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平等にあるもの1

 一週間前におこなった、前回とたいして変化のない検査結果の数値に、瞬は落胆するわけでも喜ぶわけでもなく凡庸に受け止めた。

「特に大きく変わった点はないね。BNPが22で前回より少し増加してるけど……それほど負荷もないようだから、このまま様子を見ようか」

 落ち着いた様子でそう告げるのは、瞬の主治医であり、父である。どうやら父が瞬の主治医になることが母の願いだったらしく、母が他界したあと突如現れた父に連れ戻されて、担当が父になった。以前は自分でこの地に呼んでおきながら一度も診なかった、正妻に迫られて東京に戻ったあとも一度も連絡をしてこなかった、極めつけは母の葬儀にも来なかった。こんな男を父親と思いたくないが、母の願いだ。しかも今の瞬は、誰かに頼らないと生きていけない。不本意だが従うしかない、と、自分とそっくりな釣目を持った男を睨み付ける。

「そう怖い顔をするな。治療は順調なんだ」

「ええ、お陰さまで」

 皮肉たっぷりに言うと「くわばら、くわばら」と、父は苦笑した。

「日常で困ったことはないか?」

「……特には」

「そうか……。これから寒くなるから風邪は引かないように、少しでもおかしいと思ったらすぐに言いなさい。……仕事のほうは?」

「職場の人たちが融通利かせてくれるんで」

「いつでも力になるから、困ったことがあったらいつでも言いなさい」

 瞬は鼻で嘲笑った。

「これまで力になってくれたことがありますか」

「それを言われると心苦しいがな、これからはきちんと瞬と向き合いたいと思ってる」

「それが母の遺言ですからね。でも無理はしなくてけっこうです。あなたも『本来の家族』に俺を診ていることを知られたくないでしょうし」

 瞬はパーカーと財布を荷物置きから取り、立ち上がる。

「……君は……昔はもう少し、素直じゃなかったか」

「取り繕って大人しくしても、良いことなんかひとつもないんでね。……大体、いつの話をしてるんです」

 診察室を出ようとする瞬を、父は再び質問を投げ掛けることで引き止めた。

「手術をする気はないのか」

「……なんの」

「ペースメーカーを植え込む手術だ。お前もとっくに承知してると思うが、この病気は完治することはない。進行が進むと致死性の不整脈が起きて、突然死の可能性が高くなる。最近は心不全を起こした時に電気ショックを与えてくれるペースメーカーもあるし、その選択肢も頭に入れて置いたらどうだろう」

「……死んだら死んだ時ですよ。母がくれた命なんで粗末にはしませんけど、無駄に悪あがきしようとも思いません」

「君はまだ若い」

「俺がいなくなったほうが、あなたも都合がいいんじゃないですか」

 そう吐き捨てて、瞬は診察室を出た。
 病気が発覚して、もう七年が経つ。忘れもしない七年前の冬。体育の授業でマラソンをしていた時に感じた異常な疲労。とにかく脚がだるくて、それから微熱が引かなかった。ただの疲れか風邪だと思っていた。病院に行ったのも、念のためというつもりだった。

 深刻な顔で医師から「今すぐ入院して下さい」と言われた時は、頭の中が真っ白になった。さっきまで普通に歩いていたのに突然車椅子に乗せられて、心電図やエコー、更にはカテーテル検査という仰々しさに「何かの冗談だろう」と、必死で現実逃避したのを覚えている。

 検査結果は想像を超える、最悪なものだった。いくつかの種類に分類される心筋症の中でも、瞬は心室の壁が伸びて心臓内部の空間が拡張する原因不明の難病と言われた。絶対安静と食事制限、運動制限、薬漬けの日々でなんとか日常生活に戻るまで回復したものの、ストレスや疲労を溜めないことを第一に色々と制限されるようになり、不自由すぎる生活に母に八つ当たりすることもあった。

 何より哀しかったのはピアニストの夢を諦めざるを得なかったことだ。母子家庭という環境に負い目を持ちたくなかった母は瞬が三歳の頃に、地区で有名なピアノ教室に入れた。
 瞬自身ピアノを楽しんでいたが、よりピアノに魅力を感じるようになったのは五歳の頃だ。ピアノ教室の先生に連れられて観に行ったコンクール。そこで聴いた数々の名曲、特にピアノ協奏曲に完全に心を奪われたのだ。あんなに感動したのは人生で初めてのことだった。

