3
俺の心配など露知らず、堺が来なくなって一ヵ月が過ぎた頃、季節は気付けば春から初夏を迎えていた。堺から電話が掛かってきたことは一度もない。たまに鳴り出したスマートフォンの画面を見て、母親の名前だったりするとひどく苛立って落ち込む。
もともとたいして仲が良いわけじゃなかったのだ。あいつはあいつなりに新しい居場所を見つけたのかもしれない。どこかで元気にしているならそれでいいかと諦めかけた時、滅多に鳴らないインターホンが鳴った。その日は朝から予定がなく、布団の中でテレビを見ていた。インターホンは立て続けに三回鳴ったので、俺は散らかった服やごみを足でかき分けながら玄関へ向かった。ドアを開けて目の前にいたのは、
「堺!」
「久しぶり」
少し伸びた茶色の猫っ毛。心なしか痩せたように見える。
「今までどこ行ってたんだよ、心配しただろ」
「心配してくれてたんだ、そりゃ嬉しいね」
部屋の中に通すと、堺は「相変わらず汚い部屋だな」と呆れた。我が物顔でベッドに寝転ぶ。煙草を吸おうとするのを、さすがに布団の上ではやめろと止めた。
「ごめんごめん、昨日まで気にせずバカバカ吸ってたから」
「どこにいたの」
「色んな男のところを転々としてた。酒飲んで、煙草吸って、寝るだけ」
「……急に来なくなったから、気になってた」
「神崎はどう? なんか変化あった?」
「別に。唯一、母親が来て、家に帰れだの予備校に通えだのうるさかったけど」
「帰ればいいのに」
「冗談じゃない。俺、けっこう今の生活気に入ってるんだ。バイトして好きな物食べて、好きな時に寝る。……堺と会うのも楽しかったりするし」
堺は神妙な表情で寝転がったまま何も言わなかった。俺はそこで「俺も楽しい」と言ってくれることを期待していたのだと気付く。黙ったままの堺に軽くショックを受けている。堺は人形のような綺麗な無表情を崩さずに言った。
「神崎は、実家に帰るべきだと思うよ。帰るところがあるんだから。親に心配かけるなよ」
それは予想外の台詞だった。てっきり堺なら俺の意見に賛同してくれるものと思い込んでいたので、まっとうな意見に思考が固まった。
「……でも、」
「神崎が取ってる行動はさ、子どもの反抗だよ。味方をしてくれなかったから、拗ねてるだけだ。バイトしてフラフラして、そんな不安定な生活がいいわけないだろう。きみにはちゃんと用意された将来があるんだから、少し足を踏み外したくらいで意固地になるなよ」
母親と同じことを言われて、カッと頭に血が昇った。
「お前に俺の何が分かるんだよ!!」
それでも堺は表情を変えない。
「きみのように恵まれた人間のことなんか分からないね。なんでお母さんが心配してくれてたのに、家に帰らなかったんだよ。こんなところで生きていくより、家に戻ってやり直すほうが賢明なのに、なんできみはそうしなかったの。まったく理解に苦しむよ」
会わなかった一ヵ月のあいだで、人が変わったんじゃないだろうかと思うほど、堺は至極冷静に俺を突き放した。
分からずやの両親の愚痴を聞いてくれて、駄目な自分を一緒に蔑んで笑っていたじゃないか。未来に不安はあるけれど、堺なら一緒に「なんとかなるよ」とその日暮らしを共にしてくれると思っていたのに。
「なんだよ。いきなりいなくなったくせに、突然戻ってきたと思ったら説教かよ。俺だってお前が何考えてんのか分かんないよ」
キッチンの冷蔵庫を開け、半分残っていたパックの牛乳をコップに注がずにそのまま飲んだ。口の端から零れた牛乳の筋を、袖で拭う。いつの間にかベッドを下りていた堺は、俺の背後に立って背中に手を当てた。
