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『Je Te Veux』3

 結局、この日は父の見舞いに行けず、時計は午後八時半を差していた。泊まっていけばという瞬の申し出に甘えて、母には無難な理由で連絡を入れておく。岬が娘なら言語道断と言われるところだが、そのあたりの規制が緩いのは男子として生まれた特権だろう。念のために父の容体を訊ねると、変化はないと返ってきた。

 夕飯は野菜炒めや焼き鮭といった健康的な食事を瞬が簡単に拵えた。食後は必ず飲むという処方薬の説明を一応受ける。強心剤、抗凝固剤、利尿剤、検査結果に応じて種類と量は変わるらしい。今までこうして一緒にいても瞬が不調を訴えたことがなかったので、病気と言われても正直ピンとこない部分もあったが、当たり前のように薬や治療の話を聞くとやはり病気なのだなと実感する。ただ、今まで頑なに明かされなかった事実を瞬が自ら話してくれることに関しては、岬が瞬の領域に入ることを許されたと感じて不謹慎ながらも嬉しかった。

 勉強はするなと言われた。調子が悪い時は潔く休んで、まったく他事をするのがいいガス抜きになると言う。その他事にピアノはどうかと提案された。

「ちょうど岬に弾いてもらいたい曲があって」

「俺に?」

 ピアノの長椅子に座らされ、譜面台に並べられた楽譜を見て岬は顔を引きつらせた。

「なんで」

「何か問題が?」

「サティは苦手なんだ」

「えらそうに選り好みするな。これは弾きやすいはず。『ジュ・トゥ・ヴ』」

 サティはしばしば奇抜な曲名や演奏指示を入れることで有名だ。それまでの音楽界の常識を覆す自由すぎる作風は、不気味ながらユーモラスに溢れ、時にピアニストをおちょくる。岬はサティの曲を聴くには好きだが、弾くとなると別だった。人間性と同じく一筋縄ではいかない掴みどころのなさが弾きにくくて苦手なのだ。

 『ジュ・トゥ・ヴ』は、そんなサティの作品の中でもなじみやすい曲ではあるが、これを弾きこなすのはプロでも難しいと聞いた。技術的に難しくはなくても表現的に難易度が高いこの曲を、何故よりによって瞬の前で弾かねばならないのだ。

 弾けよ、とせかされて岬は仕方なしに鍵盤に手を置いた。繰り返しは省く。ミスタッチもほとんどなく、初見にしてはこんなものかと妥協しながら弾き終えると、瞬は冴えない面差しで頭を掻いた。

「……ほんっと、お前のピアノって、機械的だよな」

「自分に表現力がないことくらい分かってるよ」

「なんで上手く表現できないのか分かってるのか」

「……」

「日本語の題名はなんだよ」

「……『おまえが欲しい』」

「お前が大好きだ、俺のものになれって思いながら弾かないと」

 岬は赤面してうなだれる。

「俺、そういうの無理」

「それだよ。この曲に限らず、お前は感情を入れることを恥ずかしがってる。だから上手く表現できない」

「それ、必要?」

「感情抜きで音楽は成立しない」

 きっぱり言い放つのが格好いいと思ったことが悔しい。

「別に時代背景を考えろとか意図を汲み取れとか言ってるわけじゃない。大事なのは弾く人間がどう弾くかだよ。あと、ミスタッチとか気にしなくていいから。間違えてもいいから、気持ち込めてみろ。もう一回」

