拒絶
学校帰りにいつものように病院へ寄ったら、珍しく病室に母がいた。母はいつも岬が学校に行っているあいだに訪れるので、病室で会うことは滅多にない。柿を剥いているところだった。
「母さん、来てたの」
「あなたが毎日病室に来て、勉強をおろそかにしてないかってお父さんがうるさいのよ」
「そんなの気にしなくていいのに」
「岬には自分のことを考えて欲しいんだ」
「考えてるって。それに病室で引きこもってる父さんを放っておくほど親不孝じゃない。俺に来て欲しくなかったら早く元気になることだね」
「お前も口が達者になったな」
笑いながら咳込んだ。母が背中をさすり、落ち着いたころに柿を差し出す。大きいかしら、もう半分に切りましょうか、と、甲斐甲斐しく世話を焼いている。母は昔から父には憎まれ口を叩いていたが、文句を言いながらもいつも父の希望を叶えてやる。
「岬、あなたも柿を食べたら帰って勉強しなさい。お母さんがいるから」
岬はテーブルの柿をひと切れ口に含み、「じゃあ」と手を上げて早々に病室を出た。夕陽に照らされた父の顔は、いつもよりもクマが目立っていた。
瞬とは二度目の再会からまた会えずにいる。一体、彼がどういう時にこの病棟に訪れるのか見当がつかない。通院なのか見舞いなのか、いずれにせよあまり良い理由は思いつかなかった。ナースステーションに聞いてみても「一週間に一度、来るか来ないか」と曖昧に言われただけだ。もっとも、瞬と岬の関係など知られてもいないし、個人情報なので迂闊に喋るわけにもいかないのだろうが。
大学に通っているとしたら、岬の志望校と同じかもしれない。このあたりの大学は限られている。大学に忍び込んででも探しに行こうか、などと思案していたら、病院を出て数メートル先に今まさに考えていた人物の背中を見つけた。岬はその背中を追って腕を掴んだ。瞬は驚いた顔で岬を見下ろしたあと、げんなりとする。
「またお前か」
「今日はピアノ弾かないの」
「あそこではもう弾かない」
「なんで」
「お前がいるからだ」
岬が眉を顰めると、ばつが悪そうに続けた。
「……もともと、遊びで弾いていいところじゃない。木曜は午後が休診だから少しだけならいいって許可もらって、たまに弾かせてもらう。……あそこに入院してる患者の気も多少は紛れるらしい」
「……木曜に来てるんだ」
瞬は小さく「しまった」と舌打ちをした。
「なんで、そんなに俺を敬遠するわけ」
「……」
「再会に浸りたいとかじゃない。ただ俺は聞きたいだけなんだ。なんで黙って引っ越したのか」
「こないだ言っただろ。事情があった」
「だから、その事情が知りたい」
「プライバシーの問題だ」
「その言い訳はずるいと思う。そんな簡単な関わりじゃなかったはずだ」
「もう忘れろ」
「忘れないし、忘れたこともない。大体、全部瞬がやったことだろ」
「生意気になったな。いつからそういう口を利くようになったんだよ」
「瞬は冷たくなった」
瞬は前髪を搔き上げ、暫く無言で岬を見つめたあと、踵を返して歩き出した。
「どこ行くんだよ」
「帰る」
「俺も行く」
立ち止まって振り返り、「図々しいな」と睨みつけたが、駄目だとは言わなかったので岬は瞬のあとをついて行った。
瞬は背筋を伸ばして姿勢よく歩くので、形の綺麗な背中が大きく見えた。この四年間で岬も身長は伸びたが、やはり男子としては標準より低めだ。骨格と成長力の違いを呪いたくなるが、違いがあるからこそ惹かれたのだろうと思うと、その細くも逞しい背中に抱き付きたくなる。けれど、岬に一度も振り向かない瞬からは、そうさせてはくれない距離を感じて哀しくなった。
瞬の自宅は病院から二十分ほど歩いたところにある七階建ての賃貸マンションだ。かつて瞬が暮らしていたマンションは地元ではそこそこ上等なマンションだったので、目の前に建っている時代を感じさせる古いマンションが、瞬には不釣り合いな気がした。子どもじみたカジュアルな服装といい、生活水準になんらかの変化があったことは否めない。
ロビーのオートロックを解くと自動ドアが開き、瞬はエレベーターへ進んでいく。岬はここまで来ておきながら中に入るのを躊躇った。そこでようやく瞬が振り返り、
「入らないのか」
「は、入ってもいいの?」
「自分から来るって言ったんだろう。今更気を遣われても追い返すわけにいかないだろ。俺の体裁も考えろよ」
「……ごめん」
