本当の気持ち2
マンションに着いたが、自動ドアのロックの解き方は知らない。ドア前に設置されているインターホンを鳴らしてみる。こんなに緊張する瞬間は初めてかもしれなかった。数秒後に「はい」と瞬が応えた。
「あの……岬だけど……」
『……なんの用だ』
「どうしても、ひとつだけ、話したいことがあって……」
『帰れ』
「頼むよ、これだけ」
『……』
「……瞬、お願いだよ」
マイク越しに溜息が洩れて、ドアが開いた。話し合いには応じてくれるらしい。どういう風に切り出せばいいかと考えながら部屋の前に行く。中からドアが開けられ、瞬が不愛想に現れた。顔を見た途端、涙が溢れた。
「お前、よく泣くな。そんなとこで泣かれちゃ変な噂立ったら困るだろ。入れよ」
瞬への気遣いも何も忘れて、岬は部屋に入るなりストレートに訴えた。
「なんで言ってくれなかったんだよ……病気のこと……」
「なんだ、その話か」
「たいしたことない病気なら最初から隠したりしない……」
「たいしたことあっても、なくても、気を遣われるのが嫌なだけだ」
「俺にくらいは、言って欲しかった」
「さっきから何が言いたいんだよ」
「瞬の持病って、心臓の病気じゃないの……?」
「……」
「木曜に診察してるのは、心臓内科だけだ」
「さてね、整形外科かもしれないし、皮膚科かもしれないし?」
「はぐらかすなよ」
やや沈黙したあと、瞬はリビングへ岬を促した。ソファに並んで腰を落とす。岬の呼吸が落ち着いた頃、瞬が口を開いた。
「……病気は、もうずっと前から分かってたんだよ」
「いつから」
「中学一年だったかな……。体調が悪くて微熱が続いてて、心配した母親に病院に連れて行かれた。その時に、心臓が悪いって言われたんだ」
「そんなに前から……。治るんだよね?」
瞬は首を横に振った。
「心筋症って言って、細胞が変質して心臓の壁が薄くなったり厚くなったりする病気なんだって。俺はその中でも難病指定されている分類に入る。薬や手術で良くなる心筋症もあれば、俺みたいに最終的に心臓移植しないと治らないものもある」
心臓移植という響きに視界が歪んだ。せいぜい悪くても手術をすれば治る病気だと思っていた。思ったよりも深刻な事実に、岬の思考は止まりつつある。瞬は青ざめている岬を鼻で笑い、髪を撫でた。
「間抜けた顔しやがって」
「……なるに決まってる……だろ」
「でも、今ではその病気もきちんと治療すれば怖くない。良くはならないけど、薬で進行を抑えられる。その状態を何年も続けてるんだ。な、『たいしたことない持病』だろ?」
「たいしたことない」と本人が思いたいのかもしれないと思うと何も言えなかった。
「……引っ越したのは、病院を変えるためとか?」
瞬は頭の後ろで手を組み、ソファにもたれた。
「ドリー組曲ってさ」
「はっ?」
「フォーレが、ドビュッシー夫人の娘のために作ったって言ったの、覚えてるか?」
「ああ……、うん」
唐突な持ち掛けに、岬は気のない返事をした。
「ドビュッシー夫人はエンマって言って、ドリーっていうのは、そのエンマの子、エレーヌの愛称なんだ。知ってた?」
「え……? いや、知らなかった」
「フォーレは、エレーヌとエンマに六つの曲を書いて贈った。それがドリー組曲。フォーレはエレーヌをすごく可愛がってた」
「……エンマにも?」
「エンマはもともと、ある銀行家の妻で、フォーレとは愛人関係だった。エレーヌはエンマと銀行家との娘なんだけど、フォーレの溺愛ぶりにエレーヌはフォーレの子じゃないかって噂もあってね。でも、エンマはフォーレと愛人関係が終わったあとに、ドビュッシーと不倫して再婚したらしい」
「く、詳しいね」
「有名な話だ」
「エレーヌはフォーレの子なの?」
「いや、ただの噂。だけど、羨ましい話だと思わない? 血の繋がりがあろうがなかろうが、愛人の子をそこまで溺愛するなんてさ。俺は見捨てられたっていうのに」
さらりと言うが、聞き逃しは出来ない台詞だった。
「……どういうこと?」
「俺の母は愛人だった。父には家族がいたんだよ。それを知ったのは小学生の頃」
「……でも、お父さんはたまに家に帰って来るって言ってたじゃないか」
