archive: 2020年04月 1/1
カルマの旋律8-2

父の前にはもう出られないと思った。秀一は眠った父に布団を掛け直すと、挨拶もなく足早に病室を去った。マフラーとキャップで顔を隠しながら涙が止まらなかった。 どうして父のところへ行ったのか分かった。父が心配だったからじゃない。職も生活もすべてを失って「佐久間秀一」という人間の存在すら危うくなってきた中で、唯一血縁である父になら、例え顔が別人でも声や会話で「秀一だ」と断言して認めてもらえるかもしれない...
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カルマの旋律8-1

父が肝臓を悪くして入院したというのは、今年に入ってすぐ連絡があったので知っていた。秀一が高校に入ったあと、仕事でミスをして職を失った父は酒でストレスを発散するようになった。もともと酒癖が悪く、酔うと悪いほうへ人が変わるので、秀一は父が酒を飲むのが嫌だった。そんなものを飲む暇があったら職を探せと説得もした。 ――親に説教するなんざ生意気なんだよ、てめぇはよ! ―― 仕方がないので学校に許可を貰ってバイ...
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カルマの旋律7-3
*** ところどころに鼠色が混じった、一面を雲が覆う寒空の日曜日。神崎は車を走らせて地元へ向かっていた。今住んでいる中心市街地からはそれほど離れていない、高速道路で二時間ほど走ったところにある小さな町だ。かつて暮らしていた家と母校がある。ただし家には用はない。 両親が亡くなってから姉と二人で暮らしていた神崎は、姉に医学部へ行かせてもらった。幸い両親が遺した蓄えと保険で大学に行けるだけの額はあり、...
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カルマの旋律7-2
――― 神崎はワインを飲み干したあとのグラスをそっとテーブルに置いた。そっと置いたはずなのに、ちょっとしたガラスの音がやたら大きく聞こえる。 ――俺の顔を返せ! ―― 返してなどやるものか。まだまだ恨みは晴らし足らない。それなのに、ややもすれば秀一の最後の泣き顔だけをはっきり思い出す。 *** 診療が終わる頃に、ひとりの患者が駆け込んで来た。午後の四時に診察の予約を入れていたのに六時を過ぎても現れず、...
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カルマの旋律7-1
新しいカーテンに変えた。新しいワイングラスを買った。散らばった本は出版社ごとに並べなおした。壊れたらまた変えればいい。秀一に滅茶苦茶にされた部屋は、数日後にはすっかり元通りになった。「先生、それではいったん、失礼しますね」「ああ、ありがとう。また頼むよ」 秀一が出て行ってから、神崎は家政婦を雇った。正確には、もともと雇っていた家政婦だったのを呼び戻しただけだ。還暦は過ぎている所帯持ちの女性で、雇...
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カルマの旋律6-5
*** 思い出したくもない過去を回想するうちに、歩いてマンションまで戻ってきてしまった。街中に佇むマンションを見上げて、どうして戻って来たのか自分を責めたい。友人に励まされて何か希望を見出したかっただけなのに、思いがけず本質を見抜かれてしまった。 秀一は神崎を最初から嫌いだったのではなかった。一度もこちらを見ようとしなかったから、無視をされたから、馬鹿にされたから、悔しさのあまり嫌いになったのだ...
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