瞬の部屋は七階の角部屋だ。狭い玄関から進むと十帖ほどのリビングがあり、そこにはソファとガラス製のローテーブル、その奥には黒のアップライトピアノが置かれていた。殺風景なセンスは以前と変わりないが、日当たりがいいので光が部屋全体を神々しいほどに照らしている。居場所が分からず突っ立っていたら、瞬がマグを差し出した。牛乳の割合が多目のコーヒーだ。昔から岬が好む加減である。
「ありがとう……」
瞬はソファを指差し、岬はそれに従って腰を下ろした。スプリングが軋む。
「グランドピアノは?」
「この部屋には大きすぎるから、引き取ってもらった。別にグランドピアノである必要もないし」
「ひとりで暮らしてるの?」
「まあな。母親は去年、死んだ」
「そ、そうなんだ……」
コーヒーに口をつける。ひとり分の間隔を空けて瞬が隣に座っている。視線を感じて瞬に顔を向けたが、すぐに背けられた。かつては穴が開くほど見つめられたというのに、その変貌ぶりには泣けてくる。
「飲んだら、帰れ」
「帰りたくないって言ったら」
「俺にどうしろって言うんだ」
「ピアノを弾いて欲しい」
「……」
「引っ越す直前に、弾いてくれって約束しただろ。まだ果たされてない。……なんの曲か覚えてる?」
「覚えてないな」
「……じゃあ、なんでもいいから弾いてよ。このあいだ病院で弾いてたラヴェル、また聴きたいな」
「それ聴いたら、帰るか?」
「今日のところは」
瞬はピアノの前に進んだ。
「どうせなら、違う曲を弾いてやるよ」
そして弾き始めたのは『エディットピアフを讃えて』である。
フランシス・プーランクがシャンソン歌手だったエディット・ピアフの才能を讃えて作った即興曲だと、岬はテレビを見て知った。単に曲調が好みだったので深く考えずに練習したのだが、楽譜通りに演奏しても上手く弾けた試しがない。動画サイトで何人もの演奏を見ては参考にしようとしたが、どれを聴いてもしっくりこなかった。
表現力。唯一分かったことは、この曲を弾くのに大事なのは岬の苦手な表現力であるということだった。そもそもシャンソンをよく知らない少年が、この曲を弾こうというのが無謀な話だ。背伸びをして弾いても楽しいはずがない。斎藤の、あの退屈そうな反応はクラシックに興味がないというより岬の演奏に共感できなかったからだと、瞬の演奏を聴いて気付いた。瞬の演奏は、動画サイトで見たどの演奏よりもはるかに良い。
小さな体で、生まれた瞬間から死に至るまで壮絶な愛の修羅場と別れを繰り返し、波乱万丈な人生を歩みながらその才能を認められたピアフを、そんな彼女の熱烈なファンだったプーランクを、まるで瞬が当時の彼らを実際に知っているかのような臨場感があった。Piaf(すずめ)の鳴き声のようなシャンソンを漂わせた甘い音色。昔から一音、一音を全身全霊で奏でる瞬にはピッタリだと岬は思った。
――覚えてたんじゃないか。
別人かと思うほどの変わりようはショックだった。けれど、この音色さえあれば瞬という人間の存在を証明できる。容姿や性格など無意味だ。目の前に瞬がいる喜びを、岬はようやく噛みしめた。弾き終えた瞬は、鍵盤に視線を落としたまま言う。
「泣くな」
背中を丸めて岬は嗚咽を洩らしていた。
「だって……」
「もう十八だろ。情けないな」
「どうして……プロにならないの……」
「……」
「瞬なら絶対、なれるはずだ。なんで音大に行かなかったんだよ。こんなところで嗜むだけじゃ勿体ないよ」
「俺の勝手だろ」
「だって、……昔は名門のピアノ教室に通ってたって、聞いたことがある……」
「プロの世界はそんなに甘くない」
「引っ越したのと、変わったのと、何か関係ある……?」
「約束は果たしたんだ。もう帰れ」
「事情くらい話してくれたっていいじゃないか!」
「お前が知る必要はないんだよ! いいから帰れ‼」
「納得できない!」
「しなくていい! もう俺に会いに来るな!」
腕を引っ張られて、無理やり部屋の外へ追い出された。閉めようとするドアを、足を挟んで阻止する。
「せめて病院に通う理由を言え」
「たいしたことない、持病だ。足を折るぞ、どけ」
「持病って!? いつから!」
「お前に答える義務はない、本当に俺のことは忘れろ」
隙間から体を突き飛ばされ、尻もちをついた。すぐに立ち上がってドアノブを掴んだが、ドアは閉められて中から鍵を掛けられた。
「瞬!」