瞬の家に入り浸っていた頃だ。何気なく家族のことを聞いた時、母親は朝から晩まで仕事でおらず、医療関係の仕事に就く父もたまにしか帰ってこないと言っていた。
「父は循環器専門の内科医でね。昔から学会やら講習会やらでよく東京を行き来してて、学会後はいつも同じスナックで飲んでたらしい。そのスナックで働いてた母と知り合ったんだってよ。で、俺ができた」
えらく話が飛んだが、とどのつまりはそういうことだ。
「だけど父には本当の家族がいる。俺と母のところへは学会で東京を訪れる時に寄るくらいだった。『たまに帰る』というより、『たまに寄る』。ま、連絡は取り合ってたし、ちゃんと顔を見せるって点では、母に対しては誠実だったのかもな」
「……瞬には……」
「病気が分かった時、父がこっちに引っ越してこいって言ってさ。専門だし、診てくれるつもりだったのかもしれない。母も俺も心細かったから何も考えずに引っ越してきたんだ」
初めてピアノ教室で会った頃のことだろう。瞬は続けた。
「だけど、診てもらえなかった。病院に行っても別の先生に任されて父から病気に触れることはなかったし、その頃から父は俺たちにあまり会いに来なくなった。投薬と定期健診だけで三年が過ぎた頃、家に突然、正妻が現れたんだ。人の家庭を壊しにのこのこやってきたのかってね。俺からすれば知ったこっちゃない、こっちは命懸かってんだと思ったけど、父は何かしてくれるわけでもない、先に道徳に反したのは両親だ。すぐに立ち去れと言われて返す言葉もないまま、俺と母は東京に戻ったんだ。父は一度も連絡をしてこなかった」
当時、中学生だった岬にそんなややこしい事情を説明したところで理解できるはずがないし、納得しなかっただろう。それならいっそ何も言わずに去ったほうが良いと考えたのかもしれない。
「……心臓のほうは?」
「良くも悪くもなってない。でも、そんな騙し騙しの生活で病気と付き合ってきたんだよ。今更、完治したいとは思わない。……実を言うと、ピアニストは夢だった。でもこんな体じゃ、到底なれないだろ」
「本当に、完治できないの?」
「根本的に治そうと思ったら移植しかない。でもそれには莫大な金が要るし、ドナーもすぐには見つからない。選択肢に入りもしない」
「じゃあ……俺の心臓を使えよ」
瞬は眉を顰めて、岬を睨んだ。
「瞬はプロのピアニストになるべきだ。色んな人に瞬のピアノを聴いてほしい。それが叶うんなら、惜しくない」
立ち上がった瞬は、握った拳を岬の頬をめがけて振り下ろした。打たれた岬はソファから崩れ落ちて、床に倒れ込む。唇を切ったらしく、血の味がした。起き上がるより先に瞬に胸ぐらを掴まれて、上半身を無理やり瞬のほうへ向かされる。目の前の瞬は、今まで見たこともない険しい表情で岬を睨んでいた。
「軽々しく言うな、だからお前には話したくなかったんだ」
「だけど……瞬は俺なんかより、よっぽど才能があって……それをする意義は充分にある」
瞬は再び拳を岬の前に構えたが、瞬から目を逸らさない岬の眼に、その手を下ろした。そして鼻で笑う。
「……大体、移植は脳死状態の人から家族の同意を得てからじゃないとできない。普通に考えて無理なんだよ。お前のそういう軽率な発言は、患者を傷付けることだってあるんだ」
「……ごめん、なさい……」
けれど、方便で言ったつもりはない。瞬が生きられるなら本気で差し出してもいいと思った。
――でも、父さんだけじゃなく俺までいなくなったら、母さんは独りになる。
ふいにそんな現実的な考えが浮かび、途端に冷静になる。ひとつのことを決めるのですら、自分の意志だけではどうにもならない。
瞬は岬の腕を取り、ソファに座らせた。
「確かに数年前までは絶望的な病気だったけど、今では投薬だけでも改善されることも多いんだ。だからお前が思い悩む必要はない」
瞬は窓の外に目をやった。橙の夕日が落ちようとしている。
「帰れ。もう満足しただろ」
「嫌だ、帰らない」
「……邪魔なんだよ」
「瞬が好きだ」
「……」
「瞬の手も、目も、顔も体も、……瞬の弾くピアノが好きだ。……だ、から」
どうも感情が高ぶると涙が出る性質らしい。
「諦めるなよ……」
瞬は窓ガラスに映る岬のすすり泣く姿を見ていた。
