再会
ピアノの音が聞こえる。
ガブリエル・フォーレ作曲、ドリー組曲『子守歌』。
――素敵な曲だろう?
フォーレが、ドビュッシー夫人の娘のために書いたんだって。夢の中にいるような気分になるね。――
当時、まだ小学生だった岬少年には曲の良さなど分からなかった。与えられた課題曲をただ楽譜通りに練習するだけだ。フォーレの『子守歌』は、発表会で連弾するための曲として岬の希望などおかまいなしに課せられたものだった。
岬は、本当はエレクトーンがしたかった。自分の好きなように音を作り、効果音を入れ、その時流行りのアニメソングや歌謡曲を自分なりにアレンジして、かっこよく弾きたかった。ピアノは音がひとつしかない。地味だと思った。『子守歌』も、「こんな眠たい曲なんか弾きたくない」と思った。
――どうして? ―—
弾きたくないと駄々をこねる岬に、そう訊ねたのは岬より二つ年上の弟弟子だった。
――ピアノほどかっこいいものはないよ。ひとつしかない音を、様々な音色に変えられるんだよ。エレクトーンみたいに派手に弾くのも悪くないけど、弾き手の魅力を最大限に引き出してくれるのはピアノだと僕は思う。――
言っている意味はよく分からなかったけれど、彼はピアノを愛していたし、愛されていた。それだけは小学生の岬も理解していた。
――一緒に弾こう。僕が教えてあげる。――
彼の弾くピアノの音色は最高に美しかった。まっすぐ伸びた長い指が、思いのままに鍵盤を操る。こういう人間がピアニストになるのだろうと思った。その音色が、彼が弾くピアノの音色が好きだった。好きだったのは――、
スマートフォンの無機質なデジタル音で目が覚めた。
早く止めたくて、布団の中から腕だけを伸ばして三回タップする。鳴り止んだ音にホッしながら起き上がり、岬はモスグリーンのカーテンを開けた。太陽の光にやられて一度目を閉じ、そしてゆっくり開けると真っ青の空に雀が二羽、慌ただしく横切った。耳にはまだピアノの音色がはっきり残っている。
***
放課後、購買部で買ったパンで腹ごしらえをしてから図書室で勉強をしていた岬は、鞄の中のスマートフォンが揺れたのがきっかけで、ようやく日が傾きかけていることに気付いた。
『お父さんのお見舞いに行ってあげてちょうだいね』
母からのメッセージだった。言われなくても行くつもりだった、とは思ったが、あえてそれを言う必要もないので『勿論』と短い言葉で終わらせた。
岬の父は二週間前から入院している。半年前に体調不良を訴え、母に頼まれて風邪薬をもらうだけのつもりで軽い気持ちで病院に連れて行った。
「付き添いは君だけかな? お母さん、呼べる?」
医師の言葉に、すぐに岬は父がただの風邪ではないこと、そして病状が良くないことも察した。岬の連絡を受けて病院に駆けつけた母と、すでに勘付いて青ざめている父と三人で医師の話を聞いた。レントゲンに真っ白に写った父の肺。末期の肺癌と診断された。
「ご自宅で好きなものを食べたり、好きなことをして過ごしたほうがよろしいかと」
絶望的な言葉だった。手術が無駄だとしても、治る見込みは少しもないんですか、と岬は問いたかったが、何かしら治療をしたところでかえって苦しませるだけだろう。診察室を出たあと、絶句した両親は顔面蒼白で座り込んでいただけだ。岬はここで自分がしっかりしなければ、と思った。ひとりで再び診察室に入り、医師に訊ねた。
「余命はどのくらいですか」
「そうだね……、長くて半年、ですね」
母には余命を告げなかった。当然、父にもだ。詳しく検査をしてみたところ父の場合は進行が遅く、転移も見受けられなかったので無理をしなければ普通に生活しても問題はないようだった。
「大体さ、診察する直前まで普通に歩いたり食べたりしてたんだから、気にしなければいいんだよ。腫瘍だってずっと昔からあっただろうし、病気が見つかったからって急に元気がなくなるなんて気持ちの問題だと思うよ」
両親を元気づけるのは岬の役目だ。「闘病しながら十年以上生きてる人だっているんだから」、「声を出して笑うのがいいらしいよ」と、とにかく前向きな言葉をかけた。岬の頑張りの甲斐があって、母は「早く元気になってもらわないと海外旅行にも行けないじゃない」と軽口を言えるようになり、父もここぞとばかりに母に甘えてはこれまでと変わらない日常を送った。鼻にチューブを差して酸素ボンベを持ち歩くこと以外は。
父の容体が急変したのは二週間前だ。夜中に突然、バケツ一杯ほどの喀血をした。
「岬、救急車に乗って、先に行って! わたしはあとで行くから」
呑気に「血を拭いてから行く」と言った。
「大丈夫よ。ただ血を吐いただけ。お父さんは死なないわ。だからわたしは準備をしてからゆっくり行くわ」
岬は「父さんの死に目に遭えなくてもいいのか」と訊ねたかったが、母はそれを目の当たりにするのが怖かったのだろう。「お父さんは死なない」という母の言葉を信じてみたくて、何も言わずにひとり付き添った。幸い一命は取り留めたものの即入院となり、父はまだ病院の広い個室に閉じこもっている。