「悪かったよ。責めてるわけじゃないんだ。羨ましいんだよ。なんだかんだで愛されてるきみが。俺には心配してくれる人も、叱ってくれる人もいないから。だけど、どう考えても、きみのためには家に帰ったほうがいい。たった一回の挫折で人生台無しにするなよ」
「……」
「母親がね、自殺したんだ」
振り返ると、堺は悲しみと怒りが入り混じったような、悔しそうな顔で下唇を噛んでいた。
「もうずっと心を病んでたから、いつかするんじゃないかって気はしてた。……最低だろ、俺。予感があったのに、向き合いたくなくて逃げてたんだ。神崎と一緒にいる時はそういう暗い気分を忘れられたから、良かったんだ。俺がそうやって逃げてるあいだに母親が死んだ。さすがにちょっと後悔したよね」
そんな重たい話をしながらも、堺は笑ってみせた。
「息子の俺がもうちょっと話し相手になってれば、少しは元気になれたんじゃないかとか、それまで嫌だ嫌だって思ってたのに、死んだ途端に昔のことを思い出すんだ。ああ、そういえば、あんなことしてくれたよな、とか。……後悔してからじゃ、遅いんだよ……」
「なんで、すぐ話してくれなかったの」
「……神崎は優しいから、話を聞こうとしてくれるだろ。……絶対甘えるからさ。こういう時こそ何も考えないでヤることしか頭にない男といたほうが、気が紛れるんじゃないかと思って……」
堺の声は震えていて、泣きそうなのを必死で堪えていた。眉間を寄せて目をじんわり赤くさせて、それでも無理やり平気なふりをしようとする。
「我慢する必要があるのかよ」
「だって神崎を頼ったら、たぶん、……好きになるから……そんなのは迷惑だろ……」
堺はようやく涙を落とした。ポロポロと大粒の雫を落としながら泣いた。
学校ではクールで不愛想だと思っていた奴が、屈託なく笑ったり、こんなふうに顔をぐちゃぐちゃにして泣いている姿なんて、きっと俺しか知らない。なんでもできて非の打ちどころがなくて、愛に無頓着だと気丈に振る舞っているけれど、本当は寂しくて孤独で、誰かに愛されたくて仕方ないのだろう。
その夜、俺と堺は同じ布団で寄り添って寝た。親が子どもに添い寝をするような子どもっぽいものだ。ふいに我に返って「なにをやってるんだろう」と気恥ずかしくなるのだけど、「こんなふうに誰かと寝ると安心するよ」と言われては拒めない。
「抱いてくれる男はいるけど、中には暴力的な奴もいて、痛い思いをすることも多かったからさ」
「その中に好きな奴はいないの? その、彼氏って呼べるやつ」
「……いない。なんでだろうね。優しくしてくれる奴は大抵下心があるからね。神崎はそういうのナシで一緒にいて居心地いいから好きなんだ」
「えっ?」
「ああ、好きって、友達として好きってことだよ。……でもあんまり一緒にいると本当に好きになるかもしれないから……それは困る……」
「困るって、なんで?」
「神崎が男に興味ないの分かってるし……きみに手を出したりしないから……安心して……」
堺はそう言って、静かに眠りに落ちた。ほどなくして寝息が間近に聞こえた。顎の下あたりを堺の猫っ毛がくすぐる。体をずらして堺の顔を真っ向から見つめた。白い頬に長い睫毛。赤い唇は少しだけ開いている。すっかり安心しきっているような寝顔だ。俺と一緒にいることで安心してくれたのなら、それはやっぱり嬉しいことだ。こんな俺でも少しは人の役に立てたのだと思える。
なんだか急に愛おしくなって堺の頭を腕の中に抱き入れた。
切ないような悲しいような、嬉しいような、はっきりしない。
もし堺が本当に俺を好きだと言ってきたら……俺はやっぱり応えられないだろう。堺のことは好きだけど、性的な対象で見られるかと聞かれたら、おそらくできない。
だけど、今、堺を抱き締めながら抱いているのは友情じゃない。家族愛に似た純粋な愛情と友情と、そのあいだにある異質で邪な感情だ。その正体が分からないから切ない。
