追憶 1
岬がピアノを習い始めたのは六歳の時だった。近所にピアノ教室があるという理由だけで母に連れてこられた。音楽会社直営の教室ではなく、個人が運営する小さな教室である。
記憶のない幼児期から歌を歌ったり、おもちゃの楽器で遊ぶことが好きだった岬にとって、ピアノ教室は恰好の遊び場だった。練習を嫌がることもなく、出された課題曲を卒なくこなし、同等のレベルの生徒たちと藹々とぬるま湯のような空間で、ただ楽しく通った。
瞬が教室に来たのは岬が小学六年になった頃である。両親の都合で近くに越してきて、地域に馴染むための手段として手始めにこの教室に入会したという。当時、中学二年になりたてだった瞬は年長者ということもあり、岬の目にはそれはとても大人びて見えた。きりっとつり上がった目に引き締まった頤は凛々しく、雌雄を区別するために形成途中である思春期独特の骨格は、細身ながらも逞しかった。岬もそれなりの成長を伴ってはいたが、体格に関しては標準より遅れ気味だったので、二歳の差をかなり大きく感じたものだ。
挨拶代わりに瞬が弾いた、ショパンの『黒鍵』。慣れ合いの場とはいえ、兄弟子にあたる悪餓鬼たちを屈服させるには充分な腕前だった。自分に音楽の才能があるのかないのかを考えたこともなく、それどころか巧拙の区別もつかないほど子どもだった岬でさえ「ただ者ではない」と震えた。
長い指が鍵盤の上を踊り、それによって奏でられる軽快な音色には心底感動したし、恐れ多くも嫉妬心を覚え、とてつもない敗北感に襲われた。瞬の指はたった一曲で、岬の小さな胸にそれほどの衝撃を与えたのだ。
ただ、そこで「ピアノを頑張ろう」とは思わなかった。もともと指導者が作曲や編曲を得意とする電子オルガン奏者であったので、生徒も電子オルガン奏者が大半を占めている。様々な機能を使いこなして迫力ある音楽を身軽に演奏する生徒の姿には憧れるものがあった。その影響で岬も電子オルガンに移行しようと思っていた頃に、あのように実力の差を見せつけられたのだ。奮い立つどころか畏縮してしまい、実力者を前にしてピアノ奏者を名乗るのは子どもながらに恥ずかしいと思った。
「僕はエレクトーンがしたい。ピアノはつまらない」
ピアノは地味だ、男がやるものじゃない。
その度に瞬が寂しそうな眼差しを寄越してくるのを知っていたが、気付かない振りをした。
エレクトーンに移行するきっかけが掴めず、かと言ってピアノをする気にもなれずに発表会を二ヵ月後に控えた時のことだった。
「岬くん、とりあえず今回は連弾だけでいいからピアノで出ましょう」
「嫌だ、ピアノはしたくない」
「これならどう? 簡単だし、岬くんならすぐ弾けるわ。先生と一緒ならいいでしょ?」
そう言って渡された楽譜がドリー組曲『子守歌』だったのだ。CDで聴いてみたが、題名の通り眠たくなる曲だし、小六の男が弾くにはダサいと思った。
「こんなの絶対、弾きたくない! もっとかっこいいのが弾きたいんだよ!」
「どうして?」
そこで初めて、瞬が岬の我儘に物申したのである。
「ピアノほどかっこいいものはないよ。ひとつしかない音を、様々な音色に変えられるんだよ。エレクトーンみたいに派手に弾くのも悪くないけど、弾き手の魅力を最大限に引き出してくれるのはピアノだと僕は思う」
もしこれが他の生徒や指導者の言葉なら単なる戯言として受け流したか、むやみやたらに反発しただろう。怯んだ岬に瞬は表情を和らげて、中学生にしては大きな手で岬の手首を取った。
「一緒に弾こう。僕が教えてあげる。プリモは岬くんでいいよね?」
岬は初見でもそれなりに弾けるが、その場合奏法記号は無視する。ある程度音が取れたら、あとから装飾するのが岬のやり方だ。瞬はそのやり方を最初から分かったうえで、岬に合わせてくれた。ぎこちなく「弾くだけ」の岬と違って、瞬のセコンドは抜群の安定感を持っていた。隣で弾いているのが恥ずかしい。けれど、瞬は岬の音を決して馬鹿にしなかった。
「岬くん、上手だね。さすがだ」
たとえ世辞であっても、瞬に褒められると嬉しかった。「上手だね」と言われると、もう一度弾こうかという気になるし、間違えても「気にしないで」と言われると、かえって足を引っ張りたくないと思う。
