二度目の再会
「お父さん、どんな様子だった?」
味噌汁をテーブルに並べながら、母が聞いた。
「んー……、あんまり食欲ないみたいだね。昨日は看護婦さんに車いすで中庭に散歩に連れてってもらったって。最近、足がひどく浮腫んでるんだって?」
「リハビリをすればいいのに、お父さん、面倒くさがっちゃってしないのよ」
昨日、見舞った時にその浮腫んだ足を見た。普段の倍以上の太さになっていて岬も驚いた。確かにあれではリハビリどころか、用を足しに行くのも億劫になるはずだ。病室のベッドの下に紙オムツを隠しているのも知っている。普通に考えれば何もおかしくはないのだが、やはり自身の親が弱っている事実を突きつけられるとショックではある。息子にそういう姿を見せたくないという両親の心情が分かるだけに尚更だった。
「……ねぇ、母さん」
「ん?」
「父さんが死んだら……」
「岬、」
カチャリと箸を置いて、母は語気を強めて岬を制した。
「今はそんなこと考えなくていいの。お父さんが良くなることを信じなさい。それにあなたは受験だってあるんだから、勉強に集中しなさい」
「……分かった」
けれど心の中は不安と不満しかない。受験勉強に集中したいのはやまやまだが、いつ「その時」が来るかと思うと気が気でない。母だって本心では分かっているはずなのに、あえて考えまいとしている。岬にはそれが腹立たしかった。
広いリビングの大きなダイニングテーブルで、たった二人で静かに食事を取る。元気だった頃の父が恋しい。
***
返却された数学のテストに、ひとまず合格点は取れたと安堵の溜息を洩らした。岬は大学を選ぶのにさほど苦労しない程度の学力はある。成績は常に上位を占めているし模試の判定も悪くないので、教師からはそれなりに期待されている。岬自身、定期テストのためだけにわざわざ勉強しないほうだ。けれども今回は父の入院など想定外の事態もあり、合格点を取れる自信がなかった。もっとも数学は手応えを感じられなかったのだが、まずまずの結果にこれなら他の教科も合格点は取れるだろうと踏んで、無駄な心配はしないことに決めた。
定期テストが終わったと思ったら、来週は全国模試がある。早く受験が終わって欲しい。できれば浪人はしたくない。だが、良くも悪くも受験が終わった春に父はいないかもしれないと考えると、時間が経つのが嫌だとも思う。
放課後に図書室で勉強をするのがここ最近の日課だったが、この日は図書室に寄らずに真っ先に病院へ向かった。木曜日は午後が休診なので、総合病院でも院内は閑散とする。もともと病棟は静かだが、いっそう寂々とする病院で父が暗い気分になっていないかが心配だった。今日は汗ばむほど気候がいい。自分が車椅子を押して父と散歩に出ようかと考えながら、病室に入った。
「父さん、来たよ」
リクライニングベッドをゆっくり起こしながら、父は目をこすった。
「毎日来なくていいぞ」
「ひとりじゃ退屈だろ? 今日は外に出た? あったかくていい天気だよ。散歩でもしない?」
「いや……、ありがとう。今日はいい」
「そう? 俺も今日は時間あるから、行きたくなったら言ってよ。食事は? 食べたの?」
「お前が持ってきたゼリーとヨーグルトは食べた」
「ご飯も食べなよ」
「病院食は不味いんだ」
と、咳込みながら言った。ベッドの横に腰掛け、「さすろうか」と言うと、父は布団をめくった。気休め程度にしかならないだろうが、ぱんぱんに浮腫んだ足を岬はまんべんなくさする。
「母さんは来た?」
「午前中いっぱいいて、夜にまた来るらしい。代わる代わる悪いな。……このあいだの試験はどうだったんだ」
「ちょっと自信なかったんだけどね、まあ合格点は取れそうだよ」
「志望はどこだったっけ」
「……K大」
実家から通える国立大学だ。父は岬が、残される母を想って言ったのだと、すぐ気付いた。
「お前ならもっと上を目指せるだろう。そんな中途半端なところに行くな」