すぐ傍にある堺の唇。あの見惚れるほど綺麗だったキスをされたら、分からない感情がはっきりするのだろうか。俺はゆっくり顔を近付けて、堺の唇を捉えた。なんの味もしない、ただ柔らかいだけ。起きないのをいいことに何度か合わせてみたけれど、複雑な気持ちはいっそう複雑になって結局分からないままだった。
―――
翌朝、俺がバイトに出るのと同じ時間に堺は部屋を出た。どこか靄が晴れたようなすっきりした顔で、爽やかな初夏の空に向かって背伸びをする。
「あー、もうすぐ梅雨が来て、梅雨が明けたら夏だな!」
「けっこう先だけどな」
「夏になっても秋になっても、神崎といたかったなぁ」
「……え? いるだろ?」
「うーん……うん、いるかもね」
「なんだよ、はっきり言えよ」
「まだ家、片付いてないしさ。とりあえず片付けてくるよ。神崎も、いい加減実家に戻れよ。自分でもどうしたらいいのか本当は分かってるんだろ」
またね、と言って堺は手を振ったが、俺は堺はもう二度と俺の前には現れない気がした。なんて声を掛ければいいのか分からない。別れたくないけれど、これ以上一緒にいるのもお互いのためにならないと思った。俺は何も気付いていない振りをして、「いつでも来いよ」と手を振り返した。最後に堺は、
「気まぐれでも嬉しかったよ」
と、残して、背を向けた。まだ不安定な道のりを、それでもしっかりとした足取りで去っていく。あいつは一度も振り返らなかった。
***
「先生、ありがとうございました」
「お大事に」
盲腸で入院していた患者が、元気になって退院するのを見送った。
あれから七年、結局俺はあのあと実家に戻って、父親に頭を下げた。当時は悔しくて不満だらけだったけど、今となってはそれで正解だったんだと思う。遅れを取り戻すために予備校へ通い、死に物狂いで勉強をして、志望校ではないけれど、なんとか医学部へ入れた。今は卒業して総合病院の外科で研修医をしている。
堺はあの日から音信不通、ただの一度も姿を見せなかった。でも不思議と悲しくはない。寂しさはあるが、あいつはあいつなりに何かを見つけて、あるいは見つけるために、どこかへ行ったのだろう。ズルズルとお互いを甘やかすだけだったら、俺もあいつも今でも地に足のつかない人生を送っていたかもしれない。一緒に過ごした時間は僅かだったけど、今の自分があるのは堺のおかげだと思っている。コンビニの前で堺に話しかけた時から、もしかしたら、深夜にあいつのキスを目撃した時から、あいつは俺の中で唯一無二の存在だった。
もし、あのまま一緒にいたら、俺は堺を好きになっていただろうか。堺と過ごした最後の夜に抱いた複雑な気持ちの正体はまだ分からない。
友達とも言えない、恋人でもない、むろん家族でもない。俺とあいつはどういう関係だったのか、今でも時々考える。
病棟の廊下の窓から中庭を見つめていた。車椅子に乗って散歩をしている患者、見舞いに来た家族……。木陰から現れた人影に目が付いた。眩しいほどの茶色の猫っ毛。脳裏に蘇った面影と重ねて、衝動的に中庭に向かって走った。階段を駆け下りて、ロビーを駆け抜け、姿勢よく歩くその後姿を追い掛けた。
「堺!」
腕を掴んで振り向かせる。驚いて俺を見上げたその人の顔を見て、俺は途端に冷静になった。
「……あ……、すみません、……人違い、でした……」
怪訝に睨まれて、無言で去っていく。
――こんなところにいるはずがないのに。
風が吹いて感じる楠の匂いと、初夏の空の下で見送ったあいつの背中を思い出しては、どうか元気でやっているように願った。