「子守歌っていうくらいだから……寝たかなと思ったのに、すぐ目を開けちゃうとか、泣きそうになった赤ちゃんに慌てるとか」
赤ちゃんが身近にいないから分からない、と答えると、
「じゃあ、犬や猫でもいいよ。自分が可愛いと思うものを思い浮かべてみればどうかな。岬くんは何が可愛いと思う?」
「……おたまじゃくし」
その時初めて見た、くしゃっとしたあどけない笑顔は印象的だった。
瞬の自宅は、ピアノ教室から十分ほど歩いたところにあった。教室の近所に構えてある岬の家からは瞬のマンションが見える。仕事が忙しい両親は家にいることがあまりなく、食事もいつもひとりで済ませるのだと言う瞬に、安気に遊びに行ってもいいかと訊ねたら快く迎え入れてくれた。広いリビングに置かれているグランドピアノ。誰にも邪魔されずに二人だけで練習できるその時間は、他のどんな時間よりも有意義に思え、いつからかレッスン日の火曜日と土日以外は瞬のマンションに入り浸るようになった。
瞬に弾けないものはなかった。流行りの歌謡曲やアニメソングも、岬が探した楽譜を渡せば完璧に弾きこなしたし、電子オルガンと同等、もしくはそれ以上の迫力があった。なんでもいいので弾いてくれと頼んだら大抵はベートーヴェンやモーツァルトなどのクラシックを弾く。
「最近、これをよく弾くんだ」
そう言って披露した『クープランの墓〝トッカータ〟』。瞬きをするのも惜しく、息をする暇を与えないほどの華麗な指使いと多彩な音で岬を圧倒した。
そもそもピアノを弾くには相当な力が要る。普通に弾いただけでは、部屋の中では大きく聞こえてもホールや野外に出れば何を弾いているのか分からない。腕の力、手首の力、全身の力を十本の指先に集中させて垂直に鍵盤を打つ。楽譜にピアニシモと記されていても実際はフォルテ並に、フォルテシモと記されていれば、椅子から体が浮くくらいの、指で全身を支えるほどの力が必要だ。瞬にはその力が備わっている。そして決定的な違いは表現力だった。小鳥がさえずるように軽やかに肩を揺らし、胸が引き裂かれるような絶望の中で嘆いたかと思えば、草原を吹き抜ける風のように腕をしならせて、体中で喜びと希望を歌い上げる。ただ楽しいだけの遊び感覚でやってきた岬にはそんな技量はないし、ちょっとやそっとの練習で身につくものではなかった。足を引っ張りたくない一心で練習には打ち込めたが、比べる対象のレベルが高すぎて上達したのかしていないのかすら分からない。発表会当日に観客から贈られた拍手も、所詮は瞬の力があってこそで自分に向けられたものではないのだと素直に評価を受け入れられなかった。
『誰のどんな褒め言葉や非難も気にすることはない。ただ自分の感性に従うだけだ』
「なにそれ」
「モーツァルトの言葉。人の評価をいちいち気にして音楽が楽しくなくなったら意味ないよね」
中学二年になっても体格に恵まれず、小柄で線の細い岬と違って、瞬は急激に背が伸びてますます骨格は成人に近付いていた。変声を二度迎えて声も低くなり、ふいに近付いて「岬、」と呼ばれると、うろたえることすらあった。とりわけスポーツをしているわけではないけれど、長年ピアノを弾いている両腕は程よく硬いし、俊敏な動きと体の軸の安定を保つために毎日欠かさず行うというストレッチの効果か、瞬の動きは日常生活のどの場面においてもひとつも無駄がなかった。
それに比べて岬はどこかそそっかしい。物を取ろうとしたら他の物まで一緒に落とすか倒すし、ピアノでも瞬のように素早く動かそうとすれば必ずミスタッチをする。体の動きと構造の違いを目の当たりにする度に、自分の未熟さを思い知らずにはいられなかった。
瞬が本を読んでいる隣でピアノを弾いている時だった。ショパン『ワルツ第七番嬰ハ短調op.64-2』。マズルカリズムの主題からの、もつれそうに回転するピウモッソ。指が絡まって苛立っている岬に背後から近づいた瞬が、腕を伸ばした。
「無理に速く弾く必要はないんだ。もっと哀愁を漂わせて優雅に弾くんだよ」
「……よく分からない」
「早く弾くのに気を取られて音が軽くならないようにするんだ」
