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茶の攻防2

 ―――

 車のサイドガラスをコココン、とせっかちにノックする音がして、目を開けた。微笑して車内を覗き込んでいる野田と目が合った。ロックを解き、助手席のドアが開かれると、野田は乗り込む前に背後を振り返り、一礼した。その先を覗き見ると、身なりを整えた中年の女性が立っている。女性が立ち去る姿を見送った野田が車に乗り込んだ。満足そうに微笑んだままシートベルトを締めた。

「済んだのか」

「はい」

「いつ納骨したんだ?」

「納骨は十二月の月命日だったみたいです。年末だったんで仕事が忙しくて中々行けなくて。……ようやく行けましたよ、墓参り」

 野田は中学時代からの親友を亡くしている。仕事や人間関係でのストレスに耐え切れなくなって、首を吊って自死したのだ。筒井祐之介。野田の親友の名である。筒井の住んでいたアパートの大家から通報があり、現場に赴いたのは俺と島村、あとは鑑識員が数名だった。野田はその日非番だったので、本当ならその姿を見ずに済んだ。なのに、来てしまったのだ。

のちになぜ現場に来たのかと聞いたら「嫌な予感がしたから」としか言わなかった。遺体の状態は腐敗が進んでいてかなり損傷していた。俺たち刑事はいくら死体を見慣れていると言っても、何も感じないわけではない。目を背けたくなったり逃げ出したくなるものもある。見ず知らずの他人のものでもそうなのだ。ましてや親友ともなると精神的ダメージはかなりでかかったはず。

 筒井祐之介の遺体と、それを見て取り乱す野田。……かつての晴斗と自分を見ているようで、無性に苛々したのを覚えている。
 上司なら、一言慰めの言葉を掛けてやるべきだったかもしれない。けれども俺は慰めるどころか自尊心を傷付けて煽った。自分でも大人げないと思う。嫌われて当然だ。――なのに、こいつは今、俺の隣にいる。

 ミラー越しに視線を感じたのか、野田はちらりと俺を一瞥して片眉を上げた。何、見てんだよ、とでも言いたげな顔だ。公的には上司と部下の関係である俺たちも、私的では一般的に恋人同士というやつのはずだ。普通ならこういう場合は照れたりするもんじゃねぇのか、と舌打ちのひとつでもしてやりたくなるが、最近分かったことがある。こんな時は何も言わずに凝視する。一度顔を背けていた野田は、視線に耐えかねて徐々に耳を赤くし、

「前、見て下さい。事故ったら笑いモンですよ」

 と、俯いて減らず口を叩くのだ。俺はそれを見ては可愛いんだか腹立たしいんだかで、口元を綻ばす。

「えらくスッキリした顔してるな。墓参りに行けたのがそんなに嬉しかったのか」

「それもありますけど」

「墓前で何か話でもしたのか?」

「声にはしませんけどね。祐之介の母親もいたし」

「なんて言ったんだ」

「なんでそこまで言わなきゃいけないんですか」

 小憎たらしいが、一気に頬を赤くしたのが引っ掛かったので問い詰めてみることにする。

「減るもんじゃねぇだろ、教えろ」

「嫌です」

「言ってみ?」

「なんでそんなエラそうなんですか」

「お前は俺のもんだろうがよ」

 野田はそっぽを向いて頭を掻いている。とどめの一言は効いたらしい。

「……近況を報告しただけですよ」

「ほう、俺にも報告しろ」

「……だ、から……仕事の具合とか、ぼちぼち元気だっていう挨拶とか」

「そんだけか?」

 野田は流れる景色を眺めながら沈黙した。ふてくされているわけでも怒っているわけでもなさそうだ。赤信号で停止した時、おもむろに話し始めた。

「……生前、祐之介が言ったんです。『みっちゃんは、いつかその上司のことを好きになってそうだね』って」

「その上司って誰だよ」

「菅野さんに決まってんでしょ。今だから言いますけど、俺、祐之介と会う度に菅野さんの愚痴言ってたんです」

「いい度胸してんな」

「まあ、最後まで聞いて下さい。その日もバーで祐之介に散々愚痴を聞いてもらってたんです。祐之介はただ相槌を打って親身になって聞いてくれました。そして最後にさっきの台詞を言ったんです。勿論、その時は菅野さんのこと嫌いでしたから絶対ないって思ったし、実際そうかもしれないと薄々気付いた時も、なんでよりによってって思いました」

