岬の決意1
岬と瞬が通っていた「今田音楽教室」は、幼児のリトミックから大人の認知症予防のためのレッスンまで、幅広く授業をおこなっている。講師の今田は、音大ではなく地元短大の音楽科を卒業して、電子オルガンを用いた作曲編曲を中心に活躍している。ヤマイが支援する電子オルガンの指導者協会に所属していて、その世界では名が通っているらしく、コンクールやサウンドフォーラムに積極的に生徒を参加させては数々の賞を受賞させてきた。
けれどもピアノについては基本的な技術を教えられる程度で、殊更力を入れていない。岬や瞬がもし電子オルガンをしていたら間違いなくそういったコンクールに出されて何かしらの賞を取っていたかもしれないが、結局、瞬は勿論、岬もピアノ一筋でやってきたので今田がそんな実力者であることは、つい最近まで知らなかった。
「なんか、いっつも楽しそうで教室もゆるーい感じだったから、そんなすごい人とは思わなかったな、あのオバサン」
と、笑いながら言う瞬に、岬は激しく同意した。
さっそく教室に連絡をして短期レッスンを頼んだら、電話口の今田は変わらぬ明るい声で引き受けてくれた。ついでに「無謀ではあるが」と前置きをして店頭コンサートに出たいと申し出たら、すんなり許可が出てしまった。ただ、本当に出るとしたら時間がないので、自宅のピアノである程度練習をしてから来いと言われ、大晦日と三箇日は部屋に引きこもってピアノを弾き、四日に瞬と一緒に今田音楽教室を訪ねることになっている。
―――
「やっだー! すっかり男前になっちゃって! んもぉ、久しぶりじゃないのよ!」
そのあと「瞬くん」と続いて、岬は密かに肩を崩した。
それはそうかとも納得する。瞬は教室に通っていた頃より、上背も伸びて二十歳にしては大人びた雰囲気を醸し出している。もともと人目を惹く容姿でもあり、四年前に突然姿を消した瞬と再会した今田が、岬より瞬を手厚く歓迎するのは当然と言えば当然だ。もっとも、中年女性に歓迎されて嬉しいかどうかはまた別の話である。
瞬は四年前に電話一本だけで碌な挨拶もなく退室したことを気にしていたが、今田はそんなことを責める様子もなく、ただ瞬との再会を喜んだ。
「ところで、急にエレクトーンをしたいだなんて、どうしたの? しかも店頭コンサートに出たいですって?」
「えぇっと……」
「昔、岬がエレクトーンをしたいって駄々をこねてたじゃないですか。岬が大学生になる前に、あの時の願望を一気に叶えてやろうと思っただけです。僕も一度、店頭コンサートに出てみたいと思ってたので」
まるで岬の我儘に付き合っているとでもいうような理由には異論があるが、ここは黙って瞬に従っておく。
「そういえば岬くん、大学生になったらなかなか弾けなくなるかもしれないわね。県外の大学に行くの?」
「いや……、はっきりとは、決めてなくて」
「そうなの。瞬くんは? いつ戻ってきたの? 大学生?」
「去年、戻ってきたんです。事務仕事してます」
「働いてるの、すごいわね。だけど、てっきり瞬くんは音楽関係に就くのかと思ってたわ。すっごくピアノ上手だし、ピアノが大好きだったでしょう」
視線を落として「趣味ですから」と受け流す瞬がどこか寂しい。病気のことはあくまで話さないつもりらしかった。今田はさっそく本題に入る。
「で、いきなり高度な曲をするのね。グリーグのピアノコンチェルト?」
「やっぱり無謀ですよね」
岬は瞬の体のためにも無謀だと止められることを期待したが、今田はことごとく岬の期待を裏切ってくれる。
「大丈夫よぉ、岬くんならエレクトーンもすぐ弾けるわよ。さっそくレジストダウンロードしてるのよ。楽譜も見たけど、二週間もあれば弾けるようになると思うわ」
聴いてみる? と聞かれて、ダウンロードしたという楽曲データを流してもらった。本物のオーケストラの足元には及ばないが、それでも楽器ごとが限りなく近い音で再現されていて、最近の電子オルガンの性能の良さには驚いた。これをピアノと合わせて弾きこなせたら格好いいはずだ。
