平等にあるもの2
瞬はラウンジで岬と再会するより少し前から、岬が病棟に訪れることを知っていた。ある木曜日、いつものように検査を受けたあと近くの喫茶店で軽く食事を済ませ、持て余した時間を中庭で本を読みながら潰していた。木曜日は大抵病院に行くので、瞬の持病を知っている会社が定休にしてくれているのだ。そろそろ帰宅しようかと顔を上げた時、前方に学生服の少年が颯爽と歩くのを見た。ひと目見た瞬間に、彼が岬であると気付いた。その日は天気が良かったので、空から燦々と降り注ぐ太陽光に照らされて、栗色の髪はいっそう明るく眩しかった。数年ぶりに見た岬は以前よりスラリと背が伸びて、顔つきに幼さは残るものの垢ぬけて見えた。思わず持っていた本で顔を隠す。岬は左手にコンビニの袋を提げていて、それを大袈裟にガサガサと揺らしながら救急外来の入り口へ真っ直ぐ進んでいく。
見る限り至って元気そうだが、救急外来へ行くほど体調が悪いのか、怪我でもしたのかと、好奇心にも似た心配がよぎり、岬のあとをつけた。岬は受付をせずにそのままエレベーターに向かう。緩和ケア病棟は救急外来の入り口から繋がっているということを、その時知った。
岬を乗せたエレベーターは五階で止まった。あとをつけたって仕方がない、自分の存在を知らせる気もないし、気付かれてもいけないと思うのに、少しでいいから近くで見たい、声を聞きたいという欲求には勝てずに、操られるように岬を追った。
五一二号室に入ると扉が閉められた。病室の前に立つが、最近はプライバシーの関係で病室前に患者の名前を提示しないことになっている。
閑散としている病棟。病室の近くにはラウンジがあり、古いグランドピアノを見つけた。
自宅に中古で購入したアップライトはあるが、アップライトとグランドピアノでは、やはり音も弾き心地も違う。グランドピアノの感触を恋しく思っていた時だった。
「じゃあ、また明日」
病室を出た岬の声がして、柱の陰に隠れる。
「父さん、落ち着いて良かったね。一時期本当にどうなるかと思ったけど」
「そうね。でもまた喀血することもあるだろうって先生が仰ってたわ。それよりあなた、まさか早退したんじゃないでしょうね」
「そのまさかだけど」
「どうりで来るのが早いと思ったわ……。ズル休みなんて」
「ズルじゃないよ。家族が危ない時に呑気に授業受けてられないよ。それに残りは自習だから休んでも影響ない」
「先生になんて言ったの」
「お腹痛いから、帰りますって」
「本当にあんたって子は……」
母親と立ち去る岬の後ろ姿を、もどかしい気持ちで見送った。
岬と再会するわけにいかなかった。会えば昔以上に執着してしまう。あの夜みたいに、また自分の欲望だけで彼を抱いてしまうかもしれない。そうなったらますます離れがたくなるだろう。一度、一線を越えてしまうと、なかなかもとの関係には戻れないものだ。しかも男同士である。昔と違って、若気の至りや勢いだけで済まされる年齢でもない。その上、いつ死ぬか知れない不安が付きまとうのだ。岬にはさすがに荷が重すぎる。
だけど一方的に見ているだけというのも辛いというのが正直なところだった。その笑顔と声を、自分にも向けて欲しかった。ラウンジのピアノを時々弾かせてもらうようになったのは、せめて音色だけでも岬の耳と届けばという願望もあったかもしれない。
実際に気付かれると思いきり動揺して逃げ出したけれど、拙い手つきでピアノ弾く岬を見た時は、もう声を掛けずにはいられなかった。
――今日だけ。今だけ。ほんの少しだけ。
だが、予想外に岬は食い下がってきた。自分から仕向けておいて、冷たく突き放すしかできない。それでも岬は瞬を追い掛けてくる。「やっと会えた」と涙を流して「好きだ」と言ってくれる。
罪悪感はある。劣等感も。
岬との関係にも自分の命にも先は見えないのに、結局、素直な願望には逆らえずにいる。
調剤薬局で時間を喰らい、帰路についたのは岬と別れてから三十分後のことだった。岬と斎藤に対する苛々が晴れず、どうにかして発散する術はないかと考えた。家でピアノを弾くくらいしか思い付かない。
――こういう時は、グランドピアノがいいんだけど。
遠目で緩和ケア病棟を見上げる。さすがに二人も帰っていると思うが、瞬は万が一、出くわすことを考えて正面玄関から遠回りして病棟へ向かった。五階に到着してラウンジを目指していると、五一二号室の扉が開いた。身構えたら、現れたのは車椅子に乗った岬の父だった。岬の父を見るのは初めてだ。病気のせいか顔色は冴えないが、全体的に柔らかい雰囲気が彼とよく似ている。岬父は誰の手も借りずにひとりで車椅子を必死に動かしている。あまりにも慣れない様子だったので、手を貸さずにいられなかった。
