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追憶2‐Ⅱ

 ***

 何度も呼ばれているのに、岬はまったく顔を上げられなかった。徐々に尖ってくる教師の声に混じって、斎藤が岬を呼びながら肩を揺すっている。早く起きて問いに答えなきゃ、とは思うのに、どうにもこうにも目を開けられない。

「――もういい、斎藤、代わりに問題を解け」

「ええ!? 俺っすか!」

 クラスメイトの笑い声とともに斎藤が岬に抗議しているのは聞こえていたが、ほどなくして意識はなくなった。

「岬さぁ、昨日何時に寝たんだよ」

 休み時間になって都合良く目が覚めた。

「……三時半、かな」

「そんな時間まで何やってんだよ。まさか勉強?」

「そのまさか」

「マジかよ、そんな切羽詰まらなくても岬なら余裕だろ?」

「買い被りすぎだよ。昼間、あんまり勉強する時間ないから、夜しかできなくて……」

「病院に行ってるから?」

「まあね……」

「だけど夜くらいちゃんと寝ろ。せめて一時だ。さっきみたいに授業中寝こけて、俺がとばっちり喰らうの御免だからな」

 先日行われた全国模試は手応えがなかった。定期テストの結果も、想定内とはいえ全体的に悪かった。受験生と言ってもまだ秋なので、これから充分巻き返すことはできるのだけど、焦りと不安ばかりが先走る。勉強に対する不安だけじゃなく、彼を取り巻く環境のすべてが不安で仕方がなかった。

「なあ、気晴らししないか?」

「気晴らし?」

 斎藤に誘われて行ったのは音楽室だった。昼休みは通常施錠されているのだが、職員室から鍵を失敬したと言う。

「バレても俺は知らないからな」

「わーかってるって」

 音楽室に入り、斎藤は扉と、ご丁寧に鍵まで掛けた。校内の雑音が遮断されてシン、と静まり返った音楽室は、どこか不気味だ。斎藤は真っ先にピアノの蓋を開け、「さあ、どうぞ」と岬に椅子を勧めた。

「あんまり気分じゃないんだけど」

「そういう時こそ、好きなことしてスカッとしたほうがいいぜ。最近のお前、暗いもん」

 強引で身勝手ではあるが、これも彼なりに岬を気遣ってのことだ。やはり基本的にはいい奴なのである。
 岬は斎藤の気遣いに応えてピアノの前に座った。楽譜は大体、暗譜してある。多少のミスタッチはあれど、曲に馴染みのない人間であれば分からない程度だ。斎藤はピアノの前の席で、頬杖をついて岬の演奏を聴いている。そして演奏中にも関わらず「それ、なんの曲?」と不躾に聞く。

「……『エディットピアフを讃えて』」

「ふーん……知らねぇや」

 悪気がないと分かっていても、目の前で退屈そうにされると気分のいいものではない。とはいえ、クラシックに詳しい男子高校生なんかそうそういない。岬も瞬の影響でクラシックピアノを好んでいるが、もし瞬と出会わずにあのまま電子オルガンに移行していたら、せいぜいソナチネ止まりだっただろう。斎藤の反応は妥当なのだ。

「……だめだ、乗らない」

 弾き切らないうちに手を止めた。

「え、終わり?」

「うん、やっぱり気分が乗らない。せっかく鍵開けてくれたのに悪いけど」

「なんかさー、もっと明るい曲弾けば? 一年の時に弾いたやつ、ああいうのは好きだぜ。あれもクラシック?」

「まあね……。でも、今日はいい。ありがとう」

 ピアノを片して席を立とうとしたら、斎藤に阻まれた。斎藤の影が岬を覆う。

「じゃ、お礼」

 と言って、斎藤は自分の口を指差した。何を言わんとするかは察しがついているが、岬はとぼけてみせた。最初から「こっち」が目的だったらしい。

「だから、『ありがとう』」

「そうじゃなくてさ~、お前もつれないね」

 いきなり両肩を掴んで顔を近付けてくるので、反射的に逸らした。その攻防が何度か続き、斎藤は「そんなに嫌かよ」と笑った。

「俺の何がいいわけ」

「岬は俺のタイプなんだよ。見た目は気が弱そうなのに、喋ると案外強気に出る。そのくりっとした目で睨まれるのもたまらねぇな」

「……マゾなの」

「どっちかというとサドかな。そういうギャップのある奴をどうにかしたい」

 その時、外から「おい、勝手に使うな」とドアを叩かれた。やりすごせると思ったが、斎藤は諦めない。

「早く行かないと怒られるよ」

「鍵を持ってった時点で手遅れだよ。誰のためにやったと思うんだよ」

「押し売りなら御免だ」

「減るもんじゃないだろう」

 ドアを叩く音は次第に大きくなり、無理にこじ開けようとガタガタ揺れている。

「なあ」

 岬は小さく溜息をついたあと、投げやりにキスをした。「これでいいだろう?」というつもりで冷静に斎藤を見上げると、どういうわけか斎藤は面を食らっていた。その間抜け面にかえって意地悪くなり、岬はもう一度キスをする。そして固まっている斎藤にいたずらな笑みを残して、ひとり先に出て行った。


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