「……っていうか、これをそのまま流して瞬がピアノ弾いたら早くない?」
「弾き手のないエレクトーンと合わせろって? 面白くねぇ」
「そうよ、大体、岬くんがエレクトーンしたいって言ったんでしょう」
「いや、なんか違う……」
練習の成果を見せてと言われ、岬は今田と瞬に見張られながらひと通り弾いてみたが、やはり練習不足で最悪な出来だった。
「うん……、大丈夫、練習すれば弾けるわ」
なんの慰めにもならない言葉である。
「どうする、足鍵盤。難しいなら足鍵盤だけでも音源入れられるけど。右ペダルで強弱入れないといけないし、両手両足をいきなり駆使するのは大変でしょう」
いっそ全部音源を入れて自分は座っているだけでも、と思った。けれど、それでは瞬が納得しないし、できれば岬も自分で弾いて瞬と合わせてみたかった。
「足は、どっちでもいいぜ。岬がやりやすいようにすればいいと思う」
「……いえ、全部自分で弾きます。休み中、毎日来てもいいですか」
「あら~、やる気ねぇ! 午前中は時間あるから、いつでも来なさい。ところで、瞬くんはもう弾けるの?」
「一応。オケの楽譜、岬の技量に合わせて音足せそうなところ、足してもらえませんか」
「えっ!? このままでも不安なのに」
「うるさいな、どうせならお前も死ぬ気でやれよ」
やっぱり昔、あのまま電子オルガンに移行しておけば良かったと、今更ながら後悔する。不安と困惑しかない岬の心情など露知らず、
「編曲は任せて! リハーサルもしないといけないしね! ああ~、楽しみ~!」
と、誰よりも今田が張り切っているのである。
およそ二時間ほど雑談を含めたレッスンをして、帰路に着いたのは時計の針が午後八時を過ぎた頃だった。外灯のない暗くて物騒な道を瞬と並んで歩く。昔、レッスン終わりにこうして一緒に帰ったことを懐かしく思っていた時、瞬がまったく同じことを口にした。
「懐かしいな。昔もいつも一緒に帰ったよな」
「覚えてるんだね」
「お前は忘れたのか」
「覚えてるよ。ちょうど同じことを考えてた」
「今田先生、変わってなかったな。ずっと一緒にいるとハイテンションに付き合うのが疲れてくるけど」
「先生は瞬がお気に入りなんだよ、昔から」
「昔は猫かぶってたから」
笑って言う瞬に、岬は以前から抱いていた疑問をこのタイミングで投げた。
「なんで猫かぶってたの? どっちが本性なの」
「勿論、今」
「……」
「良い子でいなくちゃ、って思ってたんだよ。昔は。特に父親のことを知ってから、母には迷惑かけちゃいけないって。結果的に、迷惑かけ通しだったけど」
「そんなこと……ない……」
「言いたいこともやりたいことも我慢して、本心を誤魔化して良い子でいることが親孝行だと思ってた。だけど俺のやること全部、裏目に出る。母が亡くなって、本当に人生どうでもよかった。病院に通うのも面倒でね。薬もちゃんと飲まない日が続いた」
「もしかして、髪を染めたのってその頃?」
髪を染めた理由を聞いた時、「何もかもやってられなくなった時があった」と言っていたのを覚えている。瞬は含み笑いをしながら頷いた。
「当然、体の調子は悪くなって入院してさ。そしたら父親がいきなり現れて、帰ってこいって。ふざけんなって思ったけど、情けない話、救急車で運ばれてる時、やっぱりまだ死にたくないなって思ったんだよね。父親の世話にはなりたくなかったけど、こっちに戻りたい理由もちゃんとあった」
「理由って?」
「岬の近くにいること」
「……」
「お前とこうしてまた一緒にいることを望んじゃいけないとは思ったけど、せめて同じ街で、同じ道を歩いて、同じ店に行って、同じ空気を吸ってるって思うだけで満足するような気がしたんだ」
これ以上聞いたらまずいと思い、岬は俯いて黙り込んだ。少しずつ瞬と歩幅がずれる。瞬はそんな岬に追い打ちをかけた。
「あとさ、昔は猫かぶってたけど、岬にしたことも好きだって言ったことも、それだけは嘘じゃない」