「なんのレッスンだよ」

「つべこべ言うな。六小節目からワルツだぜ。ステップ踏めよ」

 ピアニシモが強すぎる、もっともじもじして、
 急いだら品がないだろう、おしとやかに弾けよ。
 そう、クレシェンドでプロポーズするんだ。

「その指示なんなのさ」

「分かりやすいように言ってるんだろ。まだ照れてんのかよ」

「キャラじゃないというか」

「よく言うぜ。散々好きだって泣き喚いた奴は誰だよ。なんなら俺のこと考えながら弾くのが手っ取り早いと思うけど」

 瞬の心外な自惚れ発言に、岬はかえってまともに言った。

「だったら是非、瞬にも俺のことを考えながら弾いてもらいたいものだね」

***

 翌朝、岬はいったん自宅に寄ってから学校へ行くつもりで早めに起床した。放課後はいつものように父を見舞う予定だ。それを瞬に伝えたら、

「今日はクリスマスのイベントがあるって貼り紙見たぜ」

「病棟のクリスマスイベントなんてそんな楽しむようなもんじゃないだろ」

「お前がピアノでも弾いたらちょっとは楽しめるんじゃない」

「なんで俺が弾くんだよ」

「親父さんに聴かせてやれば」

「……」

「喜ぶと思うけどな。息子が弾いてくれたら」

「気が向いたらね。ってか、弾かせてもらえるかも分からないし」

「『ジュ・トゥ・ヴ』な」

「それこそ、気が向いたらね」

 何故そこまで『ジュ・トゥ・ヴ』を推すのかと疑問に思いながらマンションをあとにした。
 風は弱いが、体の芯から冷える朝だった。真っ白の息が朝霧に紛れる。縁石とアスファルトの隙間から覗いている雑草は白く色付いていた。昔は霜が付いた葉をつついて喜んでいたが、もうそんな年ではない。それは雪じゃないの、霜って言うのよ、と、母が言っていた言葉を、毎年霜を見る度思い出す。

 寒さに慣れないまま自宅に着くと、母は早くも父の病院に行ったのか姿はなく、代わりにダイニングテーブルに朝食が置かれてあった。あまり腹は減っていないので、先に体を温めようとシャワーを浴びる。登校するまで時間はないが、急いで準備する気にもなれなかった。

 シャワーを済ませると、途端にだるくなった。少し休むだけのつもりでベッドに倒れ込んだら最後、そこから起きて学校へ向かうのが億劫で仕方がない。
 学校へ行ったら、まず斎藤と顔を合わせなければいけない。話し合わなければとは思うが、改めて振るためだけに話すのも、かえって斎藤のプライドを傷つけることになるのでは、という心配もある。謝ってすっきりする、というのは岬の自己満足だ。どうせ授業にもろくに集中できまい。岬は適当に仮病を使って、結局この日ははなから欠席することにした。それは瞬のマンションを出た時から七割決めていたことだった。

 気付けば眠っていたらしく、すっきりと目覚めたのは正午を過ぎてからだった。母が用意していた朝食を昼食と兼ねて、母が一時帰宅する前に父の病室に向かう。父の好きなゼリーとヨーグルトを手っ取り早くコンビニで買うのが常だが、この日は時間に余裕があるので、病院近くのスイーツ店で評判のシュークリームを買うことにする。

 父は甘いものや柔らかいものが好きだ。コーヒーゼリーよりフルーツゼリー、プレーンヨーグルトよりブルーベリーヨーグルト、煎餅よりは断然、ケーキだ。そのくせ餡子は好まない。肉はよく焼け、夏に刺身を出すな、珍味なんぞ食わん。今、思えば父の我儘は本当に子どものようだった。あれに二十数年付き合った母には感心する。シュークリームの入った袋を振りながら、爽快な青空の下を歩いた。

 病棟に着くとラウンジではちょうどクリスマスイベントが催されていた。窓際には大きなクリスマスツリーとポインセチアが飾られていて、学芸会に毛が生えた程度の装飾だが、いつも静寂のラウンジが、ケーキを美味そうに頬張る患者たちで賑わっているのを見ると、微笑ましくあり、どこか切ない。その患者たちの輪の中に、父の姿はなかった。