「そんなことないさ。興味深い学部もある。それに、なんだかんだで地元が好きだからね」
というより、正確に言えば行きたい大学なんて思いつかない。将来を見据えての目標を掲げたこともない。それほど行きたい大学ではないが、「母が心配だから」という理由で選ぶには都合がよかった。何より、そこならまず浪人の心配はない。
「父さんや母さんに合わせるんじゃなくて、自分のやりたいようにしろ」
「大丈夫、やってる。……それよりさ、ここ最近、ピアノの音が聞こえなかった?」
「ピアノ? どこから」
「ラウンジ。ピアノがあるだろ」
「さあ……耳も遠くなったからなぁ……分からないな」
「そう」
「ピアノは弾いてるのか?」
「最近はあんまり」
「あのラウンジのピアノは……誰が弾いてもいいのか? 聞いてみるといい」
父は「もういい」と、足をさする岬を止める。岬はすぐ戻ると残して、ナースステーションに向かった。
「あの、すみません」
ひと気のないナースステーションに呼び掛けると、奥で事務作業をしている看護師がこちらに向かってきた。
「はい、どうされました?」
「ラウンジのピアノって、弾いても……いいんですか?」
「あー、うーん。どうかなぁ。イベントの時以外は使わないけど……」
「少しでいいので……。父に聴かせたいんです」
ずるい理由だなと自分でも思ったが、看護師は「少しだけね」と、許可をくれた。ラウンジに入り、ピアノに被さっている色褪せたカバーを取った。蓋を開け、更に布を取ると、少し黄ばんだ白鍵とくすんだ黒鍵が現れた。古い型だが、イベントで定期的に使われるなら調律はしてあるだろう。ピアノの前に座り、待望の瞬間に緊張しながら鍵盤の上に両手を添えた。軽く深呼吸をしてから、指を動かす。岬はアルペジオを利かす曲が得意だ。指が釣りそうになりながらも難所を切り抜けて、ひとつひとつ音を繋いでいくのが気持ちが良い。久しぶりなので関節が軋む感覚はあるが、指を走らせるうちに体が温まってくる。遠慮気味だったタッチに、だんだん強弱が加わった。その時、
「相変わらず、カラッポな演奏をするんだな」
思いがけず至近距離で懐かしい声が聞こえ、指を止めた岬はゆっくり顔を上げた。グランドピアノの真正面に立っているのは、岬がずっと探していた、あの音色の主である。
「……瞬……」
目の色まで髪に合わせて茶色くなっているのには驚いた。勿論、カラーコンタクトだろう。かつての瞬は、いつも丁寧にアイロンがけされたシャツかポロシャツを品良く着こなしていたが、目の前にいる瞬は体に馴染んだオフホワイトのカットソーとベージュのチノパンといった、朧げな格好をしている。靴まで薄汚れたスニーカーだ。狐色の気取った髪型に対して子どもじみた服装がアンバランスだが、もとより長身でスタイルのいい瞬にはそれが妙に似合った。
瞬は腕組みをして岬を見下ろし、演奏についての批判を続けた。
「そんな淡々とした『即興曲』は初めて聞いたぜ。面白くもなんともない、シューベルトに失礼だと思わないか?」(『即興曲op.90-2』)
「え……あ、久しぶりに……弾いたから……」
「久しぶりだろうが初めてだろうが、演奏は感情を込めてするものだ。大体、お前の演奏は昔っから無感情なんだよ。機械的、無機質」
岬の記憶が正しければ、瞬はこんな粗暴な物言いをする人間ではなかった。しかも四年ぶりの再会なのに、それこそこんな無感動な出会い方があるだろうか。人違いなのか、という疑問が一瞬よぎったが、「昔の岬の演奏」を知っているようなので、やはり彼は「あの」瞬だろう。
「え、あの……瞬……」
「四年も経ちゃ、ちょっとは上手くなったかと思ったけど、変わってないんだな。それどころか腕が落ちたんじゃないのか? それなら小学生のガキでも弾けるぜ」
「瞬!」
「なんだよ、人の名前を何度も呼ぶな」
じろりと睨まれ、少したじろいだ。
「瞬だよな? 今田先生の教室に一緒に通った……」
「ちょっと、退けよ」
