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二人だけのコンチェルト2

 ―――

 エドヴァルド・グリーグ。

 ピアノの魔術師と言われるフランツ・リストにも才能を認められた、ノルウェーを代表する音楽家。『ピアノ協奏曲イ短調Op.16』は、グリーグが二十五歳の時に作った唯一の協奏曲である。従妹のニーナと結婚し、翌年に授かった愛娘と三人でコペンハーゲンのセレレードで暮らしていた頃の作品であり、人生で一番幸福の絶頂期であった充実感と北欧の大自然が反映された壮大な曲だ。
 曲は三つの楽章から構成されているが、岬と瞬が弾くのは第一楽章のみである。
「のみ」と言っても、全体時間はおよそ十二分程度。ホールで座って聴くならまだしも、通りすがりの人間を最後まで聴かせようと思ったら、よっぽど心を掴めないと無理な話だ。

 冒頭、ティンパニーのクレシェンドから入り、直後、独奏ピアノのダブルオクターブでの急降下は、クラシックに興味がない者でも必ず知っていると言っていいほど、有名なフレーズだ。そんな誰もが知る冒頭から、いきなりしくじるわけにはいかない。

 岬の斜め前にいる瞬が軽く頷き、エレクトーンからティンパニーのトレモロが流れる。始まってしまった、と岬はまだ心の準備ができずにいたが、岬の危惧は瞬の力強く華麗な打鍵により吹き飛ばされた。独奏ピアノから続かなければと腹は括れたものの、出だしで強弱ペダルを下げ忘れていきなり印象の強すぎるオーケストラになってしまった。瞬が目立たないようにこっそり人差し指を下に向けて、音を下げろと指示する。けれども緊張と焦りで流暢に弾けずにぎこちない演奏が続き、そのまま再び瞬に主導権が移ってメインのピアノに添う。ピアノがメインになると、少しだけほっとした。ふと視線を変えると、早くも通行人が何人か立ち止まって瞬を見ていた。どうやら冒頭の掴みは完璧だったらしい。

 そしてその後に続く推移――。柔らかく手首を反らせて鍵盤に向かって勢いよく指が落ちる。軽快でありながら優美に流れる音を奏でているのが、まさかプロでも音大生でもない、どこにも属さない一般人だと誰も思うまい。岬は自分が注目されるのは嫌だが、どうかそのまま瞬の演奏を最後まで聴いて欲しいと念を送った。極度の緊張からは脱したようで、岬はレッスン中に今田に言われたことをひとつずつ思い出してみる。

 恥ずかしがってちゃ、逆に格好悪いの。
 そんなに脇を締めないで。踏み込む時は全身を前に。
 瞬くんを引き立てることばかり考えちゃ駄目よ。
 ほら、ここはオケがメインなの。
 フォルツァンドよりもっと強烈に!
 ピアノが入ってきても、瞬くんなら上手にオケに添ってくれるから安心して。

 フィヨルドをイメージして。北欧の自然よ。分からない?
 じゃあ、なんでもいいわよ、
 山とか川とか、壮大な大自然を体中で表現するの。


 岬の体つきがスムーズになってきたのを感じて、瞬はようやく安心して自分の演奏に集中できた。口角が少し上がるのは、瞬が演奏を楽しんでいる証拠である。岬はその口元を見て、これでいいのだな、と胸を撫で下ろした。

 ちらほらと観客が瞬の周りに集まってくる。自分の出番を終えた他の演奏者や関係者も立ち去らずにその場に佇んでいるので、店内は混雑したままだ。
 みんなが瞬の音を聴いている。
 岬は「どうだ、すごいだろう」と、まるで自分のことのように大声で自慢したいくらい、誇らしかった。

「ねえ、ヤマイの前で男の子が二人、ピアノ弾いてるんだけど」

「ちょっと見に行ってみる?」

 すれ違った二人組の女子の会話は、斎藤には聞き捨てならないものに思えた。言われてみれば、確かにヤマイのほうからやたら壮厳な音楽が聞こえる。それほど大きくはない人だかりに興味が湧き、斎藤は頭の片隅で覚えのある顔を浮かべながら、吸い寄せられていった。

 身長のある斎藤は無理に背伸びをしなくても、頭越しに周囲の視線の先を確認できる。 演奏している二人組が予想通りの人物だったことと、目の前で展開される思いがけない状況に驚いた。

 なぜ岬がここで、電子オルガンを弾いているのだ。しかも人前に出ることが苦手な彼が、あれほど堂々としているのを初めて見た。それよりも驚いたのが、岬の斜め前でピアノを弾いている瞬とその音色だ。病院で一度しか見たことがないが、整った顔立ちは印象的だったので髪型が違っていてもすぐに彼だと分かった。

 続々と人が集まってくる。そうなっても仕方ないくらいの光景なのだ。斎藤は今まで見たことのない楽しそうな岬を見つめながら、美しすぎる音色に釘付けになった。


 ピアノと一緒に生き生きと弾くのよ。
 カンタービレが甘い。もっと歌って!


 流れるような繊細な旋律が続いて曲が再現部に突入すると、岬は観客の中に母の姿を見つけた。母は岬ではなく、瞬を見ていた。眉間に皺を寄せて、警戒するような心配しているような、けれども確実に瞬の音に魅了されている。

 『トゥッティ!』

 突然、瞬の気迫を感じて、岬はオーケストラが入ることを思い出して慌てて強ペダルを踏んだ。フォルテシモのままオーケストラが再現部を終わらせると、いよいよピアノのカデンツァに繋がる。練習時、瞬と合わせたのはここまでだったので、この曲の最大の聴きどころである瞬のカデンツァを、岬はまだ聴いたことがなかった。

 鍵盤をふんだんに使った、ピアニッシシモからフォルテッシシモへ膨らむ華々しいアルペジオが始まると、普段は騒がしいはずの街中が静まり返った。

 そして完全に周囲が瞬の支配下に置かれた時――、
 瞬は、呼吸をするのも忘れるほどの贅沢な超絶技巧を惜しみなく披露した。
 脅威に雪崩落ちる、烈々たるダブルオクターブ。技術だけに集中してしまうことなく、瞬はドラマチックに、情熱的に、迫り来る大蛇のようなとぐろを巻き、そして幻想的に和音を散らせた。店は、もはや個人の顔を特定できないほどの人で囲まれている。ひとり、ふたりと足を止め、誰もが降り注ぐ音の煌めきに金縛りにあった。岬は鳥肌と震えが止まらなかった。


 瞬、君はやっぱり、すごいよ。
 気付いてる? 道行く人がみんな、君を見てる。
 尊敬と羨望の眼差しで、君を見てるんだよ。
 君は昔、言ったよね。
 「ピアノは弾き手の魅力を最大限に引き出す」と。
 まさにその通りだよ。
 そして君もまた、ピアノの魅力を引き出している。
 君ほど音に愛された人間はいない。
 もっと君の音色を、色んな人に届けられたらいいのに。
 勿体ない。本当に勿体ないことだよ。

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