 病室に入ると、母が「あらっ!? なんで!?」と、声を上げた。

「なんかだるくて、休んだ」

「んまぁ、昨夜は友達の家で泊まって、遊び疲れて休んだの? なんて子」

 母の声に怒気はなかったので、岬はいい加減に受け流して父の隣に腰を下ろした。どちらかというと父のほうが深刻気味に「なんで休んだんだ?」と訊ねた。父は昔から、岬のちょっとした変化に敏感だ。今日も岬が単なるズル休みではないことを気付いているようだった。けれど、父に余計な心配は掛けられない。

「本当に、ちょっとだるかっただけ。どうせ授業も自習や復習ばっかりだし、風邪も流行ってるしね。家で自分のペースで勉強したほうがいいと思って」

「そうか……」

「それより、クリスマスのイベント行かないの? 楽しそうだったよ。他の患者さんと雑談したりしないの?」

「ああいうのはあまり好きじゃない」

「お父さん、本当に面倒くさがりなのよ。出不精だし」

 と、言って母はみかんを口に放り込んだ。

「それに、友達はひとりで充分だ」

 岬と母は顔を見合わせる。

「友達って?」

「友達ができたんだ。闘病仲間」

「そんなの初耳ですよ、わたしは。どんな人なの?」

「内緒だ」

「なんで内緒なんだよ」

 父は笑みを浮かべたまま目を瞑り、答えなかった。

「……シュークリーム、食べる?」

「冷蔵庫に入れておいてくれ。……岬、もう何も買ってこなくていいぞ」

「なんで」

「どうせ食べられないからな。お前の小遣いも減る」

「無理にでも食べろよ。小遣いは父さんが退院したらせびるから」

 笑いながら咳をする父の足をさする。ちょうど南側にある窓からは小春日和の太陽光が病室を照らす。特に何かを話すわけでもないが、家族三人の時間というのが久しく、もしかしたら人生で一緒にいる時間が一番短いのは両親なのかもしれない、と、この時間がとても貴重に感じられた。

「父さん、なんかして欲しいことある? 散歩はもう寒いし」

「そうだなぁ……父さんな……岬に、ひとつ……」

「何?」

 すると父は激しく咳込みだした。咳をするのはいつものことだが、なかなか治まらないので背中をさすろうとしたら、手を払いのけられた。拒まれたのかとショックにも似た驚きがあったが、直後に嘔吐したので「見るな」ということだったのかもしれない。

「岬、お母さんがしておくから、売店でウェットティッシュを買ってきてちょうだい」

「分かった」

 病室を出て、深呼吸をする。以前、喀血をした時、血だらけの床と布団を見た時もかなり衝撃を受けたが、突然嘔吐されるのも当惑する。ああいう時にすぐに動けないのは情けない。
 息を吐きながらラウンジを横切ると、イベントを終えたらしく患者たちが各病室へ戻っていくところだった。ラウンジでは看護師たちが慌ただしく片付けに入っている。父も連れて来てやれば良かったと思う中で、ふいに瞬がピアノを弾いてやれと言ったのを思い出した。 

 ――さすがにそれは……。

 けれど、父に何かしてやりたい。なるべく良い記憶を作っておいてやりたかった。岬は片付けをしている看護師に、一曲でいいから弾かせてもらえないかと駄目元で頼んでみた。意外にもあっさり許可が出たので、岬は自ら申し出ておいて戸惑いながら、ピアノの前に座った。昨夜、瞬から細かいレッスンを受けたので大体は暗譜してある。正確に弾ける自信はないが、発表会やコンクールでないので、この場合は瞬の教え通り、感情を込めることを重視することにする。