 ――いつか自分もこの広いホールで、観衆の中で、ピアノ協奏曲を演奏したい。ピアニストになりたい。世界に名を轟かすピアニストに。

 ――何、言ってるんですか。心臓にストレスをかけることは絶対に駄目ですよ。――

 今でも鮮明に蘇る、あの時のどうにもならない絶望感。
 
 ――心臓が欲しい。誰よりも強い、心臓が。

 内科から受付に向かうまでの廊下に設置されている小さなテレビから、ピアノの音が聞こえた。ブダペストの交響楽団が演奏する、グリーグの『ピアノ協奏曲イ短調Op.16第一楽章』。瞬はテレビから微かに洩れる、そのオーケストラに見入った。目を閉じ、そのピアノの前で演奏する自分の姿を、思い描いてみる。

 黄金に輝く広いホール、世界中の人間が注目するステージ、その中で奏でる天にも届く壮大な音色に、そこにいる誰もが陶酔する。
 容赦ない院内放送に、現実に引き戻された。

 ――叶うはずがない……。

 止めていた足を、再び踏み出した。

「瞬、」

 ロビーに行くと、制服姿の岬が駆け寄って来た。

「まだ授業の時間じゃないのか?」

「今日は午前中授業だったんだ。瞬の検査結果が出る日だって言ってたから、居ても立ってもいられなくて急いで来た」

 冬だというのに、岬のこめかみには一筋の汗が流れている。瞬はその汗を撫でるように指で拭った。

「結果どうだったの」

「可もなく不可もなく」

 検査結果の紙をピラリと岬に放り投げる。

「……数値の意味がよく分かんないんだけど、LVEFっていうのは?」

「左室駆出率。心臓の働き具合を表す数値。標準は60~80%で、俺は55%。BNPっていうのは、心臓が疲労した時に出るホルモン数値。標準は18以下で、俺は22」

 その数値が良いのか悪いのかは岬には判断しかねる。眉間に皺を寄せている岬に、瞬は笑顔を見せた。

「俺にとってはこれが普通なんだ。暗い顔するな」

「そっか。瞬がそう言うなら、大丈夫なんだね」

「ところで、親父さんの病室には行ったのか?」

「ううん、これから」

「まず、真っ先にそっちに行くべきだろう」

「ここ一ヵ月くらい、たいした変化はないんだ。それに見舞ったら必ず『帰って勉強しろ』ってうるさいんだよ」

「大学はどこに行くか決めてるのか」

「K大。正直言って思い付かなくて」

「岬がそれでいいなら、いいんじゃないの」

 そう言って岬を通り過ぎる。返事がないので振り返ったら、岬は口元を綻ばせていた。

「何、笑ってんだよ」

「なんか、瞬に名前を呼ばれるのが嬉しいなと思って」

「変な奴」

 四年ぶりに再会した岬は、相変わらず可愛らしかった。本人は体つきの未熟さを嘆いているが、標準男子としてはやや劣る程度で特別幼いというわけではない。欲目のない第三者から見れば、せいぜい「童顔で中性的」と捉える程度だろう。けれど、切れ長の目のせいか冷たく見られがちの瞬からすれば、岬の持つ柔らかい雰囲気には惹かれるものがあった。

 初めてピアノ教室で見た時。肌ざわりの良さそうなふっくらした頬、黒目の割合が多い大きな眼、小動物のような栗色の髪。そして何より、ショパンの『黒鍵』を弾いた時の、あの屈辱と恐れが混じったような驚いた顔。エレクトーンをしたいと意固地になった岬に声を掛けた時の、怯んだ顔。それでも目を離すどころか、食い入るように瞬を見つめた。