鍵盤に置かれた筋の入った甲、オクターブも軽々届く長い指。ピアノに愛された手である。その指が鍵盤の上を滑るかと思いきや、鍵盤から離れ人差し指と親指が岬の顎を捉えた。ゆっくり引き上げて振り向かせる。目が合い、切なげに見下ろす瞬の眼に動けなくなった。唇を被せてくる。避けようと思えば避けられたのに、そうしなかったのは咄嗟に予感したことに期待があったからだ。
岬は特に男が好きなわけではない。自分が男であり、瞬も男であるという認識もある。それなのに、どう考えても不自然で道理に外れているこの事態を、岬はこれが当然であり、なるべくしてなったことだと決め付けていた。違和感なく受け入れられるほど、瞬の動きがよどみなかったのだ。
触れるだけのキスから、押し付けられる。唇を合わせながら、瞬は岬の頬と首筋を、形を確かめるようにして撫でた。それだけの行為がものすごく良かった。シャツのボタンがふたつ解かれ、胸元から瞬の手が滑り込む。探る手つきで左胸を這い、岬は思わず声を洩らした。
体を離した瞬は岬の襟元を整え、何事もなかったかのように「弾いてあげるよ」と、岬を席から退かせて何食わぬ様子でピアノを弾いた。自分はボタンを留めるのにすら手が震えるというのに、彼の精神力の強さに感心した直後、最後の最後で瞬に限ってあり得ないミスタッチをして、動揺しているのは自分だけじゃないと岬はいくらか安堵した。
それからキスをするようになった。
ピアノを弾いている時、本を読んでいる時、背後から抱き付かれて振り向きざまに。うっかりうたた寝をしたら、窒息しそうになるくらい長いキスをされて起こされる。家を出る時は必ず抱き締められて、キスをしてから帰った。瞬とキスをすることになんの疑問も抱かなかった。その行為が何か特別なことを意味するのかと聞かれても分からない。ただ、こういう関係がずっと続くのだろうと思っていただけだった。
――あのラヴェルは良かった。
葉先から零れ落ちる音の雫。水面に広がる波紋のように染み渡る。
晩年、記憶障害に悩まされたラヴェルは、自ら批判していた『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いて、こう言ったという。
「なんて美しい曲だ。――誰が書いたのだろう」
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記憶のない幼児期から歌を歌ったり、おもちゃの楽器で遊ぶことが好きだった岬にとって、ピアノ教室は恰好の遊び場だった。練習を嫌がることもなく、出された課題曲を卒なくこなし、同等のレベルの生徒たちと藹々とぬるま湯のような空間で、ただ楽しく通った。
瞬が教室に来たのは岬が小学六年になった頃である。両親の都合で近くに越してきて、地域に馴染むための手段として手始めにこの教室に入会したという。当時、中学二年になりたてだった瞬は年長者ということもあり、岬の目にはそれはとても大人びて見えた。きりっとつり上がった目に引き締まった頤は凛々しく、雌雄を区別するために形成途中である思春期独特の骨格は、細身ながらも逞しかった。岬もそれなりの成長を伴ってはいたが、体格に関しては標準より遅れ気味だったので、二歳の差をかなり大きく感じたものだ。
挨拶代わりに瞬が弾いた、ショパンの『黒鍵』。慣れ合いの場とはいえ、兄弟子にあたる悪餓鬼たちを屈服させるには充分な腕前だった。自分に音楽の才能があるのかないのかを考えたこともなく、それどころか巧拙の区別もつかないほど子どもだった岬でさえ「ただ者ではない」と震えた。
長い指が鍵盤の上を踊り、それによって奏でられる軽快な音色には心底感動したし、恐れ多くも嫉妬心を覚え、とてつもない敗北感に襲われた。瞬の指はたった一曲で、岬の小さな胸にそれほどの衝撃を与えたのだ。
ただ、そこで「ピアノを頑張ろう」とは思わなかった。もともと指導者が作曲や編曲を得意とする電子オルガン奏者であったので、生徒も電子オルガン奏者が大半を占めている。様々な機能を使いこなして迫力ある音楽を身軽に演奏する生徒の姿には憧れるものがあった。その影響で岬も電子オルガンに移行しようと思っていた頃に、あのように実力の差を見せつけられたのだ。奮い立つどころか畏縮してしまい、実力者を前にしてピアノ奏者を名乗るのは子どもながらに恥ずかしいと思った。
「僕はエレクトーンがしたい。ピアノはつまらない」