岬の隣に立ち、瞬は肩を軽く押して岬を椅子から立ち上がらせた。代わって瞬が座り、先ほど岬が弾いたものと同じものを弾く。
――全然、違う。
別の曲を弾いているのかと思うくらいだった。危なげない指使い、ひとつひとつの真珠のような音の粒が綺麗に繋がり、全身で強弱をつける。長い指、そしてやっぱり口角が少し上がる。この繊細な音色は間違いなく、彼のものだ。岬が瞬の音を忘れるはずがない。
「………瞬、」
「だから、何度も呼ぶな」
瞬が手を止めた途端、岬の目から涙が零れた。瞬は鍵盤に落ちた雫を見て、小さく溜息をついた。
「おい、みっともないだろ」
「だって……」
聞きたいことは山ほどある。何故、姿を消したのか、四年間どこで何をしていたのか、大体どうして会っていきなり、なじられなきゃいけないのだ。けれども、それより言いたかった言葉がある。
「……やっと会えた」
「……」
瞬は鍵盤に布を被せ、大袈裟にバン、と音を立てて蓋を閉めた。瞬は決してピアノを乱暴に扱うことはしなかった。ひとつの動作ですら雑になっていることに困惑した。
「こんなところで会うとはな」
「瞬はなんでこの病院に来てるの。ここの看護師が『たまにピアノ弾きに来る子がいる』って言ってたけど、瞬なの?」
「……まあね」
「いつ来てるの。……お見舞い?」
「お前はなんでだよ」
聞いているのはこっちなのにと思ったが、言い返す隙を与えない気迫に怖気付いて、素直に答えた。
「父親が、この病棟に入院してるから毎日、見舞いに来てるんだ」
「……どこが悪いんだ」
「肺……。瞬は、」
「今も、今田先生の教室通ってんのか?」
「え? いや、中三の時に辞めた……」
瞬は自分のことを聞かれると、すかざす話を変えてくる。この不自然な対応が岬に僅かな不安を与えた。
立ち上がった瞬と向き合う。岬の目線の位置には瞬の鎖骨があった。身長があるぶん細身だが、血管が浮き出る筋のある腕はやはり男性特有のものだ。見上げると目が合い、瞬は柔らかく岬に微笑みかける。が、その表情を見せたのは一瞬だけで「相変わらずチビだな」と、岬の髪をくしゃっと掴んだ。
「じゃあな」
通り過ぎようとする瞬を、岬は腕を掴んで引き止めた。
「待ってよ、質問に答えてよ」
「お前に話すことはないよ」
「こっちはずっと探してたんだよ」
「……」
「四年前、なんで突然いなくなったんだよ。その四年のあいだ、瞬は何してたんだよ。今は大学に通ってるのか、ピアノは今でも弾いてるのか!?」
瞬は腕を掴んでいる岬の手を思い切り振り払った。
「いっぺんに聞くな」
「ご、ごめん。でも……」
「何も言わずに引っ越したのは悪かった。事情があったんだ。あのあと暫く東京に住んでたけど、去年の春に戻ってきた。ピアノは嗜む程度に弾いてるだけだ」
背中を向けた瞬に、岬は続けて問いかける。
「事情ってなんだよ!?」
「うるさい、事情は事情だ」
「俺は瞬が突然いなくなってショックだったんだぞ!」
「だからピアノが下手くそになったのか?」
笑いながらわざとそんなことを言う。
「なんだよ……会いたかったのに」
「俺は会いたくなかったよ」
呟いた瞬の言葉に、再び岬の目が滲んだ。
「……だって、あの時……」
「あの時?」
「中二の冬……」
「おっと、言うなよ。俺は忘れたいんだ」
「なんでだよ、そっちが」
「だから言うな。お前も昔のことはきれいさっぱり忘れろ」
今度こそ瞬は背を向けてラウンジを出て行った。それでも岬は食い下がる。
「また来るんだろ!? いつ来るんだよ!」
瞬は振り返らずに右手をひらひらと振った。
「絶対来いよ! 来なくても見つけてやるからな!」
答えることなくエレベーターの中へ姿を消した。
感動的とは程遠い再会だった。見た目も違う、喋り方も違う、そして素っ気ない態度。それでも音色は変わっていなかった。
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味噌汁をテーブルに並べながら、母が聞いた。