拳でドアを叩いても、返事はない。
「なんで……」
⇒
「母さん、来てたの」
「あなたが毎日病室に来て、勉強をおろそかにしてないかってお父さんがうるさいのよ」
「そんなの気にしなくていいのに」
「岬には自分のことを考えて欲しいんだ」
「考えてるって。それに病室で引きこもってる父さんを放っておくほど親不孝じゃない。俺に来て欲しくなかったら早く元気になることだね」
「お前も口が達者になったな」
笑いながら咳込んだ。母が背中をさすり、落ち着いたころに柿を差し出す。大きいかしら、もう半分に切りましょうか、と、甲斐甲斐しく世話を焼いている。母は昔から父には憎まれ口を叩いていたが、文句を言いながらもいつも父の希望を叶えてやる。
「岬、あなたも柿を食べたら帰って勉強しなさい。お母さんがいるから」
岬はテーブルの柿をひと切れ口に含み、「じゃあ」と手を上げて早々に病室を出た。夕陽に照らされた父の顔は、いつもよりもクマが目立っていた。
瞬とは二度目の再会からまた会えずにいる。一体、彼がどういう時にこの病棟に訪れるのか見当がつかない。通院なのか見舞いなのか、いずれにせよあまり良い理由は思いつかなかった。ナースステーションに聞いてみても「一週間に一度、来るか来ないか」と曖昧に言われただけだ。もっとも、瞬と岬の関係など知られてもいないし、個人情報なので迂闊に喋るわけにもいかないのだろうが。
大学に通っているとしたら、岬の志望校と同じかもしれない。このあたりの大学は限られている。大学に忍び込んででも探しに行こうか、などと思案していたら、病院を出て数メートル先に今まさに考えていた人物の背中を見つけた。岬はその背中を追って腕を掴んだ。瞬は驚いた顔で岬を見下ろしたあと、げんなりとする。
「またお前か」
「今日はピアノ弾かないの」
「あそこではもう弾かない」
「なんで」
「お前がいるからだ」
岬が眉を顰めると、ばつが悪そうに続けた。
「……もともと、遊びで弾いていいところじゃない。木曜は午後が休診だから少しだけならいいって許可もらって、たまに弾かせてもらう。……あそこに入院してる患者の気も多少は紛れるらしい」
「……木曜に来てるんだ」
瞬は小さく「しまった」と舌打ちをした。
「なんで、そんなに俺を敬遠するわけ」
「……」
「再会に浸りたいとかじゃない。ただ俺は聞きたいだけなんだ。なんで黙って引っ越したのか」
「こないだ言っただろ。事情があった」
「だから、その事情が知りたい」
「プライバシーの問題だ」
「その言い訳はずるいと思う。そんな簡単な関わりじゃなかったはずだ」
「もう忘れろ」
「忘れないし、忘れたこともない。大体、全部瞬がやったことだろ」
「生意気になったな。いつからそういう口を利くようになったんだよ」
「瞬は冷たくなった」
瞬は前髪を搔き上げ、暫く無言で岬を見つめたあと、踵を返して歩き出した。
「どこ行くんだよ」
「帰る」
「俺も行く」
立ち止まって振り返り、「図々しいな」と睨みつけたが、駄目だとは言わなかったので岬は瞬のあとをついて行った。
瞬は背筋を伸ばして姿勢よく歩くので、形の綺麗な背中が大きく見えた。この四年間で岬も身長は伸びたが、やはり男子としては標準より低めだ。骨格と成長力の違いを呪いたくなるが、違いがあるからこそ惹かれたのだろうと思うと、その細くも逞しい背中に抱き付きたくなる。けれど、岬に一度も振り向かない瞬からは、そうさせてはくれない距離を感じて哀しくなった。
瞬の自宅は病院から二十分ほど歩いたところにある七階建ての賃貸マンションだ。かつて瞬が暮らしていたマンションは地元ではそこそこ上等なマンションだったので、目の前に建っている時代を感じさせる古いマンションが、瞬には不釣り合いな気がした。子どもじみたカジュアルな服装といい、生活水準になんらかの変化があったことは否めない。
ロビーのオートロックを解くと自動ドアが開き、瞬はエレベーターへ進んでいく。岬はここまで来ておきながら中に入るのを躊躇った。そこでようやく瞬が振り返り、
「入らないのか」
「は、入ってもいいの?」
「自分から来るって言ったんだろう。今更気を遣われても追い返すわけにいかないだろ。俺の体裁も考えろよ」
「……ごめん」
