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岬の決意2

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 翌日から毎日、今田の教室に通い、冬休み中は午前中いっぱい、休み明けは学校帰りに寄って九時近くまで練習に明け暮れた。教室には他の生徒も勿論いるが、今田は時間がないことを理由に岬のレッスンを優先してくれた。今田や他の生徒に申し訳なく、また有難く思いながら、そのためにも泣き言は言わないと決めた。家に帰ってからも自宅のピアノで出来る限りの練習はする。岬の部屋にあるアップライトピアノはヘッドホンが刺せるので、夜中まで弾いても近所迷惑にはならない。下手ながらに大きく鍵盤を描いた画用紙を足元に置き、それを足鍵盤がわりにした。

 自分の演奏より、瞬の演奏を聴いて欲しい。けれど、いくら瞬のピアノが完璧でもオーケストラが不完全では話にならない。瞬の音をより完全な形で聴かせるために自分も完璧に弾かなければならないのだ。

 勉強も学校の授業もどうでもよかった。瞬の音色を広めることだけが、自分の務めであり喜びなのだと、岬は心底思った。

「岬、ちょっとここに座りなさい」

 帰宅したばかりの岬を渋面の母がダイニングテーブルへ呼んだ。夕飯時だが、どう考えてもそんな呑気な呼び出しではないと身構える。テーブルにはまだよそわれていない茶碗と、冷めた焼き魚が置かれてある。岬は鞄を置くと畏まって座った。おもむろに母が岬の前に出したのは、皺だらけの全国模試の成績表だった。以前、鞄の中に丸めてそのままにしておいたものである。

「部屋に落ちてたの。母さん、ちょっとびっくりしたわ。成績下がってきてるなんて、一言も聞いてなかったもの」

 母は溜息をついて、続けた。

「あなた、最近ピアノばかり弾いてるわよね。夜中もずっとカタカタ鍵盤打ってるの、響くから分かるのよ。……まさか、音大に行きたいの?」

「……違う」

「初めは勉強の息抜きだろうと思って、何も言わなかったわ。でも、このところ勉強してる様子が全然ないじゃない。一体、何を考えてるの?」

「……」

「お父さんも、怒ってるでしょうね」

 岬はその言葉に眉をひそめた。

「……父さんは、俺のやりたいようにしろって言った」

「そういう意味じゃないのよ、行きたい大学を選びなさいってことなのよ!」

 声を荒げた母を、岬は煩わしいとしか思えなかった。とにかく早く練習がしたかった。

「母さん、俺は大学には行かない。進学しない」

 岬の「相談」ではなく、はっきりとした「決断」を聞かされて、母は眉間に皺を寄せたまま目を見開いた。

「卒業したら、就職する」

「何、言ってるの。お父さんがいなくなって金銭面を心配してるの? 大丈夫よ、あなたが大学に行くだけの蓄えはちゃんと……」

「そうじゃない。俺が就職したいと思っただけ」

「成績が下がった言い訳ね? それは逃げよ」

「違う。前から大学に行きたいと思ったことがなかった。目標もない。でも今、やりたいことがはっきりある。だから就職したい」

「……何が、やりたいの?」

 岬はこの固まった気持ちをどう伝えればいいのかと、口をつぐんだ。

「……ピアノ?」

「違う。……面倒を見たい人がいる……」

「……? 付き合ってる子でもいるの? いきなり結婚ってこと?」

「そうじゃない。……昔、今田先生の教室に一緒に通ってた人。小学生の頃、発表会で一緒に連弾した人なんだけど、覚えてないかな」

 母は視線を斜め下に落として暫く考えた。母は瞬を直接知らないが、発表会は観に来ていたので覚えがあれば分かるはずだ。

「父さんの通夜にも来てくれた」と加えたら、母は記憶が一致したようで、「『子守歌』の子?」と、問う。

「そう。その人と最近付き合いがあって、お互いに、必要としてるから……」

 母は頭を抱えて「ちょっと待って」と遮る。

「付き合いがあるって、どういう付き合い? 必要としてるって何? あの子は確か、男の子だったわよね?」

「そうだよ。たぶん、母さんが思ってる通りだよ」

「……岬、あなた熱でもあるんじゃない? それともノイローゼなの?」

「落ち着いてよ。俺はまともだよ」

「どう考えてもまともじゃないわよ。……じゃあ、あの子のために進学しないって言うの?」

 母の声が震えてくる。岬は母のほうが熱を出すんじゃないかと冷静に心配した。

「岬は、その子のことが、好きなの? 友達としてじゃなくて? 憧れじゃなくて?」

「……うん」

「相手が男の子って自覚はあるの? あなたも男の子なのよ」

「それって、関係あるのかな」

 まっすぐ言い放つ岬に、母は言葉を飲み込んだ。

「母さんはどうして父さんと結婚したの? 好きだったからでしょ? 父さんが男だから結婚したわけじゃないでしょ?」

「異性という自覚があった上での恋愛感情よ」

「確かに最初はおかしいかなって思った。でも人として初めて自発的に惹かれた人だから、そんなに嫌悪を抱くことも抱かれるようなことでもないと思う。性別なんて人生の中でさほど重要じゃない」

 母は額に手を当てたまま黙り込んで、脳内整理をしているらしかった。額に当てた手は震えている。

「……その人と、どうなりたいの? 進学を諦めてまでなんの面倒を見るの?」

「どうなりたいっていうか……。その人、ちょっと体調崩してるから、生活で支えになってあげられたらなって。それだけ」

「生活を支えないといけないほど悪いの」

「……」

「お父さんが入院してる頃、大変だったの忘れた? あなたにはさせなかったけど、下のお世話もあれば、精神的な衰えに根気強く付き合うのも大変だったのよ。身内でもそうなのに、他人のことを、子どものあなたができるとでも思うの」

 岬はそこで突然、声を上げた。

「俺は母さんとは違う!」

「違うって、何よ」

「俺は母さんと違って現実逃避しない。ちゃんと瞬と瞬の病気と向き合うって決めた。子どもって単語で終わらせないでくれ。……もう放っておいて」

 席を立った岬を、母は腕を掴んで引き止めた。

「待ちなさい。そのこととピアノを弾くことと、どう関係があるの」

 ここまで話したら店頭コンサートのことも話さなければならないだろう。ただ、どうせ話したところで互いに気が立っているので簡単に賛成されないだろうし、反対されれば強く反発して更に状況が悪化することは想像できた。

「……来週の日曜日、ヤマイに来れば分かる」

「ヤマイって、商店街の? 何があるの?」

「来れば分かる。何があるのかも、瞬がどんな人なのかも、俺がどう思ってるのかも」

 岬はそれだけ言い残して、自室への階段を駆け上がった。母を誘うつもりは一切なかったが、強気で出てしまった以上ますます失敗は許されない。
 岬は部屋に閉じこもると着替えもせずに、すぐにピアノの前に座った。話を詳しく聞くつもりで部屋の前まで追いかけてきた母は、ドアの向こうから鍵盤を打つ音が聞こえると、ノブに掛けた手を外した。


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