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瞬の心臓1

 ピアノに心を奪われた日、瞬少年は必死に手を叩いた。顔も名前も覚えていないけれど、あの日、同じくグリーグのピアノ協奏曲を弾いたピアニストは、割れるほどの拍手を浴びていた。幼心に抱いたあの感動はいつまで経っても忘れることはない。
 あんな風になりたかった。今度は自分がホールの真ん中で拍手を浴びるのだと、何度も夢を見た。一度でいいから叶えたい。どんな形でもいいから、もう一度舞台に立ちたかった。

 カデンツァを締め括る長いトリル――。

 ――もう少し……胸が……苦しい……。

 岬に視線を送ると、岬は我に返ったようで、絶妙なピアニシモで加わると自然に旋律を歌い、クライマックスに向けてテンポを上げた。

 ――演奏中でも辛そうなら途中でも終わらせるから。――

 ――嫌だ。やめたくない。止めないで。

 瞬は気合いを入れ直すために大きく目を開き、足を踏み締めた。オーケストラから継いで、瞬の独奏ピアノが冒頭と同じグリーグモチーフを力強く再現する。そしてその勢いのまま三連符で駆け上がって、絢爛に幕を閉じた。

 演奏が止まると一瞬、キン、と耳鳴りがしてその場が凍てついた。席を立った瞬に続いて岬が慌てて立ち上がり、観客に向かって一礼する。呆気に取られていた観客のうちのひとりがパン、と手を叩いた。それに誘導されるように、まばらに拍手が上がり、束となり、長く盛大な拍手が瞬と岬に贈られる。時折「ブラボッ!」と称賛する声が上がった。

 瞬は、錯覚に陥った。ホールにいるような、錯覚に。


 ――ああ、これだ。これを、夢見ていたんだ。……本当はもっと弾きたい。


 もっと、弾きたい。


「―――瞬!!」

 薄れていく意識の中で、岬が叫んでいるのが聞こえた。すぐ傍で名前を呼ばれているのに、返事ができない。最後に視界に入ったのは、今にも泣きそうな、青ざめている岬の顔だった。

 ***

「瞬! しっかり! だ、誰か……救急車っ……!」

 ざわめく人だかりの中で、岬は涙目になって瞬に呼び掛けた。慌てふためいているところをいきなり肩を掴まれ、そして耳元で冷静な男の声がした。

「落ち着いて。途中からおかしいと思って、早めに救急車を呼んでおいた。じきに到着する」

 頼もしい言葉に、岬はポカンとして男を見据えた。釣り気味の目尻に皺を寄せた、威厳がありながら懐かしく、優しい顔をした中年男性。

「……あの……?」

「この子の主治医で、……父親だ」

「瞬の……お父さん……」

「一緒に来てくれるかい?」

 まもなく到着した救急車に、岬は瞬と瞬の父と一緒に乗り込んだ。車内では父が慌ただしく病院と連絡を取ったり、応急処置をしている。岬は苦しそうに横たわる瞬を見つめて、とにかく一命を取り留めて欲しいとひたすら願った。一緒に来てくれと言われたものの、病院に着いてからも岬にできることは何もなく、ことが落ち着くまで待合室で座って待っているしかなかった。どんな些細なことでもいいから何か手伝いたかった。何かをしていないと悪いことばかり考えて気が狂いそうになる。

 岬は祈った。いつもは当てにしない神とやらに、仏とやらに、そして、つい先日旅立った、父に。

 ――父さん、お願い。瞬を助けてあげて。瞬は父さんの友達なんでしょ?
 
 ふいに岬の脳裏によぎった。

 ――明日はいると思ってるの。いい加減、現実見ようよ。
    辛いけど受け入れなきゃいけないんだよ! 
    父さんは死ぬんだよ!―—

「――あ……」

 なんてことを言ったんだ、と、自分の非情さが恐ろしくなった。

 母さん、ごめん。こんな息子で本当にごめんなさい。
 そりゃ、怖かったよね。
 生きてて欲しいって、思うよね。
 二度と会えないかもって考えたら、寂しいよね。
 今なら分かる。分かるよ。

「……岬くん」

 どのくらい経ったのか、寒くて薄暗くなった待合室でいつの間にか眠っていた岬を、瞬の父が起こした。岬は飛び起きて両腕にしがみついた。

「先生、瞬は!?」

「大丈夫。落ち着いたよ。今は病室で眠ってるんだ」

「本当に眠ってるだけ……?」 

 父は岬の疑り深い質問を訝しんだが、すぐに笑顔を向けた。

「本当に寝ているだけだよ。そのうち目を覚ますから、安心して」

 震える吐息でようやくひと安心した岬の頭を撫でる。その手つきが瞬とよく似ていて、岬はたまらず涙を落とした。

「話を聞いてくれるかな」


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