瞬の挑戦2
岬がシャワーを終えてリビングに戻ると、懐かしい曲が聴こえた。瞬がフォーレの作品だけを収録しているCDを掛けている。ちょうど流れていたのはドリー組曲の『子守歌』だった。ピアノに限らず、音楽は弾き手によって同じ曲でも雰囲気が変わる。岬の記憶の中の『子守歌』はもっとゆったりとしたテンポで弾いたような気がするが、今流れているのは急ぎ気味に思えた。
「懐かしいな、弾きたいな」
「覚えてんのかよ、譜面」
「こう見えて、記憶力はいいんだ」
弾いてみるか、と聞かれ、岬は期待と不安の微笑を浮かべてピアノの前に座る。
「もうちょっと端に寄れよ。俺が座れないじゃないか」
「他に椅子ないの」
「ねぇよ」
一応、長椅子ではあるが、男が二人で座るには幅が足らなすぎる。岬は思わず噴き出した。
「なんで笑うんだよ」
「だって、大の男が二人で同じ椅子に座って連弾するとか、なんか怖くない?」
それを聞いた瞬も呆れたように笑う。
「確かに、不気味だな。やっぱりやめよう」
「椅子、買っといてよ」
「買わねぇよ、面倒くさい」
「でも、ちょっとホッとしたかも。実は全部弾ける自信なかった。また瞬に七十五点とか言われるところだったよ」
「あれだけ練習したドリーを、一小節でも忘れてたら0点だよ」
瞬はCDを止めて岬を椅子から退かせたあと、思い出したようにピアノを弾きだした。フォーレ作曲の管弦楽曲をピアノ編曲したものである。岬は背後からその指使いと音色に見惚れながら訊ねた。
「『パヴァーヌ』って、どういう意味?」
「フランスの宮廷舞踊だって。十六世紀にヨーロッパで流行ったらしい」
「フォーレの曲って眠たくなる」
岬は瞬の音色に耳を傾けながらソファに横になった。
「フォーレを所詮、サロン音楽家って馬鹿にした奴らも、同じこと言ってたんだろうな。でも、ドビュッシーの『パスピエ』はフォーレの『パヴァーヌ』の影響を受けてるんだぜ。ラヴェルだって、フォーレがいなけりゃ成り立たなかった。お前の好きなプーランクは、フォーレを嫌ってたらしいけど」
「別に、特別プーランクが好きなわけではないんだけど、……なんで嫌ってたの?」
「生理的に受け付けないらしい。ダサいとか思ってたんじゃない? プーランクは生粋の都会っ子だったみたいだし」
「俺はフォーレ好きだよ。こんなに眠たくなる曲、他にないよ」
眠りに落ちる準備をする岬を、瞬は楽譜で顔面を叩いて阻止した。
「勉強しなくていいのか」
「ああ……うん……。冬休みは勉強しないことにしたんだ」
「世の中の受験生が聞いたら顰蹙もんだな、優等生」
「優等生じゃない、全然……」
はぁ、と溜息をつきながら呟く台詞は謙遜などではなく、むしろ思い悩んでいるような、けれど顔つきには彼なりの決意のようなものが感じられた。瞬はあえてそこには触れなかった。無理に聞き出すものではなく、岬が自ら話してくれなければ意味がないと考えたからだ。
「……なら、休み中は時間あるのか?」
「え? まあ、そうだね」
瞬は先ほど岬の顔を叩いた楽譜を改めて手渡した。岬は受け取った楽譜にひと通り目を通す。
「グリーグのピアノ協奏曲?」
「お前のパートは、オーケストラな」
「はっ?」
題名を今一度、目を凝らして見る。ピアノと電子オルガンのデュエット用に音楽会社が作成した楽譜である。
「え……俺のパートってどういうこと? ていうか、エレクトーン結局弾いたことないし」
「岬がオーケストラ、俺がピアノで、連弾。エレクトーンは今田先生に教えてもらえ」
「今田先生に!?」
「教室が家の近所なんだろ? 連絡して冬休み、みっちり稽古つけてもらえ」
「いやいや、無理無理。いきなりこんなの無理」
「岬なら弾ける」
「……」
真剣な眼差しで言われ、言葉を飲み込んだ。昔の瞬ならともかく、今の瞬が岬に世辞を言うとは思えない。
「だけど……なんのために」
「毎月、ヤマイの本店で店頭コンサートしてるんだ。そこに所属してる各講師の生徒が、エレクトーンやピアノのコンクールで入賞した曲をお披露目するんだよ。競争させる意味でも」
「知らなかった。毎月してるの」