瞬の部屋は七階の角部屋だ。狭い玄関から進むと十帖ほどのリビングがあり、そこにはソファとガラス製のローテーブル、その奥には黒のアップライトピアノが置かれていた。殺風景なセンスは以前と変わりないが、日当たりがいいので光が部屋全体を神々しいほどに照らしている。居場所が分からず突っ立っていたら、瞬がマグを差し出した。牛乳の割合が多目のコーヒーだ。昔から岬が好む加減である。
「ありがとう……」
瞬はソファを指差し、岬はそれに従って腰を下ろした。スプリングが軋む。
「グランドピアノは?」
「この部屋には大きすぎるから、引き取ってもらった。別にグランドピアノである必要もないし」
「ひとりで暮らしてるの?」
「まあな。母親は去年、死んだ」
「そ、そうなんだ……」
コーヒーに口をつける。ひとり分の間隔を空けて瞬が隣に座っている。視線を感じて瞬に顔を向けたが、すぐに背けられた。かつては穴が開くほど見つめられたというのに、その変貌ぶりには泣けてくる。
「飲んだら、帰れ」
「帰りたくないって言ったら」
「俺にどうしろって言うんだ」
「ピアノを弾いて欲しい」
「……」
「引っ越す直前に、弾いてくれって約束しただろ。まだ果たされてない。……なんの曲か覚えてる?」
「覚えてないな」
「……じゃあ、なんでもいいから弾いてよ。このあいだ病院で弾いてたラヴェル、また聴きたいな」
「それ聴いたら、帰るか?」
「今日のところは」
瞬はピアノの前に進んだ。
「どうせなら、違う曲を弾いてやるよ」
そして弾き始めたのは『エディットピアフを讃えて』である。
フランシス・プーランクがシャンソン歌手だったエディット・ピアフの才能を讃えて作った即興曲だと、岬はテレビを見て知った。単に曲調が好みだったので深く考えずに練習したのだが、楽譜通りに演奏しても上手く弾けた試しがない。動画サイトで何人もの演奏を見ては参考にしようとしたが、どれを聴いてもしっくりこなかった。
表現力。唯一分かったことは、この曲を弾くのに大事なのは岬の苦手な表現力であるということだった。そもそもシャンソンをよく知らない少年が、この曲を弾こうというのが無謀な話だ。背伸びをして弾いても楽しいはずがない。斎藤の、あの退屈そうな反応はクラシックに興味がないというより岬の演奏に共感できなかったからだと、瞬の演奏を聴いて気付いた。瞬の演奏は、動画サイトで見たどの演奏よりもはるかに良い。
小さな体で、生まれた瞬間から死に至るまで壮絶な愛の修羅場と別れを繰り返し、波乱万丈な人生を歩みながらその才能を認められたピアフを、そんな彼女の熱烈なファンだったプーランクを、まるで瞬が当時の彼らを実際に知っているかのような臨場感があった。Piaf(すずめ)の鳴き声のようなシャンソンを漂わせた甘い音色。昔から一音、一音を全身全霊で奏でる瞬にはピッタリだと岬は思った。
――覚えてたんじゃないか。
別人かと思うほどの変わりようはショックだった。けれど、この音色さえあれば瞬という人間の存在を証明できる。容姿や性格など無意味だ。目の前に瞬がいる喜びを、岬はようやく噛みしめた。弾き終えた瞬は、鍵盤に視線を落としたまま言う。
「泣くな」
背中を丸めて岬は嗚咽を洩らしていた。
「だって……」
「もう十八だろ。情けないな」
「どうして……プロにならないの……」
「……」
「瞬なら絶対、なれるはずだ。なんで音大に行かなかったんだよ。こんなところで嗜むだけじゃ勿体ないよ」
「俺の勝手だろ」
「だって、……昔は名門のピアノ教室に通ってたって、聞いたことがある……」
「プロの世界はそんなに甘くない」
「引っ越したのと、変わったのと、何か関係ある……?」
「約束は果たしたんだ。もう帰れ」
「事情くらい話してくれたっていいじゃないか!」
「お前が知る必要はないんだよ! いいから帰れ‼」
「納得できない!」
「しなくていい! もう俺に会いに来るな!」
腕を引っ張られて、無理やり部屋の外へ追い出された。閉めようとするドアを、足を挟んで阻止する。
「せめて病院に通う理由を言え」
「たいしたことない、持病だ。足を折るぞ、どけ」
「持病って!? いつから!」
「お前に答える義務はない、本当に俺のことは忘れろ」
隙間から体を突き飛ばされ、尻もちをついた。すぐに立ち上がってドアノブを掴んだが、ドアは閉められて中から鍵を掛けられた。
「瞬!」
拳でドアを叩いても、返事はない。
「なんで……」
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