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究極の愛4

 雲ひとつない青空の下には、辺り一面、純白の雪。ザクザクと小気味いい音と、その感触を足の裏に感じながら喧騒の中を歩いた。早く静かな河川敷を歩きたい。疲れ切った身も心も、せめて自然に癒されたかった。わざわざ京都くんだりまで来て、体を張って、これで明日も何も得られなかったら無駄足もいいところだ。
 岡本晴斗の両親は何か隠しているはずなのだ。何か……、

「野田くん」

 軽い息切れとともに背後から呼び掛けられた。振り返ると、急いでコートを羽織って追いかけてきたらしい岡本晴斗の父親がいた。白い息を放ちながら、俺に近寄る。

「少しいいかな」

「え? はい」

 付いてきて欲しいと言われて、答える間もなく歩き出した父親の後ろを追った。つい先程まで家にいたのに、わざわざ追い掛けて来てまで何事かと、不安と若干の期待を抱いた。

 バス停から市バスに乗り、雪の影響で混雑した街中を渋滞に見舞われながら、数十分ほどかけてある寺院墓地に着いた。まだ足跡の付いていない雪に覆われた静かな墓地を、父親の背中に付いて歩いた。長年、雨風にさらされた影響か、ひとつだけやたら変色した小さな墓。ここに岡本晴斗の遺骨が納められているのだろう。墓前に並んで立つと、ようやく父親が口を開いた。

「すまないね、こんなところに連れて来て。家内は事件以来、人間不信でね。どうも正直に話すことに抵抗があるようだ。あれも可哀想な人間なんでね、大目に見てやってくれ」

「……いえ、いいんです」

「わたしも家内と同じで、警察は嫌いなんだ。特に刑事は。だけど当時、ひとりだけ親切な人がいてね。手続きや捜査状況を逐一教えてくれて、助かったこともあったんだ。ええと、確か……」

「山下……」

「そう、山下刑事。知ってるのかい?」

「僕の伯父なんです」

 半信半疑の視線を向けられたが、動じずにいるとすぐに信じてくれた。

「そうか、どうりで、どこか似ているなと思ったんだ」

 父親は墓石に積もった雪を払い落とし、古くなった花を抜いた。

「わたしはね、やっぱり今でも信じられないよ。晴斗が殺されたことも、晴斗が同性愛者だったことも。正直言って、晴斗が男性と付き合っていたと聞いた時はショックだったし、息子ながら嫌悪や恥を感じたよ。しかも世間にも公になってしまった。当然、色んな噂もあっただろう。君は……当時の事件のことを知っているのか?」

「当時は中学生だったので記憶は曖昧です。けど事件の記録はすべて保管されているので資料を見返すことはできます。ここへ来る前も、……見ました」

「晴斗の例が特別とは思わないが、君はそれを見てどう思った?」

「……刑事として、というより個人として、彼がもし自分の身内や恋人なら立ち直る自信はないと思いました。けれど、殺されたという事実や遺体の状態を見てそう思っただけで、同性愛について嫌悪はありませんでした。なぜなら僕もそうだからです」

 この人の驚いた顔を見るのはもう何度目だろう。そして同じことを言われた。

「君には本当に驚かされてばかりだな」

 ふたりで墓石を眺めながら冷たい風に当たった。
 いくら世間が同性愛に寛大になってきたとはいえ、この父親のように相手が息子でも嫌悪を抱く人間はいる。そして、やはりそれを実際に自分に向けられることを考えたら、カミングアウトすることを躊躇ってしまうし、仮に好きな相手ができても一生想いを告げられずに終わるだろう。

 ―― 一生……一生か……。
それならいっそ、俺も死んだら自分の意志とは関係なく、両親にも友人にも知ってもらえるのだろうか。

 そんな馬鹿な考えが一瞬よぎった時、

「君になら見せてもいいかもしれない。そう思って、連れてきた」

「……何を……」

「晴斗の遺留品の中に宛名も差出人も書かれていない手紙があった。晴斗のアパートじゃなく、高知にいた頃の晴斗の部屋で見つけたから、警察には取られずに済んだんだ。しっかりと糊でくっついていてね、いくら本人はいないと言っても無理やり破いて中を見るのは気が引けるくらいだった。だけど燃やすのも躊躇われた。妻は手紙の存在を知らないんだ。晴斗が同性愛者であることを僕以上に拒絶していたからね。……だから、納骨の時に骨壺と一緒に墓に入れたんだ。わたしが思うに、その手紙は菅野くん宛てじゃないかと。だけど確信がないから、彼には渡せずにいた。……君が、野田くんが、確かめてくれないか」

「いいんですか?」

「どうせ君も、何か見つかるまで引き下がらないつもりだったんだろう?」 

 父親はしゃがみ、墓石の下部にある納骨室の扉をカタカタ揺らしながら開いた。急に緊張して全身が鼓動で激しく揺れている。「あった」と父親が出したのは、小さな朽ちかけの菓子箱である。蓋を開けると中には湿気でよれた一通の手紙があった。俺はそれを、震えながら、手に取った。父親に視線を送ると軽く頷いたので、中身を一緒に破らないように封を切った。
……菅野への手紙……というより、岡本晴斗の菅野に対する、これ以上ないありったけの想いが、綴られていた。