―――
静かな病棟の廊下を迷いなく歩き、まっすぐ父の病室へ向かった。父は一般の病棟ではなく、緩和ケアを目的とした病棟にいる。そこには重症患者たちが集められていて、定期的にラウンジで患者を元気づけるためのイベントが開かれる。七夕祭り、コンサート、そして時々セミプロのピアニストが演奏をしに来る。ラウンジにはグランドピアノがあるのだ。岬は夕陽に赤く染まったラウンジの前で足を止め、そこに寂しく置かれているグランドピアノに目をやった。
――ピアノ、弾きたいな。
小さな願望を胸の奥に閉じ込め、岬は再び歩き出す。
「父さん、入るよ」
扉を開けると、しきりのカーテンが開いて父が顔を出した。テーブルの上にはまだ手がつけられていない、冷めた夕食が置かれている。
「来てくれたのか、岬。勉強しなきゃいけないのに、悪いな」
「大丈夫だよ。さっきまで図書室で勉強してたんだ」
「大学受験の大事な時期に、父さんこんなんで、本当に悪いなぁ……」
「何、言ってんの。悪いと思うなら早く元気になれよ。夕飯、食べてないじゃないか」
「食欲がなくてな」
「食べなきゃ駄目だよ」
「……勉強のほうは、どうだ? 大学には受かりそうか?」
「それ相応の結果は出てる。心配ない」
ゴホッ、と湿った重い咳をし、父はティッシュに痰を吐いた。見せないようにしていたが、血が混じっていた。
「寝不足になったりしてないか?」
「……うん、大丈夫。俺のことは心配しないで。そうだ、母さんがあとで筑前煮を持ってくるって言ってたよ。それなら食べられるだろ?」
「そうか、筑前煮か。母さんの筑前煮は最高なんだ」
そう言って、父は力なく笑った。
陽は完全に沈み、みるみるうちに外は暗くなる。この二週間で痩せてしまった父をひとりにさせたくはなかったが、岬は明日、試験がある。まもなく母が来るだろう。岬はちゃんと食事を摂るようにと言い残し、病室をあとにした。確か、余命宣告された日数の三倍が本来の余命、と聞いたことがある。それが本当なら父はあと一年は生きられるはずなのだ。二週間前は一年どころか、二年でも三年でもいけそうなくらい元気だった。顔色も良かったし、食欲もあった。喀血した途端に、あの沈みよう。ここにきて初めて父はメンタルが弱いことを知る。じき余命宣告を受けてから半年が経つ。
エレベーターを待っている時だった。ピアノの音が聞こえた。ポーン、と、「ド」が鳴り、その数秒後におもむろに演奏が始まった。
「……ラヴェル……」
『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
一八九九年に、モーリス・ラヴェルが作曲したピアノ曲。ラヴェルは自らこの曲を大胆さに欠ける貧弱なものだと批判しているが、それでも多くの芸術家との交流の中で影響を受けながら感性を育てたラヴェルの曲は、辛気臭くも繊細で美しい。それはのちにラヴェル自身が証明することになる。
まるでこの曲がそうさせているような、高校生男子が言うには幼稚すぎるが、魔法でもかけられたかのように、あっという間に魅了された。自然に岬の目尻に涙が滲む。
――この音色、知っている。
美しさの中にある懐かしさ。岬はこの音を出せるのはひとりしかいないと確信していた。誘導されるようにラウンジに向かう。心臓が張り裂けそうなほどに激しく波打つ。徐々に近くなる音色は懐かしさを増幅させた。ラウンジの前で足を止め、入口からグランドピアノの前に座るその人物を見た。記憶の中の人物は漆黒の短髪だったが、目の前にいる人物は人工的に染められた狐色の髪を軽く流れさせていた。切れ長の目、筋の通った鼻、ピアノを弾いている時はいつも口角が少し上がる。『子守歌』を連弾した時の夢を見たのは、再会を知らせるためだったのかもしれない。あの音色が蘇る。
「……しゅ、ん」
呼び掛けたつもりではなかったが、無意識に口にした岬の声に気付いてピアノの音は止まった。音色の主が顔を上げ、視線の先に岬を確認すると、どこか恐怖にも似た驚きの表情で目を大きく見開いた。薄く開いた口が微かに動く。「みさき」と。
「瞬、だろ……?」
岬が問いかけると、瞬は勢いよく椅子から立ち上がって駆け出した。拍子に椅子がガタン、と音を立てて倒れた。瞬は岬を通り過ぎてラウンジを出て行く。
「えっ!? 瞬、ちょっと……!」
追いかけようとしたところ、タイミング悪く看護師に呼び止められてしまった。父の退院の日を聞かれ、岬は「あとで母に聞いてくれ」と残して、瞬のあとを追った。
エレベーターは下に向かっている。階段を使おうかと思ったが、どこの出口に出るか分からない。数分遅れでロビーに着いた頃には、それらしい人物は見当たらなかった。
「なんで……逃げるんだよ……」
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