水色ほど眩しくなく、紺色ほど苦くない。俺たちはそんな甘酸っぱくて憂鬱な、紺碧の青春の中に、確かにいた。
(了)
もともとたいして仲が良いわけじゃなかったのだ。あいつはあいつなりに新しい居場所を見つけたのかもしれない。どこかで元気にしているならそれでいいかと諦めかけた時、滅多に鳴らないインターホンが鳴った。その日は朝から予定がなく、布団の中でテレビを見ていた。インターホンは立て続けに三回鳴ったので、俺は散らかった服やごみを足でかき分けながら玄関へ向かった。ドアを開けて目の前にいたのは、
「堺!」
「久しぶり」
少し伸びた茶色の猫っ毛。心なしか痩せたように見える。
「今までどこ行ってたんだよ、心配しただろ」
「心配してくれてたんだ、そりゃ嬉しいね」
部屋の中に通すと、堺は「相変わらず汚い部屋だな」と呆れた。我が物顔でベッドに寝転ぶ。煙草を吸おうとするのを、さすがに布団の上ではやめろと止めた。
「ごめんごめん、昨日まで気にせずバカバカ吸ってたから」
「どこにいたの」
「色んな男のところを転々としてた。酒飲んで、煙草吸って、寝るだけ」
「……急に来なくなったから、気になってた」
「神崎はどう? なんか変化あった?」
「別に。唯一、母親が来て、家に帰れだの予備校に通えだのうるさかったけど」
「帰ればいいのに」
「冗談じゃない。俺、けっこう今の生活気に入ってるんだ。バイトして好きな物食べて、好きな時に寝る。……堺と会うのも楽しかったりするし」
堺は神妙な表情で寝転がったまま何も言わなかった。俺はそこで「俺も楽しい」と言ってくれることを期待していたのだと気付く。黙ったままの堺に軽くショックを受けている。堺は人形のような綺麗な無表情を崩さずに言った。
「神崎は、実家に帰るべきだと思うよ。帰るところがあるんだから。親に心配かけるなよ」
それは予想外の台詞だった。てっきり堺なら俺の意見に賛同してくれるものと思い込んでいたので、まっとうな意見に思考が固まった。
「……でも、」
「神崎が取ってる行動はさ、子どもの反抗だよ。味方をしてくれなかったから、拗ねてるだけだ。バイトしてフラフラして、そんな不安定な生活がいいわけないだろう。きみにはちゃんと用意された将来があるんだから、少し足を踏み外したくらいで意固地になるなよ」
母親と同じことを言われて、カッと頭に血が昇った。
「お前に俺の何が分かるんだよ!!」
それでも堺は表情を変えない。
「きみのように恵まれた人間のことなんか分からないね。なんでお母さんが心配してくれてたのに、家に帰らなかったんだよ。こんなところで生きていくより、家に戻ってやり直すほうが賢明なのに、なんできみはそうしなかったの。まったく理解に苦しむよ」
会わなかった一ヵ月のあいだで、人が変わったんじゃないだろうかと思うほど、堺は至極冷静に俺を突き放した。
分からずやの両親の愚痴を聞いてくれて、駄目な自分を一緒に蔑んで笑っていたじゃないか。未来に不安はあるけれど、堺なら一緒に「なんとかなるよ」とその日暮らしを共にしてくれると思っていたのに。
「なんだよ。いきなりいなくなったくせに、突然戻ってきたと思ったら説教かよ。俺だってお前が何考えてんのか分かんないよ」
キッチンの冷蔵庫を開け、半分残っていたパックの牛乳をコップに注がずにそのまま飲んだ。口の端から零れた牛乳の筋を、袖で拭う。いつの間にかベッドを下りていた堺は、俺の背後に立って背中に手を当てた。
「悪かったよ。責めてるわけじゃないんだ。羨ましいんだよ。なんだかんだで愛されてるきみが。俺には心配してくれる人も、叱ってくれる人もいないから。だけど、どう考えても、きみのためには家に帰ったほうがいい。たった一回の挫折で人生台無しにするなよ」
「……」
