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父の死2

 瞬に手を引かれて売店内にあるカフェテリアに連れて行かれた。席で待っていろと促され、窓際にある二人掛けの席でぼんやり待つ。そのあいだに瞬はコーヒーとパンを買って、岬に差し出した。

「食っとけ。お前が体力付けとかないと」

「ありがとう」

「食ったら、病室戻れよ。……付いてってやろうか」

「そうしてくれると助かる……。実はさっき母さんと喧嘩しちゃって」

「なんで」

 喧嘩の理由を言うのは気が引ける。都合良く泣きついておいて理由を話さないのはずるいと思うが、瞬は言わずとも感じ取ったらしく、すぐに話を変えた。

「昨日の『ジュ・トゥ・ヴ』、まあまあだったな」

「……それ、聞こうと思ったんだけど、いつから見てたの?」

「ちょうど会社の昼休みでさ。どんなイベントかちょっと気になって寄ったんだ」

「会社はすぐ近くだから」と付け加えた。

「そしたら、岬が弾いてたから。俺が出ていかないほうが弾けるんじゃないかと思って隠れて見てた」

「……趣味が悪い。大体、七十五点ってなんだよ」

「まあ、マイナス点はミスタッチかな。表現は中々良かったと思うぜ。なんか恥じらってる感じがお前らしくて」

「ちょっとだけだけど、感情を入れるってどういうことか分かった気がする」

「今更だな」

 はは、と笑う。

「瞬、父さんがあの曲好きだって知ってたんだね」

「……」

「昨日、父さんが友達ができたって言ってたんだ。闘病仲間だって。もしかしてそれって瞬のこと?」

「さあね。俺かもしれないし、俺じゃないかもしれない。だけど一度だけ話をしたことがある。その時に、聞いたんだ」

「そうなんだ。友達ができたって言ってた時の父さんが、いい顔してたから、嬉しかったんだろうなと思って。……ありがとう」

「……そろそろ行くか」

 岬がパンを食べ終えた頃に言った。岬は頷いてコーヒーを飲み干すと席を立った。
 瞬に連れられるように病室に戻ると、ちょうど母が出てきた。目が赤い。

「……か、母さん」

「岬、ちょっと代わってくれないかしら。母さん、電話してくるから」

「分かった。……ついでに腹ごしらえしてきなよ。俺はさっき軽く食べたから」

「そうね」

 母が姿を消したあと岬は瞬の手を握り、「一緒に入ってくれないか」と頼んだ。

「それなら悪いけど、ブランケット借りて来てくれないか。今日は冷えるから」

「分かった」

 岬が背を向けると瞬は先に病室に入り、横になっている父の隣に立った。部屋の中が暑いのか、父は額に汗を滲ませている。酸素マスクをしている姿がかえって苦しそうにも見えた。瞼の上から眼球が左右に行ったり来たりしているのが分かる。家族の姿を探しているのだろう。

「……僕です」

 反応はない。瞬は続けた。

「息子さんのピアノはどうでしたか。……上手くなったと思いませんか」

 左手の中指が微かに動く。聞こえているのだと分かり、瞬はそのまま話を続けた。

「お父さん、幸せですね。家族が傍にいてくれるなんて。……やっぱり寂しいですか? きっと今までひとりじゃなかったから、寂しいんですよね」

 父の瞼が震え、目尻を湿らせた。

「ごめんなさい、僕は、……岬くんにこれから色々迷惑をかけると思います。でもそんなに長くはないから、それまで許してくれますか……僕は岬くんを……」

 すると父は腹の上に置かれていた左手を瞬に向かってゆっくりずらした。瞬はその手を握った。冷たくも温かくもない、体温が失われつつある手だった。
 まもなく岬が戻り、瞬は手を離した。

「瞬、寒くない?」

「大丈夫。むしろ、親父さんが暑そうだぜ。汗、かいてる」

「本当だ」

 岬はタオルで軽く額を拭ってやる。瞬はなんだか父が羨ましかった。岬の頼みとはいえ、今、この場に他人である自分がいるべきではないと考えた。

「悪い、一緒にいてやりたいんだけど、もう帰らないと」

「あ、ごめんね。明日仕事だよね。本当、ありがとう。助かったよ」

「できることがあったら、いつでも言えよ」

 瞬が立ち去ったあとは、岬は父の傍から片時も離れなかった。手を握り、時々足をさすりながら話し掛ける。内容は想い出話しかなかった。父はあまり岬を強く𠮟りつけたことがなく、感情的に怒る母を宥めながら、あとでこっそり岬の部屋へ行って諭すというのが父の役目だった。

 小学生の頃、縁側に置いていた金魚鉢を野良猫が狙っているのを見つけて、岬はほうきを振り回しながら猫を追い払ったことがある。金魚は守れたが、代わりにほうきが母の大事にしていたカランコエの植木鉢に当たって割れてしまった。植木鉢を割ったところだけをちょうど見かけた母は、経緯を聞かずに岬を𠮟りつけた。理由を話す暇も与えられずに責められた岬は、その後自室で泣いた。忍び込むように部屋に入ってきた父は、岬の頭を撫でながら言った。 

 ――泣かなくていいんだよ。金魚を守ったんだよな。母さんにはちゃんと自分でちゃんとわけを話しなさい。岬は悪くないよ。だけど鉢植えを割ってしまったことは、謝らないと駄目だからね。――

「……あの時、実は父さんも母さんの鉢植えを割ってたんだよね。ゴルフクラブで素振りをしててさ。俺には謝れって言ってたのに自分は隠そうとしてたよね。ほんと、ひどい話だよ」

