ても冷静でいられたのかもしれない。岬のそんなどこか冷めた部分を、父は勘付いてはいなかっただろうか。そう考えると急に父の死が悲しくなった。岬はクリアファイルの上に何粒もの涙を落とした。

「……母さん、ひどいこと言って、ごめん……」

「母さんも、岬にはいっぱい心配掛けたから……。それにお父さんが余命宣告より長く生きられたのは、あなたのおかげよ。やっぱり毎日病室に来てくれるのが嬉しかったみたいよ」

「……え……ちょうど半年でしょ?」

「あなたは先生に半年って聞いたと思うけど、わたしは三ヵ月って聞いたわ」

 岬は母を頼りない人間と勝手に決め付けていたが、母はすべて知っていたということだ。なんでもひとりでできると思っていた自分が恥ずかしい。

「で、就職活動は?」

「まだ……」

 母は「やれやれ」といった風に、深い溜息を放った。

「明日、学校へ行ったらとりあえず先生に相談しなさい。進学しないからと言って勉強をおろそかにしては駄目よ。卒業試験というものがあるでしょ? それと合わせて一般常識の勉強もしなさい。社会に出たら、風当たりのきついことはたくさんあるのよ。マナーがなってないと馬鹿にされることのないようにしなさい」

「……はい」

「世間から見ればあなたは確かに『子ども』ではないけど、わたしの『子ども』なの。いくつになってもそれは変わらないのよ。子どもの進む道に口は出さないけど、子どもが迷ってたり、間違った方向へ行こうとしていたら、それを正すのが親の役目なの。だから放っておくなんてできないのよ。これからはちゃんと自分で考えて慎重に行動して、だけど悩んだり分からないことがあったら、いつでも母さんに言いなさい。いいわね?」

「はい。……ありがとう、ございます」

「ほら、もう泣かないの。男の子なんだから」

 そう言って、母は岬の頬を撫でた。
 たぶん、母に素直に甘えられるのは今、この瞬間で終わりなのだろうと岬は思った。

 卒業を間近に控えての急な進路変更は学校側も困惑するものだったらしく、就職先も都合良くは見つからないと前向きな返事は得られなかった。それでも構わないから探したいと強く希望したところ、一ヵ所だけ求人が来ていると知り、岬はすぐに連絡を取って応募を試みた。
 けれども運悪く、数日前に応募は締め切ったと言われ、振り出しに戻された。これは後日知ったことだが、その会社は瞬が勤める会社らしかった。どうりでどこかで聞いたことのある社名だと思った。瞬と直接関係がないとは言え、瞬が退院したら笑い話として皮肉のひとつでも言ってやろうと、その日を楽しみに待つことする。

 就職活動はなかなか思うようにはいかなかったが、二月に入って駄目元で応募した製紙会社が順調に進んだ。ことが上手く運ぶとかえって自分の力量に不安を感じる時もある。そういう時は仏壇の前に座って、父に叱咤激励される気になると不思議に落ち着くのである。
 そして最終面接を三日後に控えた日のことだった。

「ちょっと、いいか」

 放課後、靴箱で斎藤に声を掛けられた。忘れていたわけではないが、バタバタと過ごすうちに斎藤と話す機会をすっかり逃してしまっていたのだ。岬は済まなさと気まずさで動揺をあきらかにしながら答えた。

「……な、なに」

「話したいんだけど、付き合ってくれないか」

 道中にあるファミリーレストランに入り、賑やかな店内には不釣り合いなほどの陰気臭さを漂わせながら、窓際の席についた。斎藤は二人分のドリンクバーだけを注文する。

「何、飲む?」

「あ……じゃあ、ウーロン茶……」

 斎藤は「相変わらず地味なチョイスだな」と笑い、ひとりサーバーへ向かった。斎藤の人当たりの良さを再確認する笑顔だった。ウーロン茶を置かれて礼を述べるが、岬は暫く手をつけなかった。斎藤はメロンソーダを飲みながら、やぶから棒に話を振る。

「お前、就職するんだって?」

「あぁ……、うん。まだ決まってはないんだけど」

「家計支えるの?」

「まぁ、それも、あるけど」

 本当の理由は言いたくないのだと悟ると、斎藤はそれ以上は踏み込まなかった。いつも岬がはぐらかすと白状するまで問い詰める彼があっさり退いたのは、もう斎藤が岬に執着していない証拠である。