「んー……、あんまり食欲ないみたいだね。昨日は看護婦さんに車いすで中庭に散歩に連れてってもらったって。最近、足がひどく浮腫んでるんだって?」
「リハビリをすればいいのに、お父さん、面倒くさがっちゃってしないのよ」
昨日、見舞った時にその浮腫んだ足を見た。普段の倍以上の太さになっていて岬も驚いた。確かにあれではリハビリどころか、用を足しに行くのも億劫になるはずだ。病室のベッドの下に紙オムツを隠しているのも知っている。普通に考えれば何もおかしくはないのだが、やはり自身の親が弱っている事実を突きつけられるとショックではある。息子にそういう姿を見せたくないという両親の心情が分かるだけに尚更だった。
「……ねぇ、母さん」
「ん?」
「父さんが死んだら……」
「岬、」
カチャリと箸を置いて、母は語気を強めて岬を制した。
「今はそんなこと考えなくていいの。お父さんが良くなることを信じなさい。それにあなたは受験だってあるんだから、勉強に集中しなさい」
「……分かった」
けれど心の中は不安と不満しかない。受験勉強に集中したいのはやまやまだが、いつ「その時」が来るかと思うと気が気でない。母だって本心では分かっているはずなのに、あえて考えまいとしている。岬にはそれが腹立たしかった。
広いリビングの大きなダイニングテーブルで、たった二人で静かに食事を取る。元気だった頃の父が恋しい。
***
返却された数学のテストに、ひとまず合格点は取れたと安堵の溜息を洩らした。岬は大学を選ぶのにさほど苦労しない程度の学力はある。成績は常に上位を占めているし模試の判定も悪くないので、教師からはそれなりに期待されている。岬自身、定期テストのためだけにわざわざ勉強しないほうだ。けれども今回は父の入院など想定外の事態もあり、合格点を取れる自信がなかった。もっとも数学は手応えを感じられなかったのだが、まずまずの結果にこれなら他の教科も合格点は取れるだろうと踏んで、無駄な心配はしないことに決めた。
定期テストが終わったと思ったら、来週は全国模試がある。早く受験が終わって欲しい。できれば浪人はしたくない。だが、良くも悪くも受験が終わった春に父はいないかもしれないと考えると、時間が経つのが嫌だとも思う。
放課後に図書室で勉強をするのがここ最近の日課だったが、この日は図書室に寄らずに真っ先に病院へ向かった。木曜日は午後が休診なので、総合病院でも院内は閑散とする。もともと病棟は静かだが、いっそう寂々とする病院で父が暗い気分になっていないかが心配だった。今日は汗ばむほど気候がいい。自分が車椅子を押して父と散歩に出ようかと考えながら、病室に入った。
「父さん、来たよ」
リクライニングベッドをゆっくり起こしながら、父は目をこすった。
「毎日来なくていいぞ」
「ひとりじゃ退屈だろ? 今日は外に出た? あったかくていい天気だよ。散歩でもしない?」
「いや……、ありがとう。今日はいい」
「そう? 俺も今日は時間あるから、行きたくなったら言ってよ。食事は? 食べたの?」
「お前が持ってきたゼリーとヨーグルトは食べた」
「ご飯も食べなよ」
「病院食は不味いんだ」
と、咳込みながら言った。ベッドの横に腰掛け、「さすろうか」と言うと、父は布団をめくった。気休め程度にしかならないだろうが、ぱんぱんに浮腫んだ足を岬はまんべんなくさする。
「母さんは来た?」
「午前中いっぱいいて、夜にまた来るらしい。代わる代わる悪いな。……このあいだの試験はどうだったんだ」
「ちょっと自信なかったんだけどね、まあ合格点は取れそうだよ」
「志望はどこだったっけ」
「……K大」
実家から通える国立大学だ。父は岬が、残される母を想って言ったのだと、すぐ気付いた。
「お前ならもっと上を目指せるだろう。そんな中途半端なところに行くな」
