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追憶 1‐Ⅱ

***

「寝てるのか」

 耳元で囁かれて、伏せていた頭を起こした。図書室で勉強していて、いつの間にか眠っていたらしい。窓の外に目を向けると、すっかり日が沈んで暗くなっていた。岬を起こしたのはクラスメイトの斎藤だった。

「もう図書室閉まるって。お前、いっくら電話しても出ねぇし、ラインも返って来ねぇしよ」

「……校内で電話は駄目だろ」

「休み時間の度に、ちらちらスマホ気にしてる奴がよく言うぜ」

「母親から連絡があるといけないから」

 岬の父の具合が良くないことは斎藤も知っている。岬の言う「母からの連絡」が何を意味するかは察しがつく。斎藤はそれには返事をしなかった。

「帰ろうぜ。今日はどうすんの。親父さんの病院に行くのか」

「……少しだけ、寄ろうかな」

 外に出ると、ひんやりとした空気に身震いした。三日前の日中は汗ばむほど暑かったのに、空を覆う雲の量が増えると、途端に寒くなる。四季の中で「秋」はあってないようなものだと岬は思う。唯一、秋を感じるとすれば、どこからともなく漂う金木犀の香りにだった。

「さっき、教科書の下にあった本って、楽譜だろ?」

「ああ、うん」

「今でもピアノ弾くの? 高一の時に一度だけ岬が弾いたの聞いてから、聞いたことないんだけど」

 入学して間もないくらいの頃だった。口下手であまり社交的とは言えない岬は、友人を作るのが苦手だった。音楽の時間が始まる直前の休み時間、クラスの一部の女子がピアノを弾いて遊んでいて、そのうちのひとりが『乙女の祈り』を弾きだした。決して下手ではないが、時々不自然に聞こえる音が気持ち悪くて、つい口を出してしまったのだ。

「そこ、ナチュラルじゃないかな」

 その一言でピアノが弾けることがバレてしまい、女子たちに「何か弾いて」と迫られたのだった。目立つ行為は好きではないが、女子が弾くピアノに触発されたところだったので、岬はどうせならとメンデルスゾーンの『狩の歌』を弾いた。思いのほか力が入ってしまい「やりすぎたか」と後悔した矢先、その場にいたクラスメイトが岬を取り囲んで持て囃した。岬がクラスに馴染むきっかけとなった出来事だった。

「最近はあんまり弾いてないかな」

「また弾いてよ。明後日の音楽の時間にでもさ」

「やだよ。見せびらかすほどの腕じゃない」

「あの時は堂々と弾いてたじゃねぇか」

「もう、忘れたいからやめてくれよ」

「なんで? 俺はあの時、ピアノを弾いてたお前に惚れたんだぜ」

 と言って、斎藤は肘で岬の肩を突いた。

「斎藤はすぐ、そういう風に言う」

「俺が『そういう主義』だって知ってんのに、はぐらかすなよ。こんなに毎日、愛の告白してんのに、お前はほんと冷たい奴だよ」

 斎藤はことあるごとに岬を好きだと言う。本人は自分の恋愛対象に性別を問わないと臆面なく言うが、それは岬に対してだけであって、他の友人たちはおそらく知らないし、そんな素振りを微塵も見せない。斎藤が岬に自分の趣向と、岬に好意があることを打ち明けたのは高校二年の頃だ。それを聞いてたいして驚きも嫌悪もなかったけれど、何故自分なのかと謎だった。しかもカミングアウトした時の斎藤は特に思い詰めた様子もなく、あっけらかんとしていたので、もしかしたらからかっているだけかもしれないと思い、岬は「そうなんだ」と軽く受け止めていた。岬のこと好きなんだよな、俺と付き合おうぜ、などと、軽々しく言う。そして岬はそれを「はいはい」とあしらうのがいつもの流れだ。しかし最近はちょっと違う。

「で、どうなんだよ。そろそろ俺と付き合ってくれてもいいだろ」

「また言ってる」

「俺はいつだって本気だぜ」

 肩に回してきた腕を、岬は何食わぬ顔で退けた。斎藤は野球部に所属していたので岬より上背も横幅もはるかに上回る。近付かれると潰されるんじゃないかと思うほどの威圧感が若干、苦手だ。大体、台詞に反してこういう軽薄な態度が好ましくない上に、誠意を感じられない。

「俺、別に男が好きってわけでもないんだけど」

「そのわりにはっきりした拒否反応は示さないのな。自覚がないだけで、お前は俺の同類だよ」

「勝手に決めるな」

「キスくらいさせてくれてもいいだろう」

 ――くどい。

 少し前までは一方的に想いを告げられるだけだったのに、一ヵ月ほど前からそれに加えて、付き合えだのキスさせろだの要求してくるようになった。そして執拗に迫って岬がうんざりしたところで笑いながら退く。

「あからさまに嫌な顔するな」

「お前、本当にしつこいんだよ」

「でも俺のことは嫌いじゃないだろ?」

「あんまりうざいと嫌いになる」

 斎藤は「イヤン、いけず」と、気味の悪い声でおどけてみせた。ちょうど別れ道だったので助かったと思った。

「じゃ、また明日な」

「うん」

「岬、あんまりひとりで抱え込むなよ。俺だっていつでも力になるぜ」

「……ありがとう」

 斎藤が悪い奴ではないことは岬も分かっている。だからしつこく迫られても結局一緒にいるのだ。好きだと言われて嫌だとは思わない。ただ、本気とも思えない。岬が好きだからというより、岬の本質的な部分を見抜いて認めさせようとしているだけのような気がしてならなかった。

 少し顔を見るだけのつもりで父の病室に寄ったが、父は寝息を立てていた。腫瘍が大きすぎるのか胸に圧迫感があって眠れないのだと言っていたので、気持ち良さそうに眠る父を起こす気にもなれず、コンビニで買ったゼリーとヨーグルトを冷蔵庫にしまって、そのまま病室を出た。帰りしなにラウンジを横切った。人がいるどころか電気のひとつも点いておらず、グランドピアノは暗闇に包まれていた。

 あれから毎日、病院に通っているが、瞬の姿を見かけたことはない。看護師にそれとなく探りを入れてみたものの、瞬のことを知る者は誰一人いなかった。ただ、「そういえば、たまに弾きにくる子がいるわね」と、年配の看護婦が呟いていたので、通い続ければいつか会えるのは確かだろう。どういう理由でこんなところを出入りしているのかは分からないが、とにかく早く会って聞かなければならないのだ。四年前、何故いきなり姿を消したのか。

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