こんなはずじゃなかったと、瞬はラウンジで岬に声を掛けたことを後悔した。昔から常に受け身だった岬のことだ。キスをしようが体に触れようが拒否こそしないものの、必要以上に同調はしてこなかった。体を重ねたのも、拒めなかっただけで特異な感情は抱いていないだろうと思っていた。実際、岬の口からそういった胸の内は聞かされたことがない。それなのに、今になってそんなことを言うなと、小さく泣いている岬を愛しく思う一方で、憎たらしさもあった。
「……なんだよ……。せっかく諦めがついてきたところだったのに」
瞬は堰を切ったように力強く岬を抱き締める。
「お前は、心臓に悪いんだよ」
「なんで……」
「一緒にいたら……痛く、なる……」
その痛みがどういうものか、岬は知っている。けれど岬にとって、その痛みは喜びを感じるものだ。胸の高鳴りと直接感じる体温や感触や匂いに、どこまでも酔える。それが病気から来るものではないことくらい分かっていた。岬は瞬の背中に手を回した。
「瞬といたい。……昔みたいに」
瞬は抱き締める腕に更に力を込め、岬の首筋に唇を当てた。
「岬、」
耳のすぐ近くで聞こえる声に鳥肌が立った。再会してから名前を呼ばれるのは初めてだった。
「これ、痛い?」
先ほど打たれた時に切った唇のことを言う。じんじんと響く感覚はあるが、痛みは引いている。
「大丈夫。もう痛くない」
「……ごめん」
瞬はまだ血が滲んでいる傷口を庇いながら、触れるようにキスをした。一度、唇を合わせると待ち侘びたと言わんばかりに押し付け合った。互いが求めて舌を絡めて、熱い吐息は当たり前に同期する。
これなんだ、と岬は思った。脳みそが溶けそうになるほど熱くて、気持ち良くて、もっと欲しいと息苦しさすら心地良い。それがあってのキスなのだ。
名残惜しく唇を離すと、瞬は再び岬の頭を抱え込んだ。そして独り言にも思える小さな声で「本当はずっと会いたかった」とこぼし、それを聞いた岬はまた泣いた。瞬は、頬をつたう岬の涙を指で拭きながら言う。
「お前、本当によく泣くよな」
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「あの……岬だけど……」
『……なんの用だ』
「どうしても、ひとつだけ、話したいことがあって……」
『帰れ』
「頼むよ、これだけ」
『……』
「……瞬、お願いだよ」
マイク越しに溜息が洩れて、ドアが開いた。話し合いには応じてくれるらしい。どういう風に切り出せばいいかと考えながら部屋の前に行く。中からドアが開けられ、瞬が不愛想に現れた。顔を見た途端、涙が溢れた。
「お前、よく泣くな。そんなとこで泣かれちゃ変な噂立ったら困るだろ。入れよ」
瞬への気遣いも何も忘れて、岬は部屋に入るなりストレートに訴えた。
「なんで言ってくれなかったんだよ……病気のこと……」
「なんだ、その話か」
「たいしたことない病気なら最初から隠したりしない……」
「たいしたことあっても、なくても、気を遣われるのが嫌なだけだ」
「俺にくらいは、言って欲しかった」
「さっきから何が言いたいんだよ」
「瞬の持病って、心臓の病気じゃないの……?」
「……」
「木曜に診察してるのは、心臓内科だけだ」
「さてね、整形外科かもしれないし、皮膚科かもしれないし?」
「はぐらかすなよ」
やや沈黙したあと、瞬はリビングへ岬を促した。ソファに並んで腰を落とす。岬の呼吸が落ち着いた頃、瞬が口を開いた。
「……病気は、もうずっと前から分かってたんだよ」
「いつから」
「中学一年だったかな……。体調が悪くて微熱が続いてて、心配した母親に病院に連れて行かれた。その時に、心臓が悪いって言われたんだ」
「そんなに前から……。治るんだよね?」
瞬は首を横に振った。
「心筋症って言って、細胞が変質して心臓の壁が薄くなったり厚くなったりする病気なんだって。俺はその中でも難病指定されている分類に入る。薬や手術で良くなる心筋症もあれば、俺みたいに最終的に心臓移植しないと治らないものもある」
心臓移植という響きに視界が歪んだ。せいぜい悪くても手術をすれば治る病気だと思っていた。思ったよりも深刻な事実に、岬の思考は止まりつつある。瞬は青ざめている岬を鼻で笑い、髪を撫でた。