「押しましょうか」
急な申し出に驚いた岬父は、目を大きくして瞬を見上げた。その目が岬にそっくりで、彼は父譲りなのだと理解する。
「あ……いや、悪いね……。ラウンジでお茶でも飲もうかと思ったんだけど、ちょっとそこまで行くのにもひと苦労でね」
「一緒に行きましょう」
「ありがとう」
車椅子をゆっくり押しながら、ラウンジへ向かう。中には誰もいなかった。瞬は入ってすぐのテーブルの横に車椅子をつけ、「持ってきますね」と台所に設置されているドリンクサーバーの緑茶を淹れる。ふと視線をずらすとほうじ茶のティーバッグがあることに気付き、念のため両方淹れて父に差し出した。
「緑茶とほうじ茶、どちらがいいですか?」
「じゃあ、ほうじ茶で。ありがとう」
緑茶を無駄にするわけにもいかないので、瞬は父の隣に腰を下ろすことになった。
「……誰かのお見舞い?」
かすれ声で問われる。
「いえ、僕が通院してるので、たまに寄るんです。……ここで時々イベントしてますよね」
ピアノを弾きに、とは言わなかった。
「若い子が、こんなところのイベントに興味があるのかい。珍しいね。でも今日は何もないだろう」
「……そうですね」
「通院って、何か病気で?」
「昔から心臓が悪くて、定期的に」
岬父は眉をハの字にして、済まなそうに「ああ……」と洩らした。
「だけど若いから、きっと回復力も強いよ」
「そうだといいですけど」
そういえば緑茶は循環器系の病気に良いと聞いたことがある。まじないのように緑茶を少しずつ口に含んだ。
「わたしは肺癌なんですよ……。手術もできないくらい腫瘍が大きくなっちゃって、にっちもさっちもいかないんですわ」
寂しそうな顔で言う。
「抗ガン剤はね、断ったんだ。大抵アレで早く死んじゃうでしょ。痛いなぁとか苦しいなぁっていうのはあるけど、まだマシかなと思うんだ。あ、ごめんね。こんな話で」
「いえ、……おじさんの気持ち、少し分かります」
父は「何、言ってるんだい」と笑った。
「今日は天気が良いね」
窓の外を見て、父が呟いた。あとを追って瞬も窓の外に目を向ける。雲ひとつない快晴だ。ベランダの植木の花が、ゆらゆらと風に揺れている。なぜ急にそんな気になったのかは分からないが、瞬は「中庭に出ませんか」と提案した。
「悪いよ」
「平気です。軽い運動はしたほうがいいんで」
「それじゃあ、連れて行ってもらおうかな」
瞬は車椅子を押してエレベーターへ向かった。すれ違った看護師に「あら、珍しい。お散歩ですか?」と聞かれ、父は「友達ができたんですよ」と楽しそうに言った。
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見る限り至って元気そうだが、救急外来へ行くほど体調が悪いのか、怪我でもしたのかと、好奇心にも似た心配がよぎり、岬のあとをつけた。岬は受付をせずにそのままエレベーターに向かう。緩和ケア病棟は救急外来の入り口から繋がっているということを、その時知った。
岬を乗せたエレベーターは五階で止まった。あとをつけたって仕方がない、自分の存在を知らせる気もないし、気付かれてもいけないと思うのに、少しでいいから近くで見たい、声を聞きたいという欲求には勝てずに、操られるように岬を追った。
五一二号室に入ると扉が閉められた。病室の前に立つが、最近はプライバシーの関係で病室前に患者の名前を提示しないことになっている。
閑散としている病棟。病室の近くにはラウンジがあり、古いグランドピアノを見つけた。
自宅に中古で購入したアップライトはあるが、アップライトとグランドピアノでは、やはり音も弾き心地も違う。グランドピアノの感触を恋しく思っていた時だった。
「じゃあ、また明日」
病室を出た岬の声がして、柱の陰に隠れる。
「父さん、落ち着いて良かったね。一時期本当にどうなるかと思ったけど」
「そうね。でもまた喀血することもあるだろうって先生が仰ってたわ。それよりあなた、まさか早退したんじゃないでしょうね」
「そのまさかだけど」
「どうりで来るのが早いと思ったわ……。ズル休みなんて」
「ズルじゃないよ。家族が危ない時に呑気に授業受けてられないよ。それに残りは自習だから休んでも影響ない」
「先生になんて言ったの」
「お腹痛いから、帰りますって」
「本当にあんたって子は……」
母親と立ち去る岬の後ろ姿を、もどかしい気持ちで見送った。