 ぼくはお前が好きで、お前もぼくを好きでいてくれる。
 こんなに幸せでいいんだろうか。
 こんなに幸せなのに、きっと僕らを祝福してくれる人間は少ない。
 なんでぼくは男なんだろう。なんでお前が男なんだろう。
 普通に男女としての愛なら、きっとこんなに苦しくない。
 いつかお前と離れるかもしれないと思うと、
 お前をぼくのものにしたくて、殺してしまうかもしれない。
 康介、ぼくはお前が好きでたまらないよ。
 好きすぎて一緒にいるのが辛い。
 余所見をしてみたけれど、かえって愛しくて仕方がない。
 どうすればいい?
 ぼくがお前を本当に殺してしまう前に、
 誰かぼくを殺してくれないか。
 そうすればきっと、楽にお前を想うことができるのに。


 いつも俺を抱く時みたいに、菅野は岡本晴斗を抱いていたんだろうか。
 いや、もっと丁寧に、優しく触れるように、抱いたかもしれない。
 耳元で何度も名前を呼んだり、愛を囁き合ったりしたのだろうか。
 もし岡本晴斗が殺されなかったら、きっと俺は菅野を知らないままで、菅野も俺を知らないままで、どこかで交わることすらなかっただろう。

一粒涙を落とすと、もう止められなかった。俺は、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。嗚咽も抑えられず、冷たい雪の上に膝をついて、うずくまって泣いた。父親は俺の手から手紙を抜き、目を通した。これを親が読んだらどんな気分になるのだろう。読まないほうがいい、だけど、読んで欲しい。父親は俺の背中に手を当て、ゆっくりさすってくれた。

「……そうか、野田くん。君は、菅野くんのことが好きなんだね」

「……ち、がいます……」

「隠さなくていいんだよ。好きじゃないと彼のためにここまでしないだろう。この手紙を読んで泣いたりしないだろう。……ありがとう、野田くん。君のおかげだよ。息子が同性愛者であることを、認めたくなかったのかもしれない。わざわざ墓に入れてまで、蓋をしてきた。だけど、君のおかげでようやく、晴斗の想いを知ることができた。……ありがとう」

「……ちが……俺は、」

「この手紙を菅野くんに渡してくれないか。そして君が、菅野くんと幸せになりなさい」

 違う、俺は菅野なんか嫌いだ。
あんな自分勝手な奴、好きになるはずがない。

 好きになる、はずが……ないのに、思い出すのはいつも菅野の体温ばかり。ぶっきら棒で、不器用で、乱暴なのに、俺を抱く手は優しいことを本当は分かっている。屈託なく笑う顔を、俺にも向けて欲しい。俺を認めて欲しい。俺を見て欲しい。

 ……そうか。俺は、菅野が……好きなのか。

 ――好き……。菅野が、好きだ。

 好きなのに、自覚したところで、もうどうしようもない。
 手紙を読んで、負けたと思った。このふたりの間にどうやって割り込むんだよ。俺はきっと、この愛を越せない。
岡本晴斗に、菅野に、ふたりに、負けたんだ。

 ***

 翌日、京都を出る前に仏花を持って岡本家を訪ねた。改めて仏壇に手を合わせ、岡本晴斗の遺影に手紙を菅野に渡すと約束をして、家をあとにした。ふと視線を感じて門の前で振り返ると、二階の窓から弟の勇斗がこちらを見ていた。目が合うと勇斗は水色のカーテンを勢いよく引いて、それから姿を見せなかった。
 これから新幹線で戻ったら、地元に到着するのはちょうど仕事が終わる時間帯だ。俺は菅野のマンションの駐車場で待っているとメッセージを入れておいた。すぐに既読になったが、返信はなかった。

 地元の駅を出ると、正面に堂々と立っているツリーのイルミネーションに目を奪われた。ブルーとホワイトの電飾が夜の駅前を灯している。こういうイルミネーションすら今まで興味がなかったのに、思わず立ち止まって見上げてしまうほど心身疲れているのかもしれない。コートのあいだから風がすり抜けて身震いをし、足を踏み出した。
 予定より少し遅れた午後六時に、マンションの駐車場に着いた。柱の陰に黒のハリアーが停まっている。菅野の車だ。車に近寄り、フロントガラスから中を覗くと、ハンドルに伏せていた菅野が頭を上げた。車から降りた菅野は、なんの迷いもなく俺を抱き入れる。分厚い胸板に額を預け、逞しい腕にされるがままに包まれた。
 岡本家で熱を出した時に提供された食事や布団よりも、ずっと温かい。