「そんなことないさ。興味深い学部もある。それに、なんだかんだで地元が好きだからね」
というより、正確に言えば行きたい大学なんて思いつかない。将来を見据えての目標を掲げたこともない。それほど行きたい大学ではないが、「母が心配だから」という理由で選ぶには都合がよかった。何より、そこならまず浪人の心配はない。
「父さんや母さんに合わせるんじゃなくて、自分のやりたいようにしろ」
「大丈夫、やってる。……それよりさ、ここ最近、ピアノの音が聞こえなかった?」
「ピアノ? どこから」
「ラウンジ。ピアノがあるだろ」
「さあ……耳も遠くなったからなぁ……分からないな」
「そう」
「ピアノは弾いてるのか?」
「最近はあんまり」
「あのラウンジのピアノは……誰が弾いてもいいのか? 聞いてみるといい」
父は「もういい」と、足をさする岬を止める。岬はすぐ戻ると残して、ナースステーションに向かった。
「あの、すみません」
ひと気のないナースステーションに呼び掛けると、奥で事務作業をしている看護師がこちらに向かってきた。
「はい、どうされました?」
「ラウンジのピアノって、弾いても……いいんですか?」
「あー、うーん。どうかなぁ。イベントの時以外は使わないけど……」
「少しでいいので……。父に聴かせたいんです」
ずるい理由だなと自分でも思ったが、看護師は「少しだけね」と、許可をくれた。ラウンジに入り、ピアノに被さっている色褪せたカバーを取った。蓋を開け、更に布を取ると、少し黄ばんだ白鍵とくすんだ黒鍵が現れた。古い型だが、イベントで定期的に使われるなら調律はしてあるだろう。ピアノの前に座り、待望の瞬間に緊張しながら鍵盤の上に両手を添えた。軽く深呼吸をしてから、指を動かす。岬はアルペジオを利かす曲が得意だ。指が釣りそうになりながらも難所を切り抜けて、ひとつひとつ音を繋いでいくのが気持ちが良い。久しぶりなので関節が軋む感覚はあるが、指を走らせるうちに体が温まってくる。遠慮気味だったタッチに、だんだん強弱が加わった。その時、
「相変わらず、カラッポな演奏をするんだな」
思いがけず至近距離で懐かしい声が聞こえ、指を止めた岬はゆっくり顔を上げた。グランドピアノの真正面に立っているのは、岬がずっと探していた、あの音色の主である。
「……瞬……」
目の色まで髪に合わせて茶色くなっているのには驚いた。勿論、カラーコンタクトだろう。かつての瞬は、いつも丁寧にアイロンがけされたシャツかポロシャツを品良く着こなしていたが、目の前にいる瞬は体に馴染んだオフホワイトのカットソーとベージュのチノパンといった、朧げな格好をしている。靴まで薄汚れたスニーカーだ。狐色の気取った髪型に対して子どもじみた服装がアンバランスだが、もとより長身でスタイルのいい瞬にはそれが妙に似合った。
瞬は腕組みをして岬を見下ろし、演奏についての批判を続けた。
「そんな淡々とした『即興曲』は初めて聞いたぜ。面白くもなんともない、シューベルトに失礼だと思わないか?」(『即興曲op.90-2』)
「え……あ、久しぶりに……弾いたから……」
「久しぶりだろうが初めてだろうが、演奏は感情を込めてするものだ。大体、お前の演奏は昔っから無感情なんだよ。機械的、無機質」
岬の記憶が正しければ、瞬はこんな粗暴な物言いをする人間ではなかった。しかも四年ぶりの再会なのに、それこそこんな無感動な出会い方があるだろうか。人違いなのか、という疑問が一瞬よぎったが、「昔の岬の演奏」を知っているようなので、やはり彼は「あの」瞬だろう。
「え、あの……瞬……」
「四年も経ちゃ、ちょっとは上手くなったかと思ったけど、変わってないんだな。それどころか腕が落ちたんじゃないのか? それなら小学生のガキでも弾けるぜ」
「瞬!」
「なんだよ、人の名前を何度も呼ぶな」
じろりと睨まれ、少したじろいだ。
「瞬だよな? 今田先生の教室に一緒に通った……」
「ちょっと、退けよ」
