fc2ブログ

ARTICLE PAGE

瞬の心臓3

 ***

 ホールの中で演奏を終えて、鳴り止まない拍手の中、瞬は特等席に目をやる。特等席に座る人物はいつも決まっている。演奏を終えたあとは、岬が必ずその席で、大きな拍手を贈ってくれる。瞬はそれに応えて、微笑み返すのだ。

 ――なんて最高なんだろう。

 そんな夢を見ながら、遠くで誰かのすすり泣く声が聞こえた。

 『もう泣かないよ』

 ――泣いてるじゃないか。泣くなよ。
   ……どこにいるんだよ。……手を、握ってくれ。


「……起きたか」

 ぼやける視界に映った見慣れない天井。聞き慣れた声だが、期待した声ではなかった。

「………なんで、ここに」

「自分が倒れたのは覚えてるか?」

 ゆっくり首を回すと、険しい表情の父が座っていた。

「母さんのくれた命を粗末にはしないと言ったのは、お前だろう。この馬鹿者」

「あんたに一番言われたくないね」

 すると父は「憎まれ口がきけるなら、大丈夫だな」と、笑った。
 瞬は倒れる前のことを思い返してみた。店頭コンサートで、岬と一緒に、ピアノを弾いた。
 憧れていたグリーグのピアノ協奏曲。最高に気持ち良かった。岬の奏でるオーケストラは、想像以上の出来だった。やはり彼でなければ、あの曲は弾けなかっただろう。存分に発揮できて成功を収められたのは、彼のおかげだ。

「あの場に僕がいなかったら、瞬は危なかった」

「死なせてくれても良かったのに」

「心にもないことを言うな。そういう危険を想定して僕をあの場へ呼んだんだろう」

「……分かってるんですね」

 父は瞬のもうひとつの思惑にも気付いていた。

「まあ、それは『主治医として』だと思うけど……。『父親として』は、……純粋に演奏を聴かせてくれた、と受け取っていいのかな」

 瞬は「違いますよ」と否定した。

「俺がピアノを知って、あそこまで弾けるようになったのは、母のおかげです。母は俺を一生懸命育ててくれた。……あんたは、何もしてない。その違いを、ああいう形で見せつけたかった、それだけです」

 ばつの悪そうに何度も頷いて、俯いた父に少しだけ胸が痛むのは症状がまだ落ち着いていないからだと心の中で言い聞かせた。

「……瞬とサナエには……本当に悪いことをしたと思ってる。ただ、ひとつだけ言い訳をさせてもらえるのなら、僕はサナエを愛していたし、瞬とも打ち解けたいと思っていた」

「都合の良い話ですね。『家族』がいながら」

「家族とは、もう随分前から冷え切ってたんだ。だからと言って許される話ではないだろうけど、もともと妻は僕自身を好きで結婚したわけじゃない。僕の肩書きと結婚した。けれど、その肩書きも自慢できるものじゃない。はっきり言って、僕は腕の良い医者じゃないんだ」

 父の自虐的告白に噴き出しそうになり、それを咳払いで誤魔化した。

「僕は自分の判断に自信が持てなくてね。難しい患者は他の先生に押し付けたりしてた。向上心も野心もなく、細く長く生き残れたらいいと思ってた。さぞかし妻は僕に幻滅しただろうね。娘が産まれる頃には既に修復不可能なまでに亀裂が入っていたよ」

「だけど、あの女は人の家庭を壊すなって、乗り込んで来た」

「プライドが傷付いただけだろう。サナエと知り合った時、一緒にスナックに通った医師は僕の同僚でね。僕とサナエのことを勘付いていたらしい。そして、こっちに君たちが越して来たことを知って関係がバレて。どうやら妻に告げ口したようだ。……全部僕が至らないせいだよ。本当に申し訳ないと思ってる」

「……それは、何に対して謝ってるんですか。本妻が乗り込んで来たことですか、俺と母をほったらかしにしたことですか、それとも妻がいながら母とそういう関係になったことですか」

 父を責めても仕方のないことだと分かっているのに悪態の限りを尽くした。父はただ、「そうだね、そうだね」と、否定も肯定もせずに瞬の侮言を聞いている。

「だけど、ひとつ言わせて欲しい。僕は君たちをほったらかしにしたわけじゃない。さっきも言ったけど、僕は医師としての自信がなかった。君たちをこっちに呼んだのは、西山先生に診てもらいたかったからだ」

 西山とは、この辺一帯の循環器科医で名の通っている医師である。確かに、以前は西山が担当医だった。

「僕が瞬の……息子の病気を治したくて、循環器科で有名な病院を色々回ってたんだ。一度も連絡しなかったのは本当に悪かった。けれど、僕が自分に自信が持てるまでは連絡しないでおこうと決めていた。……瞬の病気は、僕が医師として生まれ変わるためのきっかけでもあった」

「……で、自信は持てたんですか」

「多少は」

「多少って」

「心不全も何度か繰り返しているね」

「……」

「ペースメーカーを入れよう。やってみなくちゃ分からないけど、体に合えば日常生活も楽になるはずだ。改善は期待できる」

「……それでゆくゆくは人工心臓、できるかどうかも分からない移植まで繋いでいくんですか。それまで生きていればの話ですけど」

「なぜ、君は治療を進めるのにそんなに消極的なんだ。生きたいと思わないのか」

「生きたいですよ。でも、……迷惑をかけたくないんです」

「岬くんに」

 父からその名前が出たことに驚いた。目を見開いて父を見ると父は微笑んだ。そして救急車に岬も同乗したこと、瞬の心臓を見せたことも聞いた。

「余計なことを」

「あの子には知る権利があると判断した。岬くんは、ありとあらゆる方法を使ってでも瞬を治療してくれと泣いてすがりついてきたよ」

「あいつはすぐ泣くんですよ」

「お前は幸せだな。あんなに想われて」

 それには家族と愛を育めなかったことと、母サナエを愛しながらも不本意な別れになってしまったことの無念と、妬みが含まれているように聞こえた。

「あの子のためにもきちんと治療をしなさい」

「今回みたいに倒れたりしたら……また格好悪いところを見られる」

「格好良いとか悪いとか考えてること自体が、格好悪い」

「……急にえらぶりやがって。俺が生きれば生きるほど、あいつの負担が増えるんですよ。さっさといなくなったほうが悲しみも少なくて済むし、巻き返しができる。あいつの人生の大半を俺が拘束することになるのは嫌だ」

「それは、岬くんが決めることだ」

「……」

「二十歳そこそこの男なんか、まだ子どもだ。格好つける暇があったら治療しろ。……治療費の心配はしなくていい」

「あんたに借りを作りたくない」

「心配するな。一生かかってでもお前から少しずつ返してもらうさ」

 父は長話をしたことを詫びて席を立った。

「岬くんには当分、見舞いを控えてもらっているよ。聞けば彼、受験生らしいじゃないか。元気で会えるように、今はゆっくり休みなさい」

「……」

「ああ、それから……。演奏、素晴らしかったよ。サナエは本当に君を、よく育ててくれた」

 父が立ち去り、静かになった病室で、瞬は岬とのコンチェルトを思い出した。

 ――楽しかった。

 時々、互いを見合わせては息遣いや指使いを感じて、音は完全に一体となった。たった数時間前のことなのに、もう随分前のことのように感じる。

 岬に会いたい。抱き締めたい。手を、握って欲しい。


スポンサーサイト



0 Comments

Leave a comment