「母親がね、自殺したんだ」
振り返ると、堺は悲しみと怒りが入り混じったような、悔しそうな顔で下唇を噛んでいた。
「もうずっと心を病んでたから、いつかするんじゃないかって気はしてた。……最低だろ、俺。予感があったのに、向き合いたくなくて逃げてたんだ。神崎と一緒にいる時はそういう暗い気分を忘れられたから、良かったんだ。俺がそうやって逃げてるあいだに母親が死んだ。さすがにちょっと後悔したよね」
そんな重たい話をしながらも、堺は笑ってみせた。
「息子の俺がもうちょっと話し相手になってれば、少しは元気になれたんじゃないかとか、それまで嫌だ嫌だって思ってたのに、死んだ途端に昔のことを思い出すんだ。ああ、そういえば、あんなことしてくれたよな、とか。……後悔してからじゃ、遅いんだよ……」
「なんで、すぐ話してくれなかったの」
「……神崎は優しいから、話を聞こうとしてくれるだろ。……絶対甘えるからさ。こういう時こそ何も考えないでヤることしか頭にない男といたほうが、気が紛れるんじゃないかと思って……」
堺の声は震えていて、泣きそうなのを必死で堪えていた。眉間を寄せて目をじんわり赤くさせて、それでも無理やり平気なふりをしようとする。
「我慢する必要があるのかよ」
「だって神崎を頼ったら、たぶん、……好きになるから……そんなのは迷惑だろ……」
堺はようやく涙を落とした。ポロポロと大粒の雫を落としながら泣いた。
学校ではクールで不愛想だと思っていた奴が、屈託なく笑ったり、こんなふうに顔をぐちゃぐちゃにして泣いている姿なんて、きっと俺しか知らない。なんでもできて非の打ちどころがなくて、愛に無頓着だと気丈に振る舞っているけれど、本当は寂しくて孤独で、誰かに愛されたくて仕方ないのだろう。
その夜、俺と堺は同じ布団で寄り添って寝た。親が子どもに添い寝をするような子どもっぽいものだ。ふいに我に返って「なにをやってるんだろう」と気恥ずかしくなるのだけど、「こんなふうに誰かと寝ると安心するよ」と言われては拒めない。
「抱いてくれる男はいるけど、中には暴力的な奴もいて、痛い思いをすることも多かったからさ」
「その中に好きな奴はいないの? その、彼氏って呼べるやつ」
「……いない。なんでだろうね。優しくしてくれる奴は大抵下心があるからね。神崎はそういうのナシで一緒にいて居心地いいから好きなんだ」
「えっ?」
「ああ、好きって、友達として好きってことだよ。……でもあんまり一緒にいると本当に好きになるかもしれないから……それは困る……」
「困るって、なんで?」
「神崎が男に興味ないの分かってるし……きみに手を出したりしないから……安心して……」
堺はそう言って、静かに眠りに落ちた。ほどなくして寝息が間近に聞こえた。顎の下あたりを堺の猫っ毛がくすぐる。体をずらして堺の顔を真っ向から見つめた。白い頬に長い睫毛。赤い唇は少しだけ開いている。すっかり安心しきっているような寝顔だ。俺と一緒にいることで安心してくれたのなら、それはやっぱり嬉しいことだ。こんな俺でも少しは人の役に立てたのだと思える。
なんだか急に愛おしくなって堺の頭を腕の中に抱き入れた。
切ないような悲しいような、嬉しいような、はっきりしない。
もし堺が本当に俺を好きだと言ってきたら……俺はやっぱり応えられないだろう。堺のことは好きだけど、性的な対象で見られるかと聞かれたら、おそらくできない。
だけど、今、堺を抱き締めながら抱いているのは友情じゃない。家族愛に似た純粋な愛情と友情と、そのあいだにある異質で邪な感情だ。その正体が分からないから切ない。