岬の隣に立ち、瞬は肩を軽く押して岬を椅子から立ち上がらせた。代わって瞬が座り、先ほど岬が弾いたものと同じものを弾く。
――全然、違う。
別の曲を弾いているのかと思うくらいだった。危なげない指使い、ひとつひとつの真珠のような音の粒が綺麗に繋がり、全身で強弱をつける。長い指、そしてやっぱり口角が少し上がる。この繊細な音色は間違いなく、彼のものだ。岬が瞬の音を忘れるはずがない。
「………瞬、」
「だから、何度も呼ぶな」
瞬が手を止めた途端、岬の目から涙が零れた。瞬は鍵盤に落ちた雫を見て、小さく溜息をついた。
「おい、みっともないだろ」
「だって……」
聞きたいことは山ほどある。何故、姿を消したのか、四年間どこで何をしていたのか、大体どうして会っていきなり、なじられなきゃいけないのだ。けれども、それより言いたかった言葉がある。
「……やっと会えた」
「……」
瞬は鍵盤に布を被せ、大袈裟にバン、と音を立てて蓋を閉めた。瞬は決してピアノを乱暴に扱うことはしなかった。ひとつの動作ですら雑になっていることに困惑した。
「こんなところで会うとはな」
「瞬はなんでこの病院に来てるの。ここの看護師が『たまにピアノ弾きに来る子がいる』って言ってたけど、瞬なの?」
「……まあね」
「いつ来てるの。……お見舞い?」
「お前はなんでだよ」
聞いているのはこっちなのにと思ったが、言い返す隙を与えない気迫に怖気付いて、素直に答えた。
「父親が、この病棟に入院してるから毎日、見舞いに来てるんだ」
「……どこが悪いんだ」
「肺……。瞬は、」
「今も、今田先生の教室通ってんのか?」
「え? いや、中三の時に辞めた……」
瞬は自分のことを聞かれると、すかざす話を変えてくる。この不自然な対応が岬に僅かな不安を与えた。
立ち上がった瞬と向き合う。岬の目線の位置には瞬の鎖骨があった。身長があるぶん細身だが、血管が浮き出る筋のある腕はやはり男性特有のものだ。見上げると目が合い、瞬は柔らかく岬に微笑みかける。が、その表情を見せたのは一瞬だけで「相変わらずチビだな」と、岬の髪をくしゃっと掴んだ。
「じゃあな」
通り過ぎようとする瞬を、岬は腕を掴んで引き止めた。
「待ってよ、質問に答えてよ」
「お前に話すことはないよ」
「こっちはずっと探してたんだよ」
「……」
「四年前、なんで突然いなくなったんだよ。その四年のあいだ、瞬は何してたんだよ。今は大学に通ってるのか、ピアノは今でも弾いてるのか!?」
瞬は腕を掴んでいる岬の手を思い切り振り払った。
「いっぺんに聞くな」
「ご、ごめん。でも……」
「何も言わずに引っ越したのは悪かった。事情があったんだ。あのあと暫く東京に住んでたけど、去年の春に戻ってきた。ピアノは嗜む程度に弾いてるだけだ」
背中を向けた瞬に、岬は続けて問いかける。
「事情ってなんだよ!?」
「うるさい、事情は事情だ」
「俺は瞬が突然いなくなってショックだったんだぞ!」
「だからピアノが下手くそになったのか?」
笑いながらわざとそんなことを言う。
「なんだよ……会いたかったのに」
「俺は会いたくなかったよ」
呟いた瞬の言葉に、再び岬の目が滲んだ。
「……だって、あの時……」
「あの時?」
「中二の冬……」
「おっと、言うなよ。俺は忘れたいんだ」
「なんでだよ、そっちが」
「だから言うな。お前も昔のことはきれいさっぱり忘れろ」
今度こそ瞬は背を向けてラウンジを出て行った。それでも岬は食い下がる。
「また来るんだろ!? いつ来るんだよ!」
瞬は振り返らずに右手をひらひらと振った。
「絶対来いよ! 来なくても見つけてやるからな!」
答えることなくエレベーターの中へ姿を消した。
感動的とは程遠い再会だった。見た目も違う、喋り方も違う、そして素っ気ない態度。それでも音色は変わっていなかった。
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