まともな返事ができずに、ひとり先に歩いていく瞬の背中をゆっくり追った。横断歩道前で立ち止まった瞬が振り返って、声を掛けた。
「赤になるだろ。早く歩けよ、泣き虫」
⇒
けれどもピアノについては基本的な技術を教えられる程度で、殊更力を入れていない。岬や瞬がもし電子オルガンをしていたら間違いなくそういったコンクールに出されて何かしらの賞を取っていたかもしれないが、結局、瞬は勿論、岬もピアノ一筋でやってきたので今田がそんな実力者であることは、つい最近まで知らなかった。
「なんか、いっつも楽しそうで教室もゆるーい感じだったから、そんなすごい人とは思わなかったな、あのオバサン」
と、笑いながら言う瞬に、岬は激しく同意した。
さっそく教室に連絡をして短期レッスンを頼んだら、電話口の今田は変わらぬ明るい声で引き受けてくれた。ついでに「無謀ではあるが」と前置きをして店頭コンサートに出たいと申し出たら、すんなり許可が出てしまった。ただ、本当に出るとしたら時間がないので、自宅のピアノである程度練習をしてから来いと言われ、大晦日と三箇日は部屋に引きこもってピアノを弾き、四日に瞬と一緒に今田音楽教室を訪ねることになっている。
―――
「やっだー! すっかり男前になっちゃって! んもぉ、久しぶりじゃないのよ!」
そのあと「瞬くん」と続いて、岬は密かに肩を崩した。
それはそうかとも納得する。瞬は教室に通っていた頃より、上背も伸びて二十歳にしては大人びた雰囲気を醸し出している。もともと人目を惹く容姿でもあり、四年前に突然姿を消した瞬と再会した今田が、岬より瞬を手厚く歓迎するのは当然と言えば当然だ。もっとも、中年女性に歓迎されて嬉しいかどうかはまた別の話である。
瞬は四年前に電話一本だけで碌な挨拶もなく退室したことを気にしていたが、今田はそんなことを責める様子もなく、ただ瞬との再会を喜んだ。
「ところで、急にエレクトーンをしたいだなんて、どうしたの? しかも店頭コンサートに出たいですって?」
「えぇっと……」
「昔、岬がエレクトーンをしたいって駄々をこねてたじゃないですか。岬が大学生になる前に、あの時の願望を一気に叶えてやろうと思っただけです。僕も一度、店頭コンサートに出てみたいと思ってたので」
まるで岬の我儘に付き合っているとでもいうような理由には異論があるが、ここは黙って瞬に従っておく。
「そういえば岬くん、大学生になったらなかなか弾けなくなるかもしれないわね。県外の大学に行くの?」
「いや……、はっきりとは、決めてなくて」
「そうなの。瞬くんは? いつ戻ってきたの? 大学生?」
「去年、戻ってきたんです。事務仕事してます」
「働いてるの、すごいわね。だけど、てっきり瞬くんは音楽関係に就くのかと思ってたわ。すっごくピアノ上手だし、ピアノが大好きだったでしょう」
視線を落として「趣味ですから」と受け流す瞬がどこか寂しい。病気のことはあくまで話さないつもりらしかった。今田はさっそく本題に入る。
「で、いきなり高度な曲をするのね。グリーグのピアノコンチェルト?」
「やっぱり無謀ですよね」
岬は瞬の体のためにも無謀だと止められることを期待したが、今田はことごとく岬の期待を裏切ってくれる。
「大丈夫よぉ、岬くんならエレクトーンもすぐ弾けるわよ。さっそくレジストダウンロードしてるのよ。楽譜も見たけど、二週間もあれば弾けるようになると思うわ」
聴いてみる? と聞かれて、ダウンロードしたという楽曲データを流してもらった。本物のオーケストラの足元には及ばないが、それでも楽器ごとが限りなく近い音で再現されていて、最近の電子オルガンの性能の良さには驚いた。これをピアノと合わせて弾きこなせたら格好いいはずだ。
「……っていうか、これをそのまま流して瞬がピアノ弾いたら早くない?」
「弾き手のないエレクトーンと合わせろって? 面白くねぇ」
「そうよ、大体、岬くんがエレクトーンしたいって言ったんでしょう」
「いや、なんか違う……」