「ほぼ、毎月。次は来月の十五日。子どもから大人まで出てる。このあいだ、ヤマイの前を通った時に知ったんだ」
岬の嫌な予感は、次の台詞で当たった。
「その店頭コンサートで、俺らが弾く」
「いや、無理だろ」
「即答すんな」
ヤマイというのは地元では一番、規模の大きな音楽会社直営店である。県内のコンクールや発表会などは大抵、その店のホールで行われる。ホールは店の奥にあって、イベント時以外は誰も入らないし、イベントがあっても関係者以外の一般人が入ることはあまりない。
店頭コンサートは名前の通り店頭で行われる。つまり、関係者もただの通りすがりの人間も、誰でも見られるということだ。しかも、ヤマイは商店街の一番人通りの多いアーケード内に構えてあるので、店頭で演奏でもしようものなら街中の注目を浴びることになる。
もともと岬は人前に立つことが苦手だ。イベントを乗っ取ってまで披露する腕前じゃないことも自覚している。想像するだけで緊張して参りそうなのに、そんなプレッシャーを瞬にますます掛けられない。
「だからこそ、弾くんだよ」
「何、言ってるんだよ。瞬がどれだけ舞台慣れしてるか知らないけど、それでもけっこうなストレスだよ」
「これが本当の肝試し」
笑って言う瞬を、岬は睨み付けた。
「そんな肝試しは賛成できない」
「賛成してくれよ。岬に協力してほしい」
「駄目だ」
「頼むよ」
「駄目ったら、駄目」
「諦めるなって言ったのは、お前だぜ」
「……」
心臓病を理由に夢を諦めたと言った瞬に、諦めるなと確かに言った。瞬のピアノをみんなに聴いてもらいたい。それは今でも変わらない。けれど、コンクールならまだしも、たかが商店街の店頭コンサートで、命がけで演奏するのはいただけない。
「体の調子は良いんだ。今、やらないと後悔する」
「だけど、たかが店頭コンサート……」
「されど店頭コンサート。むしろそんな小さい舞台で参るような心臓じゃ、とてもプロなんてなれないと思わないか」
「プロ……」
瞬は岬の隣に座るとおもむろに腰を抱き、耳の淵を舌でなぞる。
「んっ……」
「頼むよ、岬」
「ず……ずるい……、それは……っ」
今度は首筋を沿う。ついさっき抱き合ったばかりなのに、早くも下半身が疼いた。
「そ、んなことしても、駄目……」
「……岬、今回だけ。お願いだから」
スウェットパンツ越しに僅かに反応している岬自身を撫でてくる。岬は堪え切れずに了承してしまった。途端に、体を離される。
「ありがとう」
「ほんっとに……ずるい」
「大丈夫だよ。無理しないようにするし、たった十分程度の話だからさ」
「……けど、やっぱり心配だし、なにより上手く弾ける自信がない。絶対、足引っ張る」
「だから、このあいだ稽古したんだろ。感情の入れ方が分かったって言ってたじゃないか」
このための練習だったのか、と、瞬の考えは岬の考えより遠い次元にあることに、開いた口が塞がらない。
「自信持てよ。お前は自分が思ってるよりずっと上手い。じゃなきゃ、俺だって頼まないよ」
ギクリとした。これまで瞬という存在が大きすぎて周囲からは勿論、自分ですら自分の演奏を前向きに評価したことがなかった。石礫と原石のようなもので、いくら磨いても石ころが宝石より輝くことはなく、岬が瞬を超えることはできないという卑屈が常にあり、残念ながらそれは真実だ。けれど、本当は、岬はピアノが好きだ。プロになりたいとは思わないが、それでもできればピアノは一生弾いていたい。好きだという感情すら誤魔化してしまうほどの劣等感に、誰か気付いて欲しかった。まさかその蟠りを瞬が晴らしてくれるとは思わなかった。
「……でも、その時の体調次第では辞めさせるからな。あと、演奏中でも辛そうなら途中でも終わらせるから」
「それでもいい。ありがとう、好きだよ」
「調子いいな」
「それ、きついだろう。なんとかしてやるよ」
膝を立てて隠していたのがバレたらしい。すっかりその気になったものがようやく落ち着いてきたのに、下着の中に滑り込んできた瞬に触れられて、また起き上がろうとしている。
「も……馬鹿……」
「それは俺に言ってるのか、自分に言ってるのか」