ピアノは地味だ、男がやるものじゃない。
その度に瞬が寂しそうな眼差しを寄越してくるのを知っていたが、気付かない振りをした。
エレクトーンに移行するきっかけが掴めず、かと言ってピアノをする気にもなれずに発表会を二ヵ月後に控えた時のことだった。
「岬くん、とりあえず今回は連弾だけでいいからピアノで出ましょう」
「嫌だ、ピアノはしたくない」
「これならどう? 簡単だし、岬くんならすぐ弾けるわ。先生と一緒ならいいでしょ?」
そう言って渡された楽譜がドリー組曲『子守歌』だったのだ。CDで聴いてみたが、題名の通り眠たくなる曲だし、小六の男が弾くにはダサいと思った。
「こんなの絶対、弾きたくない! もっとかっこいいのが弾きたいんだよ!」
「どうして?」
そこで初めて、瞬が岬の我儘に物申したのである。
「ピアノほどかっこいいものはないよ。ひとつしかない音を、様々な音色に変えられるんだよ。エレクトーンみたいに派手に弾くのも悪くないけど、弾き手の魅力を最大限に引き出してくれるのはピアノだと僕は思う」
もしこれが他の生徒や指導者の言葉なら単なる戯言として受け流したか、むやみやたらに反発しただろう。怯んだ岬に瞬は表情を和らげて、中学生にしては大きな手で岬の手首を取った。
「一緒に弾こう。僕が教えてあげる。プリモは岬くんでいいよね?」
岬は初見でもそれなりに弾けるが、その場合奏法記号は無視する。ある程度音が取れたら、あとから装飾するのが岬のやり方だ。瞬はそのやり方を最初から分かったうえで、岬に合わせてくれた。ぎこちなく「弾くだけ」の岬と違って、瞬のセコンドは抜群の安定感を持っていた。隣で弾いているのが恥ずかしい。けれど、瞬は岬の音を決して馬鹿にしなかった。
「岬くん、上手だね。さすがだ」
たとえ世辞であっても、瞬に褒められると嬉しかった。「上手だね」と言われると、もう一度弾こうかという気になるし、間違えても「気にしないで」と言われると、かえって足を引っ張りたくないと思う。
「子守歌っていうくらいだから……寝たかなと思ったのに、すぐ目を開けちゃうとか、泣きそうになった赤ちゃんに慌てるとか」
赤ちゃんが身近にいないから分からない、と答えると、
「じゃあ、犬や猫でもいいよ。自分が可愛いと思うものを思い浮かべてみればどうかな。岬くんは何が可愛いと思う?」
「……おたまじゃくし」
その時初めて見た、くしゃっとしたあどけない笑顔は印象的だった。
瞬の自宅は、ピアノ教室から十分ほど歩いたところにあった。教室の近所に構えてある岬の家からは瞬のマンションが見える。仕事が忙しい両親は家にいることがあまりなく、食事もいつもひとりで済ませるのだと言う瞬に、安気に遊びに行ってもいいかと訊ねたら快く迎え入れてくれた。広いリビングに置かれているグランドピアノ。誰にも邪魔されずに二人だけで練習できるその時間は、他のどんな時間よりも有意義に思え、いつからかレッスン日の火曜日と土日以外は瞬のマンションに入り浸るようになった。
瞬に弾けないものはなかった。流行りの歌謡曲やアニメソングも、岬が探した楽譜を渡せば完璧に弾きこなしたし、電子オルガンと同等、もしくはそれ以上の迫力があった。なんでもいいので弾いてくれと頼んだら大抵はベートーヴェンやモーツァルトなどのクラシックを弾く。
「最近、これをよく弾くんだ」
そう言って披露した『クープランの墓〝トッカータ〟』。瞬きをするのも惜しく、息をする暇を与えないほどの華麗な指使いと多彩な音で岬を圧倒した。
そもそもピアノを弾くには相当な力が要る。普通に弾いただけでは、部屋の中では大きく聞こえてもホールや野外に出れば何を弾いているのか分からない。腕の力、手首の力、全身の力を十本の指先に集中させて垂直に鍵盤を打つ。楽譜にピアニシモと記されていても実際はフォルテ並に、フォルテシモと記されていれば、椅子から体が浮くくらいの、指で全身を支えるほどの力が必要だ。瞬にはその力が備わっている。そして決定的な違いは表現力だった。小鳥がさえずるように軽やかに肩を揺らし、胸が引き裂かれるような絶望の中で嘆いたかと思えば、草原を吹き抜ける風のように腕をしならせて、体中で喜びと希望を歌い上げる。ただ楽しいだけの遊び感覚でやってきた岬にはそんな技量はないし、ちょっとやそっとの練習で身につくものではなかった。足を引っ張りたくない一心で練習には打ち込めたが、比べる対象のレベルが高すぎて上達したのかしていないのかすら分からない。発表会当日に観客から贈られた拍手も、所詮は瞬の力があってこそで自分に向けられたものではないのだと素直に評価を受け入れられなかった。