 ――心臓が強そう。

 そんな生々しい想いが惹かれた一番の要因だったかもしれない。

「瞬、もう帰るの?」

「用はないから」

「ピアノは?」

「だから、もともと遊びで弾いていいとこじゃないんだよ。それに、もうあそこで弾く必要もないし」

「弾く必要って?」

 瞬は岬の前にはばかると、鼻をギュっとつまんだ。

「質問攻め、やめろ」

 岬は瞬の指を無理やりに外し、鼻をさすりながら睨む。

「質問攻めにもなるよ。知りたいことだっていっぱいあるんだから」

「へぇ、例えば」

 受付前のソファに並んで座る。自分の受付番号とパネルの呼び出し番号を確認するが、まだ当分呼ばれそうにない。

「普段は何してるの? 大学は?」

「大学は通わずに、家から近い会社で事務してる」

「え……なんか、意外というか、なんというか」

「やってみるとけっこう楽しいんだぜ、デスクワーク。電卓の叩き方教えてやろうか」

「そんなのあるんだ」

「ほかに質問は?」

「なんで髪の毛染めてるの? カラコンまでしちゃって」

「別に深い意味はない。なんか、何もかもやってられなくなった時があって、気分転換に髪でも染めたらちょっとは変わるかと思って。目はもともと視力が悪いから」

「あ、度入りなんだ」

「悪くないのにコンタクトするほど洒落てもない。別に黒に戻したっていいんだけど、カラコンがまだ残ってて」

「そのへんの理由はたいしたことないんだね」

 このやろう、と言って岬の髪を搔き乱した。やめろと言いながら笑っている岬に、心穏やかになる自分がいる。瞬はたまらず岬を抱き締める。少しくらいならじゃれ合いの延長として怪しまれないはずだ。岬の首に、包むようにして手の平を当てた。じわじわと伝わる熱と、鼓動。力強く跳ねている。

 ――やっぱり、良い心臓だ。

 いつからか岬に触れる度に、無意識に彼の脈を確かめていた。首や、手首や、胸。規則的に動く岬の心臓が頼もしくて羨ましかった。

 妬ましい、憎らしい、愛しい。

 彼と心臓を共有できたらどんなにいいだろう。そしたら不自由な生活に困ることもなく、夢を諦めることもなく、……いつも一緒にいられるのに。

 それが無理なら、いっそ壊してしまおうか。破裂寸前まで、追いつかないほど全身を巡る血に悶え、苦痛と快感に顔を歪めながら、彼はなんて言うだろう。

 そんな歪んだ愛情に支配されたあの夜、一度限りのつもりで岬を抱いた。あの欲望が蘇りそうになった時、岬が声を掛けた。

「大丈夫?」

 体を離すと、岬は何も知らずに心配そうな表情で覗き込んでくる。

「あんまりお前があったかいんで、カイロ代わり」

「……そういうのは、人目のないところでしろよ……」

 頬を染めて言う説得力のなさが、またいじらしかった。

「……岬?」

 振り向くと岬と同じ制服を着た、彼と同年代と思えないほどがたいの良い青年が立っていた。

「斎藤」

 瞬に警戒の眼差しを寄越す「斎藤」と呼ばれた青年と、彼の存在に焦りを見せる岬の対応から、彼らが「ただの友達」ではないと感じた。

「斎藤、なんでここに……」

「英語のノート借りっぱなしだったから返そうと思ったんだけど、お前、ホームルーム終わってからすぐ出て行ったから追いかけて来たんだ」

「明日で良かったのに」

「予習の宿題ができないだろ?」

 岬は瞬に小声で「ちょっと、ごめん」と残して斎藤のほうへ駆け寄った。斎藤は岬にノートを渡すと、見せつけるように岬の髪に触れる。岬はその手から逃れたいような表情をしてみせたが、何か弱味でもあるのか拒まずにいる。その様子が気に入らなかった。

 ――年下相手に大人げない。

 これ以上見ていられなかったので、席を変えようと立ち上がった。ちょうど会計に呼ばれる。

「あっ、瞬、待ってよ」

「会計したら、調剤薬局行かなきゃならないんだ。俺は帰るぜ。じゃあな」

「仕事とか、無理するなよ。何かあったらいつでも……」

「岬、」

 岬の言葉は斎藤に遮られた。

「親父さんのお見舞い、まだなら俺も行っていいか?」

「え? ……あ、でも」

「ここまで来たんだから」

「じゃ、じゃあ……うん。行こうか……」

 二人の会話を背に、苛々とすっきりしない思いを抱えながら、瞬は病院を出た。嫉妬だなんて馬鹿らしい、と、今度は自分に対して呆れ返る。

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