「間抜けた顔しやがって」
「……なるに決まってる……だろ」
「でも、今ではその病気もきちんと治療すれば怖くない。良くはならないけど、薬で進行を抑えられる。その状態を何年も続けてるんだ。な、『たいしたことない持病』だろ?」
「たいしたことない」と本人が思いたいのかもしれないと思うと何も言えなかった。
「……引っ越したのは、病院を変えるためとか?」
瞬は頭の後ろで手を組み、ソファにもたれた。
「ドリー組曲ってさ」
「はっ?」
「フォーレが、ドビュッシー夫人の娘のために作ったって言ったの、覚えてるか?」
「ああ……、うん」
唐突な持ち掛けに、岬は気のない返事をした。
「ドビュッシー夫人はエンマって言って、ドリーっていうのは、そのエンマの子、エレーヌの愛称なんだ。知ってた?」
「え……? いや、知らなかった」
「フォーレは、エレーヌとエンマに六つの曲を書いて贈った。それがドリー組曲。フォーレはエレーヌをすごく可愛がってた」
「……エンマにも?」
「エンマはもともと、ある銀行家の妻で、フォーレとは愛人関係だった。エレーヌはエンマと銀行家との娘なんだけど、フォーレの溺愛ぶりにエレーヌはフォーレの子じゃないかって噂もあってね。でも、エンマはフォーレと愛人関係が終わったあとに、ドビュッシーと不倫して再婚したらしい」
「く、詳しいね」
「有名な話だ」
「エレーヌはフォーレの子なの?」
「いや、ただの噂。だけど、羨ましい話だと思わない? 血の繋がりがあろうがなかろうが、愛人の子をそこまで溺愛するなんてさ。俺は見捨てられたっていうのに」
さらりと言うが、聞き逃しは出来ない台詞だった。
「……どういうこと?」
「俺の母は愛人だった。父には家族がいたんだよ。それを知ったのは小学生の頃」
「……でも、お父さんはたまに家に帰って来るって言ってたじゃないか」
瞬の家に入り浸っていた頃だ。何気なく家族のことを聞いた時、母親は朝から晩まで仕事でおらず、医療関係の仕事に就く父もたまにしか帰ってこないと言っていた。
「父は循環器専門の内科医でね。昔から学会やら講習会やらでよく東京を行き来してて、学会後はいつも同じスナックで飲んでたらしい。そのスナックで働いてた母と知り合ったんだってよ。で、俺ができた」
えらく話が飛んだが、とどのつまりはそういうことだ。
「だけど父には本当の家族がいる。俺と母のところへは学会で東京を訪れる時に寄るくらいだった。『たまに帰る』というより、『たまに寄る』。ま、連絡は取り合ってたし、ちゃんと顔を見せるって点では、母に対しては誠実だったのかもな」
「……瞬には……」
「病気が分かった時、父がこっちに引っ越してこいって言ってさ。専門だし、診てくれるつもりだったのかもしれない。母も俺も心細かったから何も考えずに引っ越してきたんだ」
初めてピアノ教室で会った頃のことだろう。瞬は続けた。
「だけど、診てもらえなかった。病院に行っても別の先生に任されて父から病気に触れることはなかったし、その頃から父は俺たちにあまり会いに来なくなった。投薬と定期健診だけで三年が過ぎた頃、家に突然、正妻が現れたんだ。人の家庭を壊しにのこのこやってきたのかってね。俺からすれば知ったこっちゃない、こっちは命懸かってんだと思ったけど、父は何かしてくれるわけでもない、先に道徳に反したのは両親だ。すぐに立ち去れと言われて返す言葉もないまま、俺と母は東京に戻ったんだ。父は一度も連絡をしてこなかった」
当時、中学生だった岬にそんなややこしい事情を説明したところで理解できるはずがないし、納得しなかっただろう。それならいっそ何も言わずに去ったほうが良いと考えたのかもしれない。
「……心臓のほうは?」
「良くも悪くもなってない。でも、そんな騙し騙しの生活で病気と付き合ってきたんだよ。今更、完治したいとは思わない。……実を言うと、ピアニストは夢だった。でもこんな体じゃ、到底なれないだろ」
「本当に、完治できないの?」
「根本的に治そうと思ったら移植しかない。でもそれには莫大な金が要るし、ドナーもすぐには見つからない。選択肢に入りもしない」