『誰のどんな褒め言葉や非難も気にすることはない。ただ自分の感性に従うだけだ』
「なにそれ」
「モーツァルトの言葉。人の評価をいちいち気にして音楽が楽しくなくなったら意味ないよね」
中学二年になっても体格に恵まれず、小柄で線の細い岬と違って、瞬は急激に背が伸びてますます骨格は成人に近付いていた。変声を二度迎えて声も低くなり、ふいに近付いて「岬、」と呼ばれると、うろたえることすらあった。とりわけスポーツをしているわけではないけれど、長年ピアノを弾いている両腕は程よく硬いし、俊敏な動きと体の軸の安定を保つために毎日欠かさず行うというストレッチの効果か、瞬の動きは日常生活のどの場面においてもひとつも無駄がなかった。
それに比べて岬はどこかそそっかしい。物を取ろうとしたら他の物まで一緒に落とすか倒すし、ピアノでも瞬のように素早く動かそうとすれば必ずミスタッチをする。体の動きと構造の違いを目の当たりにする度に、自分の未熟さを思い知らずにはいられなかった。
瞬が本を読んでいる隣でピアノを弾いている時だった。ショパン『ワルツ第七番嬰ハ短調op.64-2』。マズルカリズムの主題からの、もつれそうに回転するピウモッソ。指が絡まって苛立っている岬に背後から近づいた瞬が、腕を伸ばした。
「無理に速く弾く必要はないんだ。もっと哀愁を漂わせて優雅に弾くんだよ」
「……よく分からない」
「早く弾くのに気を取られて音が軽くならないようにするんだ」
鍵盤に置かれた筋の入った甲、オクターブも軽々届く長い指。ピアノに愛された手である。その指が鍵盤の上を滑るかと思いきや、鍵盤から離れ人差し指と親指が岬の顎を捉えた。ゆっくり引き上げて振り向かせる。目が合い、切なげに見下ろす瞬の眼に動けなくなった。唇を被せてくる。避けようと思えば避けられたのに、そうしなかったのは咄嗟に予感したことに期待があったからだ。
岬は特に男が好きなわけではない。自分が男であり、瞬も男であるという認識もある。それなのに、どう考えても不自然で道理に外れているこの事態を、岬はこれが当然であり、なるべくしてなったことだと決め付けていた。違和感なく受け入れられるほど、瞬の動きがよどみなかったのだ。
触れるだけのキスから、押し付けられる。唇を合わせながら、瞬は岬の頬と首筋を、形を確かめるようにして撫でた。それだけの行為がものすごく良かった。シャツのボタンがふたつ解かれ、胸元から瞬の手が滑り込む。探る手つきで左胸を這い、岬は思わず声を洩らした。
体を離した瞬は岬の襟元を整え、何事もなかったかのように「弾いてあげるよ」と、岬を席から退かせて何食わぬ様子でピアノを弾いた。自分はボタンを留めるのにすら手が震えるというのに、彼の精神力の強さに感心した直後、最後の最後で瞬に限ってあり得ないミスタッチをして、動揺しているのは自分だけじゃないと岬はいくらか安堵した。
それからキスをするようになった。
ピアノを弾いている時、本を読んでいる時、背後から抱き付かれて振り向きざまに。うっかりうたた寝をしたら、窒息しそうになるくらい長いキスをされて起こされる。家を出る時は必ず抱き締められて、キスをしてから帰った。瞬とキスをすることになんの疑問も抱かなかった。その行為が何か特別なことを意味するのかと聞かれても分からない。ただ、こういう関係がずっと続くのだろうと思っていただけだった。
――あのラヴェルは良かった。
葉先から零れ落ちる音の雫。水面に広がる波紋のように染み渡る。
晩年、記憶障害に悩まされたラヴェルは、自ら批判していた『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いて、こう言ったという。
「なんて美しい曲だ。――誰が書いたのだろう」
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