 自分で聞き出しておいてなんだが、仮にも上司に向かっていけしゃあしゃあと無礼なことを言えるもんだと感心する。

「だけど、祐之介はこうも言ったんです。『人を好きになるのに理屈はいらない』って。それを思い出したら、ちょっと素直になろうかなって思って、……お前の言う通りになったぜっていう報告もしてきました」

「『お前の言う通り』ってなんだ」

「それ以上聞くんですか」

「さっさと言え」

「察しのいい菅野さんなら分かるでしょう。以上です」

「……ふん、その報告をしたから嬉しそうなのか」

 すぐさま野田は「いえ」と否定する。

「それもあるんですけど、今までずっと祐之介に自分の本質を隠したままあいつを傷付けて、そのくせ自分は菅野さんとヤりまくってたことに罪悪感があったんです。あの世で幻滅してんだろうな、とか。でも、ずっと認めたくなかったことを認めた途端に、それまでいくら思い出そうとしても思い出せなかった祐之介の顔を鮮明に思い出すことができて、それが嬉しかったんです」

 俺が生前の晴斗の姿を思い出せなかったのと同じだろう。互いに経緯は違っても、大事な人間を亡くして苦しみ、何かのきっかけで身動きの取れない泥沼から抜け出すことができた。俺の場合そのきっかけは野田が与えてくれたが、野田の場合は、

「認めたくなかったことっつーのは、俺のことか?」

 返事はなかった。口をつぐんで目を閉じている。これ以上は何がなんでも言いたくないらしい。強情な奴である。
 山中の短いトンネルを抜けると古い茶屋があり、そこで軽く昼食を取ることにする。営業していないのかと思うほど寂れた外観。内装もその期待を裏切らず、時代遅れを感じさせる古臭さ、良く言えばノスタルジック。勿論、客はひとりもいない。四人掛けのテーブルに着くと、おおかた八十近い老人男性が現れ、店の一角に備えてあるブラウン管テレビを点けた。

「どうも、いらっしゃい」

 メニューを訊ねたら、ちょっとした定食と蕎麦がある程度だと言うので、俺たちは揃って蕎麦を頼んだ。

「菅野さん、蕎麦好きですね」

「さっと食えるからな。……完全に趣味でやってる店だな」

「でも俺、こういう店のほうが好きです。落ち着くから」

 野田はテーブルの端にある飲み口が少し欠けた湯呑を取り、ポットの緑茶を注いで俺の前に出した。

「菅野さんの好きそうな色ですよ」

 味の薄そうな茶である。真ん中に茶柱が立っている。俺はゆらゆら揺れるその茶柱を暫く眺め、ひと口で茶柱ごと口に含んだ。

「ひとつ聞いてもいいですか?」

「なんだ」

「以前、菅野さんは俺に興味があったって言ってましたけど、どこに興味があったんですか」

「聞きたいのか」

「……聞いてみたいですね」

「茶だ」

「茶!?」

 ――刑事課一係に配属されました、野田瑞樹です。――

 初めて野田を見た時、最悪だと思った。俺が殺したいほど憎くて最も忌避感を抱く男にそっくりだったからだ。今思えば背丈や体格は全然違うし、よくよく見ると顔のパーツもすべてが似通っているわけではない。醸し出す雰囲気も違う。顎をちょっとだけ引いて上目で睨む、あの表情が、そっくりだった。俺よりひと回り小さい野田は、どうしても俺を見る時は見上げなければならない。仕事の相談、連絡、報告、ちょっと雑談をするにもあの表情を向けられる度に嫌悪を覚えた。これからこいつと一緒に仕事をしなければならないのかと、初めて仕事を嫌だと思った。

 そんな野田への印象が変わったきっかけ――。それが緑茶なのだ。

ショッピングセンターで起きた強姦事件の犯人が捕まらずに、ピリピリした空気が一係を包んでいた頃だった。いつもは温和で笑顔の多い署長も、その頃は難しい顔を見せることが多かったように思う。