 ――苦しいだろ、骨が折れるじゃないか。

 俺はその腕の中で深呼吸をして、菅野の胸を押して逃れた。

「何をしてたんだ」

「『そうだ、京都にいこう』って思って」

「呑気に旅行でもしたのか。俺の気も知らねぇで」

「勿論、ちゃんと土産を持ってきました」

 そして例の手紙をちらつかせた。

「その紙切れが土産か?」

「ただの紙切れじゃありません。手紙です。菅野さんへ、……岡本晴斗から」

 菅野はあきらかな動揺を見せた。

「どういうことだ」

「晴斗さんの家族が、京都に住んでるんです。で、会いに行ってきました」

「なんのために」

「だから、この手紙を……晴斗さんが菅野さんを愛していたという証拠を探すために。苦労しましたよ。門前払いされて大雪の中、朝から晩まで、飲まず食わずで家の前で五日間もずーっと張り込んだんですから」

 多少話を盛ったが、それくらいなら許されるだろう。苦労したのは事実なのだから。

「お前はまた、勝手な真似しやがって」

「菅野さん、晴斗さんが本当に自分のこと好きだったのかってずっと疑問に思ってたんじゃないですか? 浮気されて、ちゃんと本心も聞けないまま別れてしまったことに、苦しんでたんじゃないですか? だから晴斗さんを無理やり自分のものにして殺した犯人が憎くて仕方がない」

「……」

「これが答えです」

 そして俺は手紙を、菅野に差し出した。菅野はすぐには受け取らず、暫くその手紙に視線を落とした。早く読め、と菅野の胸に手紙を押し付けたら、ようやく菅野は受け取り、手紙を開いた。
 これで少しでも菅野が救われるのなら、絶対に読むべきだ。だけど同時に岡本晴斗への想いは再燃するだろう。菅野の中で、岡本晴斗は絶対に忘れることのない、永遠に初恋の人であり恋人なのだと再確認するはずだ。

 ――羨ましい。

 記憶も想いも綺麗なままで、菅野の人生を支配できる。ここまで菅野を苦しめるほどの存在が、岡本晴斗が、羨ましい。計算したわけではないだろうが、結果的にそうなった岡本晴斗の愛は、脅威以外の何物でもない。菅野は、ぽたぽたと目から雫を落とした。初めて見る菅野の泣き顔。

 ――ああ、本当にもう、勝てないんだな。

「……晴斗さんは菅野さんのことを、本当に愛していたみたいですね」

 菅野は情けないくらいに眉を緩めて、流れる涙もそのままに切なげに俺を見下ろした。再び抱き締められたが、たぶん今、こいつが抱き締めているのは違う人間だろう。俺は色んな意味を込めて「それじゃあ」と、離れた。

「どこに行くんだ」

「帰ります。……もう来ませんし、菅野さんとも、もう寝ません」

「帰るな」

「代わりは御免です」

「違う、俺は本当に……」

 そして菅野は俺の背後に目をやると、言葉を詰まらせて硬直した。その視線を追って振り返る。

「――勇斗……」

 俺たちのすぐ傍で立っていたのは、本来この地にいるはずのない、岡本晴斗の弟の、勇斗だった。

「な、なんでここに」

「……晴斗の弟?」

「まさか、京都からずっとつけられてたんでしょうか」

「……てめぇは本っ当に、ドジで間抜けだな。それでも刑事か」

 勇斗は今にも食い掛ってきそうな正気を失った目で俺たちを睨んでいる。

「あんたが菅野か」

ゆっくりこちらに歩み寄りながら、ポケットから果物ナイフを取り出した。三人のあいだに緊張が走る。

「あんたが兄ちゃんの男か。あんたが、兄ちゃんをずっと苦しめてたんだろ」

「それは、」

 反論しようとする俺を菅野が止めた。菅野はいつものポーカーフェイスを取り戻し、冷静に勇斗を見つめている。

「……刑事なんか……みんな死ねばいい。兄ちゃんを殺した奴も、兄ちゃんを苦しめた奴も、死ねばいいんだ」

「……気持ちは分かる。だが、お前が今取っている行動は、お前の兄貴を殺した奴と同じ行動だぞ。捕まりたくなければナイフを放せ」

「うるさいッ!! 兄ちゃんを殺されてから、俺たち家族はボロボロだったんだ! 兄ちゃんのいない世界で生きてたって仕方がないんだよッ!!」

 ナイフを構えて、駐車場のライトが刃先にキラリと反射した瞬間、勇斗は菅野に向かって走り出した。俺は咄嗟に菅野の前に立ちはだかった。が、至近距離だったせいで防御する暇もなく、鋭利なナイフが脇腹を貫いた。

「――……っ……ぐ……」 

「野田!!」

 ナイフを伝って血が滴り落ちる。その血を見て我に返ったらしい勇斗は、ひどく取り乱しながらナイフを抜いた。

「……あ、あ……うそ……俺は、わ、悪くない……」

 血がとめどなく溢れ、膝が崩れる。今まで経験したことのない痛みにすぐに視界がかすんだ。地面に倒れ込む前に菅野に支えられた、と思う。

「お前、どうして……! 寝るな、しっかりしろ! ――瑞樹!」

 ――なんで、名前を……。


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