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本当の気持ち1

 父が入院して一ヵ月半が過ぎた。大きな変化はなくとも、やはり容体は悪くなってきている。食欲にはムラがあり、病院の食事と母が持ってきたおかずをすべて完食する日もあれば、ほとんど手をつけない日もある。看護師に強く勧められてリハビリをしても、やはり浮腫んだ足で歩くのは辛いらしく、車椅子に頼りがちだ。胸の圧迫感は強くなり、何をするのも億劫なのかベッドの上でうなだれて胸をさする姿をよく見るようになった。抗ガン剤治療をしていないので、副作用がない分負担が少ないのはせめてもの救いかもしれない。

「父さん、だいぶ冷えてきたけど、病室は寒くない?」

「一日中、エアコンを効かせてくれるからな。外は寒そうだな」

「日中、晴れてる時は暖かい日もあるんだけどね。そういう時くらいは散歩にでも出たほうがいいよ」

「面倒なんだ」

「そこを面倒くさがっちゃ駄目だろう。母さんと行くとか」

「たまに行くけどな。お母さん、ちょっと歩いてみろとか、うるさいんだ」

 子どもか、と、噴き出した。

「そういえば……前に、ピアノの音がどうとか、言ってただろう」

 父の唐突な振りに、心臓がドキ、と波打った。

「思い出したんだけど、ずっと前に、夕方にピアノの音が聞こえたことがあった。あんまり綺麗なもんだから、てっきり病院がCDでもかけてるのかと思ってたんだ」

「……最近は、聞こえた?」

「いや、どうだったかな。聞こえてないと思うがな」

 父は自分の聴力に自信がない。岬からすれば普通に会話もしているし、記憶もしっかりしているので心配することはないと思うのだが、引きこもりの生活が心身を衰えさせることに心配があるのか、少しでも聞こえにくいと耳が遠くなったなどと嘆いている。
 一時的な退院も勧めてみるものの、それはそれで不安らしい。なるべく本人の希望通りにしたいけれど、それに付き合う看病側にもけっこうな負担があるのは正直なところだ。

「父さんな、ピアノには詳しくないんだけど、ひとつだけ好きな曲があるんだ」

「へぇ、なんて曲?」

「それが、作者も曲名も分からないんだ。有名な曲なんだけど」

「歌ってみてよ」

 その時、看護師がバイタルチェックをしに現れた。

「息子さん、毎日来てくれるんですねぇ、いいですね」

「受験生なのに、まっすぐ帰れって言うのに聞かないんですよ」

「そりゃあ、お父さんのこと心配ですもの。はい、酸素測りますよ」

「岬、もう帰りなさい」

「……じゃ、また明日」
 
 岬は看護師に頭を下げて、病室を出た。
 昨日の木曜日、図書室に寄らずに病院に寄って院内を歩き回ってみたけれど、瞬の姿はなかった。たまたま会えないのではなく、完全に避けられているというのは明らかだ。本当にもう話すことはないのか、事情を話してくれなくても、せめて昔のように他愛ない会話をすることすら許されないのか。
 ふいに、斎藤のしつこさにうんざりしていた時の気持ちを思い出した。しつこいのは誰だって鬱陶しい。瞬も自分のしつこさに、さぞかしうんざりしているだろうと冷静に考えると、もう探し回るのはやめようと思った。自分が探すことで、瞬が病院に通い辛くなっても困る。せめて瞬の言う病気が早く良くなることを祈るしかなかった。

 ――だけど、持病って、なんだろう。

 ロビーのソファに座っている老人二人の会話がふいに耳に入った。

「昨日、西山先生が急な不在で今日の診察に変えてくれたの」

「昨日は誰先生?」

「山崎先生。やっぱりねぇ、かかりつけの先生じゃないと不安なのよ。それに西山先生は循環器科でも有名って話ですしね」

「おたく、投薬だけ?」

「ええ、ペースメーカーも考えたんだけど……」

 ――木曜診察……、循環器……、ペースメーカー……。

 岬は途端に胸がざわついて、掲示板に提げられている各科担当医のスケジュール表を確認しに急いだ。内科の欄を見ると、岬の胸騒ぎを的中させる文字を見た。

『毎週木曜は、心臓内科のみ』

 岬は立ち眩みを起こしてその場にしゃがみ込んだ。通りかかった人間に声を掛けられるが、答えられない。――瞬の持病……、

「……心臓……?」

 ところどころで思い当たる節はあった。
 瞬はスポーツをしなかった。運動をするとしたら、学校の登下校とストレッチ、たまに軽くジョギングをする程度だと言っていた。体育の授業のことを聞いても、「さあ」と返ってくることが多かった。体育や部活での激しい運動は止められていたのかもしれない。
 外食はあまり好まなかった。何度か瞬が家で食事をする光景を目にすることがあったが、精進料理のような健康的なメニューばかりだったのを覚えている。
 あの夜見た、やけに青白い顔、キッチンに入ることを不自然なほど止めた。

 ――薬を見られたくなかった?

 考えるほどつじつまが合ってしまうことに、岬は動揺を隠しきれなかった。今すぐ、瞬に会って確かめたい。病院を出た岬の足は、瞬のマンションへ向かおうとしている。

 ――でも、向こうは会いたくないんだ。

 また「帰れ」と追い返されるか、居留守を使われるか、どちらにしても瞬の口から事実を聞くことは難しい。

 ――突き放すのは、俺に心配かけたくないから……?

 今度は自分に都合の良いように解釈する。交差点で立ち尽くしていた岬は、決心して瞬のマンションへ足を進めた。

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