瞬の舌で優しく愛され、脳みそが麻痺するような感覚に襲われながら「どっちにもだよ」と、口にしたかしてないかは定かではない。
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「懐かしいな、弾きたいな」
「覚えてんのかよ、譜面」
「こう見えて、記憶力はいいんだ」
弾いてみるか、と聞かれ、岬は期待と不安の微笑を浮かべてピアノの前に座る。
「もうちょっと端に寄れよ。俺が座れないじゃないか」
「他に椅子ないの」
「ねぇよ」
一応、長椅子ではあるが、男が二人で座るには幅が足らなすぎる。岬は思わず噴き出した。
「なんで笑うんだよ」
「だって、大の男が二人で同じ椅子に座って連弾するとか、なんか怖くない?」
それを聞いた瞬も呆れたように笑う。
「確かに、不気味だな。やっぱりやめよう」
「椅子、買っといてよ」
「買わねぇよ、面倒くさい」
「でも、ちょっとホッとしたかも。実は全部弾ける自信なかった。また瞬に七十五点とか言われるところだったよ」
「あれだけ練習したドリーを、一小節でも忘れてたら0点だよ」
瞬はCDを止めて岬を椅子から退かせたあと、思い出したようにピアノを弾きだした。フォーレ作曲の管弦楽曲をピアノ編曲したものである。岬は背後からその指使いと音色に見惚れながら訊ねた。
「『パヴァーヌ』って、どういう意味?」
「フランスの宮廷舞踊だって。十六世紀にヨーロッパで流行ったらしい」
「フォーレの曲って眠たくなる」
岬は瞬の音色に耳を傾けながらソファに横になった。
「フォーレを所詮、サロン音楽家って馬鹿にした奴らも、同じこと言ってたんだろうな。でも、ドビュッシーの『パスピエ』はフォーレの『パヴァーヌ』の影響を受けてるんだぜ。ラヴェルだって、フォーレがいなけりゃ成り立たなかった。お前の好きなプーランクは、フォーレを嫌ってたらしいけど」
「別に、特別プーランクが好きなわけではないんだけど、……なんで嫌ってたの?」
「生理的に受け付けないらしい。ダサいとか思ってたんじゃない? プーランクは生粋の都会っ子だったみたいだし」
「俺はフォーレ好きだよ。こんなに眠たくなる曲、他にないよ」
眠りに落ちる準備をする岬を、瞬は楽譜で顔面を叩いて阻止した。
「勉強しなくていいのか」
「ああ……うん……。冬休みは勉強しないことにしたんだ」
「世の中の受験生が聞いたら顰蹙もんだな、優等生」
「優等生じゃない、全然……」
はぁ、と溜息をつきながら呟く台詞は謙遜などではなく、むしろ思い悩んでいるような、けれど顔つきには彼なりの決意のようなものが感じられた。瞬はあえてそこには触れなかった。無理に聞き出すものではなく、岬が自ら話してくれなければ意味がないと考えたからだ。
「……なら、休み中は時間あるのか?」
「え? まあ、そうだね」
瞬は先ほど岬の顔を叩いた楽譜を改めて手渡した。岬は受け取った楽譜にひと通り目を通す。
「グリーグのピアノ協奏曲?」
「お前のパートは、オーケストラな」
「はっ?」
題名を今一度、目を凝らして見る。ピアノと電子オルガンのデュエット用に音楽会社が作成した楽譜である。
「え……俺のパートってどういうこと? ていうか、エレクトーン結局弾いたことないし」
「岬がオーケストラ、俺がピアノで、連弾。エレクトーンは今田先生に教えてもらえ」
「今田先生に!?」
「教室が家の近所なんだろ? 連絡して冬休み、みっちり稽古つけてもらえ」
「いやいや、無理無理。いきなりこんなの無理」
「岬なら弾ける」
「……」
真剣な眼差しで言われ、言葉を飲み込んだ。昔の瞬ならともかく、今の瞬が岬に世辞を言うとは思えない。
「だけど……なんのために」
「毎月、ヤマイの本店で店頭コンサートしてるんだ。そこに所属してる各講師の生徒が、エレクトーンやピアノのコンクールで入賞した曲をお披露目するんだよ。競争させる意味でも」
「知らなかった。毎月してるの」
「ほぼ、毎月。次は来月の十五日。子どもから大人まで出てる。このあいだ、ヤマイの前を通った時に知ったんだ」
岬の嫌な予感は、次の台詞で当たった。
「その店頭コンサートで、俺らが弾く」
「いや、無理だろ」
「即答すんな」