すぐ傍にある堺の唇。あの見惚れるほど綺麗だったキスをされたら、分からない感情がはっきりするのだろうか。俺はゆっくり顔を近付けて、堺の唇を捉えた。なんの味もしない、ただ柔らかいだけ。起きないのをいいことに何度か合わせてみたけれど、複雑な気持ちはいっそう複雑になって結局分からないままだった。
―――
翌朝、俺がバイトに出るのと同じ時間に堺は部屋を出た。どこか靄が晴れたようなすっきりした顔で、爽やかな初夏の空に向かって背伸びをする。
「あー、もうすぐ梅雨が来て、梅雨が明けたら夏だな!」
「けっこう先だけどな」
「夏になっても秋になっても、神崎といたかったなぁ」
「……え? いるだろ?」
「うーん……うん、いるかもね」
「なんだよ、はっきり言えよ」
「まだ家、片付いてないしさ。とりあえず片付けてくるよ。神崎も、いい加減実家に戻れよ。自分でもどうしたらいいのか本当は分かってるんだろ」
またね、と言って堺は手を振ったが、俺は堺はもう二度と俺の前には現れない気がした。なんて声を掛ければいいのか分からない。別れたくないけれど、これ以上一緒にいるのもお互いのためにならないと思った。俺は何も気付いていない振りをして、「いつでも来いよ」と手を振り返した。最後に堺は、
「気まぐれでも嬉しかったよ」
と、残して、背を向けた。まだ不安定な道のりを、それでもしっかりとした足取りで去っていく。あいつは一度も振り返らなかった。
***
「先生、ありがとうございました」
「お大事に」
盲腸で入院していた患者が、元気になって退院するのを見送った。
あれから七年、結局俺はあのあと実家に戻って、父親に頭を下げた。当時は悔しくて不満だらけだったけど、今となってはそれで正解だったんだと思う。遅れを取り戻すために予備校へ通い、死に物狂いで勉強をして、志望校ではないけれど、なんとか医学部へ入れた。今は卒業して総合病院の外科で研修医をしている。
堺はあの日から音信不通、ただの一度も姿を見せなかった。でも不思議と悲しくはない。寂しさはあるが、あいつはあいつなりに何かを見つけて、あるいは見つけるために、どこかへ行ったのだろう。ズルズルとお互いを甘やかすだけだったら、俺もあいつも今でも地に足のつかない人生を送っていたかもしれない。一緒に過ごした時間は僅かだったけど、今の自分があるのは堺のおかげだと思っている。コンビニの前で堺に話しかけた時から、もしかしたら、深夜にあいつのキスを目撃した時から、あいつは俺の中で唯一無二の存在だった。
もし、あのまま一緒にいたら、俺は堺を好きになっていただろうか。堺と過ごした最後の夜に抱いた複雑な気持ちの正体はまだ分からない。
友達とも言えない、恋人でもない、むろん家族でもない。俺とあいつはどういう関係だったのか、今でも時々考える。
病棟の廊下の窓から中庭を見つめていた。車椅子に乗って散歩をしている患者、見舞いに来た家族……。木陰から現れた人影に目が付いた。眩しいほどの茶色の猫っ毛。脳裏に蘇った面影と重ねて、衝動的に中庭に向かって走った。階段を駆け下りて、ロビーを駆け抜け、姿勢よく歩くその後姿を追い掛けた。
「堺!」
腕を掴んで振り向かせる。驚いて俺を見上げたその人の顔を見て、俺は途端に冷静になった。
「……あ……、すみません、……人違い、でした……」
怪訝に睨まれて、無言で去っていく。
――こんなところにいるはずがないのに。
風が吹いて感じる楠の匂いと、初夏の空の下で見送ったあいつの背中を思い出しては、どうか元気でやっているように願った。
水色ほど眩しくなく、紺色ほど苦くない。俺たちはそんな甘酸っぱくて憂鬱な、紺碧の青春の中に、確かにいた。
(了)
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