「じゃあ……俺の心臓を使えよ」
瞬は眉を顰めて、岬を睨んだ。
「瞬はプロのピアニストになるべきだ。色んな人に瞬のピアノを聴いてほしい。それが叶うんなら、惜しくない」
立ち上がった瞬は、握った拳を岬の頬をめがけて振り下ろした。打たれた岬はソファから崩れ落ちて、床に倒れ込む。唇を切ったらしく、血の味がした。起き上がるより先に瞬に胸ぐらを掴まれて、上半身を無理やり瞬のほうへ向かされる。目の前の瞬は、今まで見たこともない険しい表情で岬を睨んでいた。
「軽々しく言うな、だからお前には話したくなかったんだ」
「だけど……瞬は俺なんかより、よっぽど才能があって……それをする意義は充分にある」
瞬は再び拳を岬の前に構えたが、瞬から目を逸らさない岬の眼に、その手を下ろした。そして鼻で笑う。
「……大体、移植は脳死状態の人から家族の同意を得てからじゃないとできない。普通に考えて無理なんだよ。お前のそういう軽率な発言は、患者を傷付けることだってあるんだ」
「……ごめん、なさい……」
けれど、方便で言ったつもりはない。瞬が生きられるなら本気で差し出してもいいと思った。
――でも、父さんだけじゃなく俺までいなくなったら、母さんは独りになる。
ふいにそんな現実的な考えが浮かび、途端に冷静になる。ひとつのことを決めるのですら、自分の意志だけではどうにもならない。
瞬は岬の腕を取り、ソファに座らせた。
「確かに数年前までは絶望的な病気だったけど、今では投薬だけでも改善されることも多いんだ。だからお前が思い悩む必要はない」
瞬は窓の外に目をやった。橙の夕日が落ちようとしている。
「帰れ。もう満足しただろ」
「嫌だ、帰らない」
「……邪魔なんだよ」
「瞬が好きだ」
「……」
「瞬の手も、目も、顔も体も、……瞬の弾くピアノが好きだ。……だ、から」
どうも感情が高ぶると涙が出る性質らしい。
「諦めるなよ……」
瞬は窓ガラスに映る岬のすすり泣く姿を見ていた。
こんなはずじゃなかったと、瞬はラウンジで岬に声を掛けたことを後悔した。昔から常に受け身だった岬のことだ。キスをしようが体に触れようが拒否こそしないものの、必要以上に同調はしてこなかった。体を重ねたのも、拒めなかっただけで特異な感情は抱いていないだろうと思っていた。実際、岬の口からそういった胸の内は聞かされたことがない。それなのに、今になってそんなことを言うなと、小さく泣いている岬を愛しく思う一方で、憎たらしさもあった。
「……なんだよ……。せっかく諦めがついてきたところだったのに」
瞬は堰を切ったように力強く岬を抱き締める。
「お前は、心臓に悪いんだよ」
「なんで……」
「一緒にいたら……痛く、なる……」
その痛みがどういうものか、岬は知っている。けれど岬にとって、その痛みは喜びを感じるものだ。胸の高鳴りと直接感じる体温や感触や匂いに、どこまでも酔える。それが病気から来るものではないことくらい分かっていた。岬は瞬の背中に手を回した。
「瞬といたい。……昔みたいに」
瞬は抱き締める腕に更に力を込め、岬の首筋に唇を当てた。
「岬、」
耳のすぐ近くで聞こえる声に鳥肌が立った。再会してから名前を呼ばれるのは初めてだった。
「これ、痛い?」
先ほど打たれた時に切った唇のことを言う。じんじんと響く感覚はあるが、痛みは引いている。
「大丈夫。もう痛くない」
「……ごめん」
瞬はまだ血が滲んでいる傷口を庇いながら、触れるようにキスをした。一度、唇を合わせると待ち侘びたと言わんばかりに押し付け合った。互いが求めて舌を絡めて、熱い吐息は当たり前に同期する。
これなんだ、と岬は思った。脳みそが溶けそうになるほど熱くて、気持ち良くて、もっと欲しいと息苦しさすら心地良い。それがあってのキスなのだ。
名残惜しく唇を離すと、瞬は再び岬の頭を抱え込んだ。そして独り言にも思える小さな声で「本当はずっと会いたかった」とこぼし、それを聞いた岬はまた泣いた。瞬は、頬をつたう岬の涙を指で拭きながら言う。
「お前、本当によく泣くよな」
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