練習の成果を見せてと言われ、岬は今田と瞬に見張られながらひと通り弾いてみたが、やはり練習不足で最悪な出来だった。
「うん……、大丈夫、練習すれば弾けるわ」
なんの慰めにもならない言葉である。
「どうする、足鍵盤。難しいなら足鍵盤だけでも音源入れられるけど。右ペダルで強弱入れないといけないし、両手両足をいきなり駆使するのは大変でしょう」
いっそ全部音源を入れて自分は座っているだけでも、と思った。けれど、それでは瞬が納得しないし、できれば岬も自分で弾いて瞬と合わせてみたかった。
「足は、どっちでもいいぜ。岬がやりやすいようにすればいいと思う」
「……いえ、全部自分で弾きます。休み中、毎日来てもいいですか」
「あら~、やる気ねぇ! 午前中は時間あるから、いつでも来なさい。ところで、瞬くんはもう弾けるの?」
「一応。オケの楽譜、岬の技量に合わせて音足せそうなところ、足してもらえませんか」
「えっ!? このままでも不安なのに」
「うるさいな、どうせならお前も死ぬ気でやれよ」
やっぱり昔、あのまま電子オルガンに移行しておけば良かったと、今更ながら後悔する。不安と困惑しかない岬の心情など露知らず、
「編曲は任せて! リハーサルもしないといけないしね! ああ~、楽しみ~!」
と、誰よりも今田が張り切っているのである。
およそ二時間ほど雑談を含めたレッスンをして、帰路に着いたのは時計の針が午後八時を過ぎた頃だった。外灯のない暗くて物騒な道を瞬と並んで歩く。昔、レッスン終わりにこうして一緒に帰ったことを懐かしく思っていた時、瞬がまったく同じことを口にした。
「懐かしいな。昔もいつも一緒に帰ったよな」
「覚えてるんだね」
「お前は忘れたのか」
「覚えてるよ。ちょうど同じことを考えてた」
「今田先生、変わってなかったな。ずっと一緒にいるとハイテンションに付き合うのが疲れてくるけど」
「先生は瞬がお気に入りなんだよ、昔から」
「昔は猫かぶってたから」
笑って言う瞬に、岬は以前から抱いていた疑問をこのタイミングで投げた。
「なんで猫かぶってたの? どっちが本性なの」
「勿論、今」
「……」
「良い子でいなくちゃ、って思ってたんだよ。昔は。特に父親のことを知ってから、母には迷惑かけちゃいけないって。結果的に、迷惑かけ通しだったけど」
「そんなこと……ない……」
「言いたいこともやりたいことも我慢して、本心を誤魔化して良い子でいることが親孝行だと思ってた。だけど俺のやること全部、裏目に出る。母が亡くなって、本当に人生どうでもよかった。病院に通うのも面倒でね。薬もちゃんと飲まない日が続いた」
「もしかして、髪を染めたのってその頃?」
髪を染めた理由を聞いた時、「何もかもやってられなくなった時があった」と言っていたのを覚えている。瞬は含み笑いをしながら頷いた。
「当然、体の調子は悪くなって入院してさ。そしたら父親がいきなり現れて、帰ってこいって。ふざけんなって思ったけど、情けない話、救急車で運ばれてる時、やっぱりまだ死にたくないなって思ったんだよね。父親の世話にはなりたくなかったけど、こっちに戻りたい理由もちゃんとあった」
「理由って?」
「岬の近くにいること」
「……」
「お前とこうしてまた一緒にいることを望んじゃいけないとは思ったけど、せめて同じ街で、同じ道を歩いて、同じ店に行って、同じ空気を吸ってるって思うだけで満足するような気がしたんだ」
これ以上聞いたらまずいと思い、岬は俯いて黙り込んだ。少しずつ瞬と歩幅がずれる。瞬はそんな岬に追い打ちをかけた。
「あとさ、昔は猫かぶってたけど、岬にしたことも好きだって言ったことも、それだけは嘘じゃない」
まともな返事ができずに、ひとり先に歩いていく瞬の背中をゆっくり追った。横断歩道前で立ち止まった瞬が振り返って、声を掛けた。
「赤になるだろ。早く歩けよ、泣き虫」
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