 会議を終えてデスクに戻った時、見るからに苦そうな真緑の緑茶が置かれてあった。俺はうっすら味が付いている程度の薄い緑茶が好きだ。同じ緑茶を置かれていた署長はそれを「美味い」と言って啜っていたが、俺は手をつけなかった。捜査でストレスが溜まっているところに、いかにも不味そうな茶を飲む気になれなかったからだ。暫くしてその緑茶を下げた野田が、もう一度茶を運んできた。定時三十分前の、喉が渇きかけた頃だった。今度はさっきより色が薄め。だが、茶葉が浮かんでいる。俺はまた手をつけずに、これみよがしに自販機でペットボトルの水を買った。かなり嫌味な行動に野田はあからさまに顔をしかめていたが、茶を出さない日はなかったし、何より妥協を許さなかった。

 野田なりにどんな茶なら飲むのか考えたのだろう。やたら濃い茶が出てきたり、熱い茶だったり、ぬるい茶だったり、色んな茶を出してきた。挙句の果てには麦茶を出してくることもあった。見ているうちに面白くなって、俺は自分の好みの茶が出てくるまで絶対に手をつけないと決めた。新人刑事のお茶汲みは、地味な作業でいて大事な仕事のひとつである。上司の好みを知り、それをタイミング良く出すことは捜査で勘を働かせるためのいい訓練になるのだ。それを知ってか知らずかは分からないが、俺は野田の小さな仕事でも手を抜かない姿勢は評価した。むろん、それを口にはしない。

 そんな人知れぬ攻防が一週間ほど続いたある日、ついに俺の好みに合う茶を出してきた。ほとんど茶葉が入り込んでいない、薄い黄緑の緑茶だ。目の前に出されて「おっ、」とは思ったが、すぐには手をつけない。野田が立ち去って暫く経ってから、書類作成の合間に飲んだ。美味い、というより、ようやく茶が飲めたことが嬉しかったのと、この茶が野田の試行錯誤を重ねた努力の成果だと思うといじらしくもあった。パソコンの陰から茶を飲んだ俺を見て、小さくガッツポーズをした野田を横目に見た。可愛い奴じゃないか、と思わず噴き出したのだった。個人的な筋違いの恨みや憎悪に左右されることなく、純粋に「野田瑞樹」という男に興味を持った瞬間だった。

「言われてみれば、そんなこともありましたね」

「これで満足したか」

「まあ……」

「お前も言え。なんで俺に惚れたんだ」

 野田はこれには表情を変えずに「分かりません」と即答した。

「なんででしょうね。ヤッてるうちにってやつですかね」

「淫乱か」

「お互い様というか」

「俺はちゃんと愛があるぜ」

「菅野さん、そんなキャラでしたっけ」

「お前には真っ向じゃないと伝わらないと気付いたからな」

「らしくないっすね」

「悪くないだろう」

 野田は顎を少しだけ引き、含み笑いをしながら俺を見て、緑茶を啜った。
 俺を散々苦しめて、俺が散々傷付けた顔。それでも、もし野田があの男に似ていなかったら、俺は今でも過去を引き摺っていただろう。

「はい、野田です」

 店内にけたたましく電話の呼び出し音が響き、野田が応答した。微かに洩れる声からして大沢係長のようだ。野田は終始冷静に受け答え、「すぐ向かいます」と電話を切る。

「すんません、国道で神輿の集団にトレーラーが突っ込んだらしくて、死者も出たみたいなんで、行ってきます」

「そいや、今日は八幡で祭りだったな。そりゃ大ごとだ。けどな、『行ってきます』ってお前、どうやって行くつもりだ。足もねぇのに」

「あ、」

「送ってってやるから、さっさと食え」

 ちょうど運ばれてきた蕎麦を、味わう余裕もなくかき込んだ。こういう仕事をしていたら、プライベートも何も関係なく呼び出されることなどしょっちゅうである。これから情事に持ち込もうというところで邪魔をされることもしばしば。事件を起こすならせめて平日にしてくれと願いたいが、そうもいかないのが事故と犯罪だ。

 慌ただしく店を出て車に乗り込んだ。現場がどの程度の被害かは分からないが、暫く戻って来れそうにないだろう。俺はシートベルトを付ける前に野田の髪の毛を掴んで引き寄せ、そのクソ生意気な口を塞いでやった。一瞬だけ強張らせるも、すぐに力を緩めて応じる。こういう時は素直なものだ。今すぐシートに押し付けて懲らしめたいところだが、時間がないのでここは辛抱することにする。早くも欲情しつつある野田は、何か物言いたげな熱のある眼で俺を見た。

「……菅野さん……」

「名前を呼べ」

「……康介さん、……好きです」

「知ってるよ」
 
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