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瞬の心臓2

 診察室に連れて行かれ、岬は勧められた丸椅子に腰掛けて瞬の父に向き直った。父は電子カルテを開いて瞬の病歴をざっと確認するとフゥ、と息をついた。

「瞬の病気のことは知ってるよね?」

「……はい。治療が難しい心筋症って……」

「そう。はっきりした原因は分からないんだ。そういうのを特発性って言うんだけどね。遺伝かもしれないし、過去にかかったウイルスの仕業かもしれない。はっきり言えるのは予後は悪く、内科的治療で進行を抑えるしか今のところ方法がないってこと」

「……本当に治らないんですか」

「完治はできない」

 岬は思い切って訊ねた。

「実は……僕、瞬が心臓の病気って聞いても、いまだによく分からないんです。ずっと昔から瞬のこと知ってるけど、ついさっき倒れたのを見るまでは本当に病気なのかなって疑うくらいだった。……ピンとこない、というか……。健常者との違いはなんですか」

 父は暫く考え、鋭い視線を岬に向けたあと、言った。

「瞬の心臓を見てみるかい」

「……え……?」

 父はカチャカチャとパソコンを打ち、一枚の3D画像を表示した。

「これは、健常者の心臓だよ」

 マウスで画像の心臓をクリックすると、ビクビクと動き出した。心臓の動きを見るのは初めてなので、これが正常なのか異常なのかは分からない。

「……こっちが、瞬の心臓」

 続いて表示した画像を同じようにクリックすると、今度は岬でもはっきり収縮の違いが分かり、愕然とした。例えるなら、活きの良い魚と息絶えそうな魚のようなものだ。また健常者の心臓は所謂ハート型に引き締まった形をしているのに対し、瞬の心臓は風船のように膨らんでいる。

「すごく動きが悪いのが、分かるかな」

「……こ、れが……本当に……瞬の……?」

「比べると肥大しているのも分かるよね」

 岬は目の前に突き付けられた衝撃の現実に吐き気を覚えた。腰を抜かしてしまい、床にへたり込む。

「実は、年末の健診でBNPが増加してたんだ。あ、BNPっていうのは……」

「……心臓の疲労度を表すホルモン数値……」

「……そう」

 こんな時の記憶力なんか残酷でしかない、と岬は思った。

「BNPは心臓が肥大した時に増加する。薬の量を変えるために結果は早めに伝えようと思ってたんだ。……それなのに、瞬はわざとなのか電話に出ないし、中々病院に来ないし、痺れを切らせてこっちから出向くつもりだった。……そして今日、ヤマイに来いと誘われていたのを思い出して慌てて行ったんだ」

 瞬が父を店頭コンサートに誘っていたことに驚いた。話を聞く限りでは瞬は父を嫌っていたはずだ。

「ちなみに、現時点での瞬のBNPは1000を超えていて、肺に水が溜まってる。薬と利尿で回復に持っていくつもりだ」

「1000……!?」

 確か正常値は18以下だと聞いた。もう何がなんだか考えられなくなってきていた。やはり店頭コンサートに向けての練習を、知らないところで無理をしていたのだろう。本番も、平然としているようでも無意識の緊張とプレッシャーは凄まじかったに違いない。

 ――止めれば良かった……。

 岬は膝をついたまま父の両袖を握り締めた。

「先生、お願いします。瞬を助けて下さい」

「それは僕だって、最善を尽くすさ」

「何かひとつでも良くなる方法があるなら、ありとあらゆる手段を使ってでも治療して下さい。出せと言われれば僕は心臓でも肝臓でも差し出します。お金がかかるのなら、僕が一生かけて支払います。……お願いします……お願い……」

 泣いて懇願するのが精一杯だった。父は震える岬の背中をさすった。

「僕はね、驚いてるんだよ。本当言うと、瞬の病気が分かった時、こんなに持つと思わなかった。……父親として最低だけどね。だけど、瞬は今でも頑張ってる。それは、岬くんのおかげなんだよ」

 岬は涙の筋を頬に何本もつけたまま、ゆっくり顔を上げた。

「……俺の?」

「そう、君がいるから、瞬は頑張って生きてる。そして僕はこれからも頑張って欲しい。治療は僕に任せて、岬くんは瞬を待っていて欲しい。そして瞬がいつでも甘えられるように、ドンと構えていて」

「……」

「無理しなくていいんだよ。君には君の人生がある……」

 岬は涙を拭い、「いえ」とはっきりした声を遮った。

「待ちます。……よろしくお願いします」

 診察室を出た後、岬は瞬が寝ている病室へ入った。顔色は良くないが、落ち着いた様子で静かに寝息を立てている。岬は瞬の青白い頬を甲で撫でた。

「……瞬、君のピアノは最高だったよ」

 今、目の前で寝ている瞬からは想像できないほど、ピアノを弾いている時の彼は誰よりも輝いていた。あれほど生き生きと、迫力のある姿を見られるのはピアノを弾いている時だけだ。

「こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、少しだけ、ほんの少しだけ、瞬が病気で良かったと思っちゃったんだ……」 

 目頭と鼻が熱くなるのを堪えて、続ける。

「もし瞬が持病のない健康な体だったら、間違いなく音大に行って、プロを目指してたよね。そうなると、きっと俺は置いていかれちゃうだろうね。どんどん力を発揮して、世界中に注目されて、君はみんなのものになるんだ。きっと瞬は俺のことなんか忘れちゃうだろうね」

 それどころか、出会うこともなかったかもしれない。

「そう思うと寂しいよ。だけど今は、……俺のものなんだ……。俺がずっと瞬の世話を焼くんだよ。そして俺の隣で、瞬は俺にだけ、ピアノを弾いてくれるんだ。……幸せだよ。俺も世界中に瞬の音を届けたかった。でも今、俺はこれで良かったと思ってる。……ごめんね、こんな奴で」

 瞼の上から、瞬の眼が動いている。握っている手は、ピクピクと指を動かしていた。

「夢の中でもピアノを弾いてるんだね」

 ――その夢の中に、俺はいる?

 岬は手を離し、立ち上がると布団を首元まで掛け直した。

「瞬のマンションで待ってるよ。毎日学校が終わったら、マンションに寄って待ってるからね。鍵盤もだいぶ汚れてたから、綺麗に拭いておく。もう泣かないよ」

 顔を見たら涙が出るかもしれないと思い、岬は俯いたまま病室を出た。
 瞬の目尻から雫が零れたことを、岬は知らない。

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