 ――お前が大好きだ、俺のものになれって思いながら弾かないと。
 なんなら俺のこと考えながら弾くのが手っ取り早いと思うけど。――

 なんなんだよ、それは。と、再度心の中で苦笑する。瞬のことを考えて弾くかどうかは別として、「そういう気持ち」を思い出したところで、鍵盤に置いた指を動かした。

 緊張と、やはりどうしても残る羞恥心に邪魔されて出だしのピアノがメゾフォルテになってしまった。

 ――六小節目からワルツだぜ。ステップ踏めよ。――

 ……踊るように。

 ――スラーを意識して。なるべく音に段差が出ないように。――

 そしてまとまりの最後は弱く。

 ――ピアニシモが強すぎる。――
 
 もじもじってどう弾くんだよ。

 ――告白をしたいのに勇気がなかなか出ない感じかな。――

 ……そういえば瞬に初めて好きって言われた時は何も言えなかった。

 ――急いだら品がないだろう、おしとやかに弾けよ。――

 少し腕を曲げて、脇を広げる。

 ――そしてクレシェンドで、――

 プロポーズ。



 岬の音色に真っ先に気付いたのは父だった。

「……母さん、ドアを開けてくれ」

 ドアを開け放すと、岬の音色が病室まではっきり届いた。

「あら、お父さん。この曲、覚えてる?」

「ああ、懐かしいな。……誰か弾いてるのか?」

「そうみたいね。見に行ってみます?」

「いや、ここでいい。……ああ、良い曲だ」

「この題名、なんて言うのかしら」

「……『おまえが欲しい』って、言うらしいよ」

 フランス語の題名は父には馴染みがないので覚えていない。母は「まあ、」と頬を染めた。

「やっと聴けたな」
 
 指を動かすうちに体が温まり、ぎこちなかった岬の肩にも揺らめきが現れた。その場にまだ残る患者や、看護師たちの視線もいつの間にか気にならなくなり、ただ弾くことに夢中だった。ピアノをおよそ十年弾いていながら、ようやく強弱の付け方が分かった気がする。

 ただ弱く打てばいいのではない。ただ強く打てばいいのではない。喜びの音なのか、悲しみの音なのか、壮大な音なのか、軽快な音なのか。

 そして愛が溢れるようなクレシェンドを迎え、ラランティールに終結する。

 息をついて立ち上がると、その場にいた数人の観客から拍手を浴びた。老人たちから、上手ね、素敵な曲ね、とお決まりの褒め言葉を掛けられて忘れていた羞恥心が蘇る。岬はペコペコとお辞儀をしながら足早に立ち去り、病室に戻った。

「あら、ウェットティッシュは?」

 母は呆れて尋ねた。

「あ、忘れてた」

「もう、しっかりしてちょうだい」

 母は小言を呟きながら病室を出て、入れ違いで岬は父の隣に腰を下ろした。

「吐いたの、治まった? 気分は?」

「すっきりしたよ。……今、誰かがピアノを弾いてたんだけど」

「……」

「岬なのか」

 指摘されて迷いながら肯定した。父は嬉しそうに「そうか、お前だったのか」と笑った。

「いい気分転換になったよ」

「今まで聴いたお前の演奏の中で、一番良かった。父さんの大好きな曲なんだ」

「……前に言ってた、好きな曲って『ジュ・トゥ・ヴ』のことなの?」

 岬はそこで初めて、瞬が何故この曲を押していたのか分かった。ただ、どうしてそれを瞬が知っているのかますます疑問に思う。

「父さんと母さんの……想い出の……」

 父は目を閉じて、ぶつぶつと呟いている。岬にはなんのことか分からないが、想い出に浸っている父の邪魔はすまいと、黙っていた。

「そろそろ……結婚しよう」

「えっ?」

 はっきり言った父の台詞に、つい反応してしまった。そのまま眠ったらしく、暫くして寝息が聞こえた。

「……寝言……?」

 岬ははだけている父のパジャマを直し、布団を掛けて病室を出た。すれ違った母に「先に帰る」と残し、昼下がりの午後をゆっくり家で過ごすことにする。道中、ふとスマートフォンを見ると瞬からメッセージが入っていた。

『七十五点』

 あたりを見渡すが、瞬の姿はない。一体いつから、どこから見ていたんだと、いまだ瞬という人間を図り切れずに、若干の恐怖を覚えた。


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