「斎藤は? 受験……どうだったの」

「実は推薦で大阪の大学に決まってんだ。まだ誰にも言ってない。一応センターは受けたぜ」

「そうなんだ、おめでとう」

「……センター試験も来なかったろ」

「いや、センターは受けようと思ってたんだけど、……インフルエンザになっちゃって」

 メロンソーダを噴き出して笑っている。

「ヤマイでうつされたんじゃねぇの」

 その台詞に、岬はポカンとして訊ねた。

「……なんで……知ってるの」

「見たんだ。塾の帰りで、商店街歩いてたらヤマイの前でピアノ弾いてる奴がいるって会話が聞こえて、見に行った。……でもお前はエレクトーンで、ピアノを弾いてたのは、あの男だった」

「……」

「すごい……びっくりした。なんか色んなことにびっくりしすぎて、足が動かなかった。……ピアノって、あんな風に鳴るんだ」

 それは斎藤が瞬を認めた言葉だった。

「あれが本当の、ピアノの音なんだよ」

 と、岬は誇らしげに言った。

「岬、お前やっぱり、あいつのこと好きなんだろ?」

 ここまで来ておいて否定する理由はない。斎藤が瞬に迫ることもあり得ないだろう。岬は、はっきり肯定した。

「ほらな」

「本当、ごめん。謝って済むことじゃないけど、本当に斎藤には悪いことしたと思ってる」

「なんで岬が謝るんだ?」

 きょとんとした顔で聞かれる。

「だって、悪いのは俺だろ。お前は最初から俺と付き合う気はないって言ってた。それを強引に自分のものにしようとしたのは、俺なんだ。本当は俺が謝るつもりで今日、呼び止めたんだ」

「けど、不誠実な態度を取ったのは事実だから」

「……」

「それなのに……父さんの葬式に来てくれてありがとう」

「それとこれとは話が別だろ」

「別と割り切れる斎藤が大人なんだよ」

 斎藤は「やめろよ」と顔を赤くして頭を掻いた。

「で、あの男は何者だよ。ピアニスト?」

「幼馴染なんだ。昔、同じピアノ教室に通ってた。素人とは思えないだろ?」

「隣にいた女子がステキ―ってハート飛ばしてた。神様は不公平だよなぁ、ひとりの人間に二物も三物も与えるんだから」

 斎藤の様子からして瞬が直後に倒れたところは見ていないようだった。岬は静かに苦笑を浮かべ、ようやくウーロン茶に手をつけた。実は喉がカラカラに乾いていたので一気に飲み干したら、

「岬って、そういうとこ男らしいよな」

「お茶飲むのが? 微妙な褒め言葉だな」

 それから暫く軽口を言って笑い合った。「友達としてこれからも仲良くしたい」という気持ちを伝えたかったが、さすがにムシが良過ぎると思い、飲み込んだ。できれば斎藤も同じ気持ちであって欲しいと願うしかなかった。

 瞬が倒れてから二ヵ月経った。いまだ何も音沙汰がないということは、良くも悪くも変化はないということだろう。自分が忙しくしているあいだは気が紛れて余計なことを考えなくて済むけれど、夜、眠りにつく直前になるといつも不安に駆られる。帰ってこなかったらどうしよう、と、考え出すと止まらなくなるのだ。そんな時に、母に「瞬くんの具合はどうなの」と聞かれて、不安な気持ちを打ち明けたら、

「大丈夫よ、病院が安心できるからのんびりしてるんでしょ」

 と、気楽な答えが返ってくる。やはり母に正直に話して良かったと思う。

 鍵盤を、綺麗に拭いてあるから。
 いつ帰って来てもいいように、毎日掃除をしてる。
 休みの日は布団も干してある。
 俺も少しは料理を覚えるよ。
 そうだ、退院したら、椅子を買いに行こう。
 やっぱりピアノの前にもうひとつ、椅子を置こう。
 そしたら窮屈な思いをせずに、一緒に弾けるだろ?
 弾きたい曲はたくさんある。
 ブラームス、ドヴォルザーク、モーツァルトもいいよね。
 ああ、早く、会いたい。


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