岬と再会するわけにいかなかった。会えば昔以上に執着してしまう。あの夜みたいに、また自分の欲望だけで彼を抱いてしまうかもしれない。そうなったらますます離れがたくなるだろう。一度、一線を越えてしまうと、なかなかもとの関係には戻れないものだ。しかも男同士である。昔と違って、若気の至りや勢いだけで済まされる年齢でもない。その上、いつ死ぬか知れない不安が付きまとうのだ。岬にはさすがに荷が重すぎる。
だけど一方的に見ているだけというのも辛いというのが正直なところだった。その笑顔と声を、自分にも向けて欲しかった。ラウンジのピアノを時々弾かせてもらうようになったのは、せめて音色だけでも岬の耳と届けばという願望もあったかもしれない。
実際に気付かれると思いきり動揺して逃げ出したけれど、拙い手つきでピアノ弾く岬を見た時は、もう声を掛けずにはいられなかった。
――今日だけ。今だけ。ほんの少しだけ。
だが、予想外に岬は食い下がってきた。自分から仕向けておいて、冷たく突き放すしかできない。それでも岬は瞬を追い掛けてくる。「やっと会えた」と涙を流して「好きだ」と言ってくれる。
罪悪感はある。劣等感も。
岬との関係にも自分の命にも先は見えないのに、結局、素直な願望には逆らえずにいる。
調剤薬局で時間を喰らい、帰路についたのは岬と別れてから三十分後のことだった。岬と斎藤に対する苛々が晴れず、どうにかして発散する術はないかと考えた。家でピアノを弾くくらいしか思い付かない。
――こういう時は、グランドピアノがいいんだけど。
遠目で緩和ケア病棟を見上げる。さすがに二人も帰っていると思うが、瞬は万が一、出くわすことを考えて正面玄関から遠回りして病棟へ向かった。五階に到着してラウンジを目指していると、五一二号室の扉が開いた。身構えたら、現れたのは車椅子に乗った岬の父だった。岬の父を見るのは初めてだ。病気のせいか顔色は冴えないが、全体的に柔らかい雰囲気が彼とよく似ている。岬父は誰の手も借りずにひとりで車椅子を必死に動かしている。あまりにも慣れない様子だったので、手を貸さずにいられなかった。
「押しましょうか」
急な申し出に驚いた岬父は、目を大きくして瞬を見上げた。その目が岬にそっくりで、彼は父譲りなのだと理解する。
「あ……いや、悪いね……。ラウンジでお茶でも飲もうかと思ったんだけど、ちょっとそこまで行くのにもひと苦労でね」
「一緒に行きましょう」
「ありがとう」
車椅子をゆっくり押しながら、ラウンジへ向かう。中には誰もいなかった。瞬は入ってすぐのテーブルの横に車椅子をつけ、「持ってきますね」と台所に設置されているドリンクサーバーの緑茶を淹れる。ふと視線をずらすとほうじ茶のティーバッグがあることに気付き、念のため両方淹れて父に差し出した。
「緑茶とほうじ茶、どちらがいいですか?」
「じゃあ、ほうじ茶で。ありがとう」
緑茶を無駄にするわけにもいかないので、瞬は父の隣に腰を下ろすことになった。
「……誰かのお見舞い?」
かすれ声で問われる。
「いえ、僕が通院してるので、たまに寄るんです。……ここで時々イベントしてますよね」
ピアノを弾きに、とは言わなかった。
「若い子が、こんなところのイベントに興味があるのかい。珍しいね。でも今日は何もないだろう」
「……そうですね」
「通院って、何か病気で?」
「昔から心臓が悪くて、定期的に」
岬父は眉をハの字にして、済まなそうに「ああ……」と洩らした。
「だけど若いから、きっと回復力も強いよ」
「そうだといいですけど」
そういえば緑茶は循環器系の病気に良いと聞いたことがある。まじないのように緑茶を少しずつ口に含んだ。
「わたしは肺癌なんですよ……。手術もできないくらい腫瘍が大きくなっちゃって、にっちもさっちもいかないんですわ」
寂しそうな顔で言う。
「抗ガン剤はね、断ったんだ。大抵アレで早く死んじゃうでしょ。痛いなぁとか苦しいなぁっていうのはあるけど、まだマシかなと思うんだ。あ、ごめんね。こんな話で」
「いえ、……おじさんの気持ち、少し分かります」
父は「何、言ってるんだい」と笑った。
「今日は天気が良いね」
窓の外を見て、父が呟いた。あとを追って瞬も窓の外に目を向ける。雲ひとつない快晴だ。ベランダの植木の花が、ゆらゆらと風に揺れている。なぜ急にそんな気になったのかは分からないが、瞬は「中庭に出ませんか」と提案した。
「悪いよ」
「平気です。軽い運動はしたほうがいいんで」
「それじゃあ、連れて行ってもらおうかな」
瞬は車椅子を押してエレベーターへ向かった。すれ違った看護師に「あら、珍しい。お散歩ですか?」と聞かれ、父は「友達ができたんですよ」と楽しそうに言った。
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