 父との記憶はそういったエピソードが多い。泣いたり怒ったりしている岬を宥める父。思い返せば岬の泣き癖は今に始まったことじゃないのだと気付く。
 日が沈み、すっかり夜になったが、父はまだ顎を揺らしている。初めてこの状態を見た時より揺れは小さくなった。いつの間にか戻っていた母も反対側の手を包んだ。先ほどの諍いを忘れたかのように普通に話し掛けてくる。岬は内心戸惑いながらも相槌を打った。

「勉強はちゃんとしてるの?」

「ぼちぼちね……」

「K大が第一志望なんですってね。お父さんから聞いたわ。本当に行きたいの?」

「……」

「やりたいことがあるなら遠慮しないでいいのよ」

「これといって、やりたいことはないんだ。だけど地元に残りたいから」

「なんで地元に残りたいの?」

 真っ先に浮かんだのは瞬のことだった。瞬と少しでも近くにいたい。それだけなのだ。この時点で岬の中では、もはや進学という選択肢はなかった。考えはあるが、今、ここでする話ではない。

 日付が変わり、疲労と睡魔に負けてベッドに頭を伏せていた時だった。母が「起きて」と岬の肩を揺する。父を見ると、口が閉じようとしているのでナースコールを押した。そこで初めて訪れた主治医が、脈を測りながら父の呼吸を確かめる。
 動きが止まりそう、と思った瞬間、父は突然目を大きく見開いた。眼球をぎょろりと動かして岬を見る。岬はただ父が目を開けたことに驚いて、何も声を掛けられずに父の目を瞠った。少しだけ涙が浮かんでいるようにも見える。再び父は目をゆっくり閉じ、同時に顎の揺れが止まった。主治医は聴診器を胸に当てたまま動かず、岬と母はそれを黙って見つめていた。
 やがて立ち上がった主治医がふたりに向き直り、

「よく頑張られたと思います。それでは、ご臨終ということで……」

「ありがとうございました……」

「お父さん、息子さんの顔を見たかったんですかね」

 と、言い残して主治医は去った。
 深夜ということもあり、病室はいつもよりも静寂に包まれる。意外にも父の最期はあっけなかった。その場に茫然と佇む岬と母は、まるで他人事のように「死んじゃったね」と呟きあった。

「和室の掃除しなくちゃいけないから、お母さん、いったん帰るわね」

「和室の?」

「お寺さんに来てもらって枕経を上げてもらうのよ。朝になったらお父さんを連れて帰るから。ひとりで平気? 一緒に帰る?」

 たった今、亡くなったばかりの父を置いてもいけない。岬は病室に残ると言って母を見送った。
 静かでやや不気味な病室で意識のない父と二人きりになる。もっと悲しくて泣くかと思ったが、以前から覚悟はあったのであまり悲しくはない。と、言うより実感がない。横たわる父は眠っているようで、呼び掛けたら目を覚ますんじゃないかとすら思う。ただ、これまで胸の圧迫感に悩んで直前まで苦しそうだったのが嘘のように安らかだ。苦痛から解放されて、もしかしたら父は今、ほっとしているのかもしれない。

 喉が渇いて冷蔵庫を開けると、昨日岬が買ってきたシュークリームが半分だけあった。嘔吐して食欲もなかっただろうに、岬がしつこく食えと言い続けていたからなのか、無理をして食べたのだろう。岬は半分だけ残ったそのシュークリームを見て、そこで涙が出た。声を掛けても届かない父に向かって、よく頑張ったね、と労いながら、岬は父の手を握って眠った。


 ――あら、岬。どうして泣いてるの? 怪我してるのね。――
 
 ――岬と一緒に、自転車の練習をしてたんだよ。坂道でたくさん転んだんだ。――

 ――痛いから泣いてるの? 大丈夫よ、かすり傷なんだから。――

 ――いや、違うんだよ。自転車が乗れるようになったからだよな。――

 ――乗れるようになったのに、泣いてるの?――

 ――嬉し涙を流せるなんていいことだよ。そう思わないか?――



 顔も名前も知らない人間たちが、次々に現れては母と岬に頭を下げていく。通夜に訪れたのは、父の仕事関係の人間がほとんどだった。岬にとってはわりとどうでもいい間柄なので、お決まりのように同じ喪服を着て、無難に焼香を上げて帰っていく様子に、あまり有難みを感じなかった。

 そんな中でひときわ目立つ人間が颯爽と現れた。ダークグレーのパンツに黒のジャケットを羽織っただけの、狐色の髪を持った青年である。瞬だった。ぎりぎり非常識と取られない程度のカジュアルな格好で、堂々と焼香をあげる姿は靦然として見えるが、手を合わせている時間は誰よりも長く、また誰よりも厚意を感じられた。瞬は母に頭を下げ、岬にはちらりと視線を寄越しただけで、早々に去った。

 葬儀まですべて終えて、ようやくひと息付けるかと思いきや、父は生前に身辺整理をまったくしていなかったので、今度は書類探しに明け暮れた。香典返しの準備をしている時だった。母が「岬のお友達、来てくれてたのね」と言うので瞬のことかと思ったら、「斎藤くん」と続いて、香典袋を奪い取った。角ばった右肩上がりの字で「斎藤」と書かれている。

 ――いつ、来たんだ……。

 瞬ばかりに気を取られて、いつ誰が来たのかまったく覚えていない。つくづく自分は瞬以外、眼中にないのだなと呆れる。
 暫く学校を休んでいた岬がようやく登校できたのは、父の危篤から四日後のことだった。教室に入ってクラスメイトと談笑する斎藤を見つけたが、目が合うとすぐに逸らされ、挨拶をするきっかけすら掴めなかった。話し掛けようにもあからさまに避けられる。結局、父の葬儀に来てくれたことの礼すら言えないまま、冬休みを迎えた。


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