ヤマイというのは地元では一番、規模の大きな音楽会社直営店である。県内のコンクールや発表会などは大抵、その店のホールで行われる。ホールは店の奥にあって、イベント時以外は誰も入らないし、イベントがあっても関係者以外の一般人が入ることはあまりない。
店頭コンサートは名前の通り店頭で行われる。つまり、関係者もただの通りすがりの人間も、誰でも見られるということだ。しかも、ヤマイは商店街の一番人通りの多いアーケード内に構えてあるので、店頭で演奏でもしようものなら街中の注目を浴びることになる。
もともと岬は人前に立つことが苦手だ。イベントを乗っ取ってまで披露する腕前じゃないことも自覚している。想像するだけで緊張して参りそうなのに、そんなプレッシャーを瞬にますます掛けられない。
「だからこそ、弾くんだよ」
「何、言ってるんだよ。瞬がどれだけ舞台慣れしてるか知らないけど、それでもけっこうなストレスだよ」
「これが本当の肝試し」
笑って言う瞬を、岬は睨み付けた。
「そんな肝試しは賛成できない」
「賛成してくれよ。岬に協力してほしい」
「駄目だ」
「頼むよ」
「駄目ったら、駄目」
「諦めるなって言ったのは、お前だぜ」
「……」
心臓病を理由に夢を諦めたと言った瞬に、諦めるなと確かに言った。瞬のピアノをみんなに聴いてもらいたい。それは今でも変わらない。けれど、コンクールならまだしも、たかが商店街の店頭コンサートで、命がけで演奏するのはいただけない。
「体の調子は良いんだ。今、やらないと後悔する」
「だけど、たかが店頭コンサート……」
「されど店頭コンサート。むしろそんな小さい舞台で参るような心臓じゃ、とてもプロなんてなれないと思わないか」
「プロ……」
瞬は岬の隣に座るとおもむろに腰を抱き、耳の淵を舌でなぞる。
「んっ……」
「頼むよ、岬」
「ず……ずるい……、それは……っ」
今度は首筋を沿う。ついさっき抱き合ったばかりなのに、早くも下半身が疼いた。
「そ、んなことしても、駄目……」
「……岬、今回だけ。お願いだから」
スウェットパンツ越しに僅かに反応している岬自身を撫でてくる。岬は堪え切れずに了承してしまった。途端に、体を離される。
「ありがとう」
「ほんっとに……ずるい」
「大丈夫だよ。無理しないようにするし、たった十分程度の話だからさ」
「……けど、やっぱり心配だし、なにより上手く弾ける自信がない。絶対、足引っ張る」
「だから、このあいだ稽古したんだろ。感情の入れ方が分かったって言ってたじゃないか」
このための練習だったのか、と、瞬の考えは岬の考えより遠い次元にあることに、開いた口が塞がらない。
「自信持てよ。お前は自分が思ってるよりずっと上手い。じゃなきゃ、俺だって頼まないよ」
ギクリとした。これまで瞬という存在が大きすぎて周囲からは勿論、自分ですら自分の演奏を前向きに評価したことがなかった。石礫と原石のようなもので、いくら磨いても石ころが宝石より輝くことはなく、岬が瞬を超えることはできないという卑屈が常にあり、残念ながらそれは真実だ。けれど、本当は、岬はピアノが好きだ。プロになりたいとは思わないが、それでもできればピアノは一生弾いていたい。好きだという感情すら誤魔化してしまうほどの劣等感に、誰か気付いて欲しかった。まさかその蟠りを瞬が晴らしてくれるとは思わなかった。
「……でも、その時の体調次第では辞めさせるからな。あと、演奏中でも辛そうなら途中でも終わらせるから」
「それでもいい。ありがとう、好きだよ」
「調子いいな」
「それ、きついだろう。なんとかしてやるよ」
膝を立てて隠していたのがバレたらしい。すっかりその気になったものがようやく落ち着いてきたのに、下着の中に滑り込んできた瞬に触れられて、また起き上がろうとしている。
「も……馬鹿……」
「それは俺に言ってるのか、自分に言ってるのか」
瞬の舌で優しく愛され、脳みそが麻痺するような感覚に襲われながら「どっちにもだよ」と、口にしたかしてないかは定かではない。
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